2014年12月31日水曜日



via inside IndieTokyo https://www.facebook.com/inside.indietokyo/photos/a.491153117680657.1073741828.483778145084821/631400660322568/?type=1



via inside IndieTokyo https://www.facebook.com/inside.indietokyo/photos/a.491153117680657.1073741828.483778145084821/631400633655904/?type=1



via inside IndieTokyo https://www.facebook.com/inside.indietokyo/photos/a.491153117680657.1073741828.483778145084821/631400603655907/?type=1

[World News #148] ダルデンヌ兄弟最新作『サンドラの週末』 『ある子供』、『少年と自転車』など映画祭受賞レース常連のジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ兄弟の最新作が日本にやってくる。 『サンドラの週末』(原題:deux jeurs, une nuit)は彼らの最新長編映画であり、最高傑作でもある。マリオン・コティヤール(彼女はその名声にも関わらず、ダルデンヌ兄弟の作品では長い間なんとも色気のない役ばかり演じている。)演じるサンドラは、工場の仕事を失う。夫の分まで働かなければならない彼女は、元同僚たち一人ひとりのもとに、彼らのボーナスをサンドラの給料に回すことで、また雇ってくれるように雇い主を説得してほしいと訪れて回る。かれらの反応は様々だが、なかなか首を縦に振る人は現れない。ある同僚はこう言う。「あなたが仕事に復帰してほしいとは思っているけど、そうすると私が生活できなくなるの」 こういったテーマの作品は、最終的に観客の同情を誘うことが多い。しかしそれに対してダルデンヌ兄弟は、観客にその解釈を任せている。寓話的で、いろいろな解釈が可能であり、道徳学の実験をしているようでもある。登場人物の生活の中に、依存や性的な不安が存在することを許容しており、最後には、確かな明らかにするわけではないもののそういった問題の存在を感じさせている。人物像を多面的に見せ、余韻をもたせて最後の解釈は観客に預けるというやり方が何ともダルデンヌ兄弟的であり、観客の興味を引くところである。 カンヌ映画祭に正式出品され、すでに数々の映画祭で受賞している。また、アカデミー賞外国語映画賞のベルギー代表にも選ばれており、オスカーの行方も注目である。日本での公開は、2015年5月。 則定彩香 横浜国立大/新文芸坐シネマテークゆるキャラのりさだちゃん。https://twitter.com/nnnorisada 参考 http://www.filmcomment.com/article/review-two-days-one-night-dardennes

from inside IndieTokyo http://www.facebook.com/pages/p/483778145084821

via IFTTT

2014年12月25日木曜日

Check Out Jack O'Connell's Bloody Eye in the Poster for 'Unbroken' by Angelina Jolie -...

[World News #147]  アンジェリーナ・ジョリー監督 “Unbroken”  クリスマスの今日、米国でのプレミアを迎える、女優のアンジェリーナ・ジョリーがメガフォンを撮った『Unbroken』が物議をかもしている。本作は太平洋戦争にあって捕虜として日本陸軍から虐待を受けた経験を持つイタリア系アメリカ人、ルイ・ザンペリーニ(Louie Zamperini)氏の生涯を描いた作品だ。今年7月に鬼籍に入ったザンペリーニ氏は戦前、「ヒトラーのオリンピック」として知られる(レニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』で有名な)1936年のベルリン・オリンピックでアメリカ代表として5000メートル走に出場した陸上選手でもあり、ランナー時代の彼の姿も本作で描かれている。脚本はコーエン兄弟が担当する。  本作はローラ・ヒレンブランド(Laura Hillenbrand)氏が2010年に上梓し、ベストセラーとなった同名の書籍を下敷きにしている。作品は、ザンペリーニの生涯を讃える内容であるが、その中では日本軍によるザンペリーニ氏への暴行・虐待行為が描かれており、宣材として使われているポスターは確かに過激といってよいものに見える(※1)(このポスターは複数あるうちのひとつ)。本作品のこうした側面が、インターネットを中心に波紋を呼んでいる。  欧米主要メディアの反応は様々である。英国のGuardian誌では、本作は「語りの変奏や、キャラクターの繊細さといった不必要な装飾を施すこと無く、彼(ザンペリーニ)の驚くべき勇気と生還の物語を描いた」作品として賞賛されている(※2)。アメリカ国内では賛同の声も多い中、ニューヨーク・タイムズ誌は本作を「アカデミー賞獲得へのキャンペーン映画」(※3)であるとこきおろす。  ジョリー氏は、幾度かのゴシップを経て、現在は俳優のブラッド・ピット氏と夫婦の関係にある。慈善活動に力を入れていることでも知られる彼女がメガホンを取るのはこれが二度目で、前作はボスニア・ヘルツェゴビナ内戦を扱った『最愛の大地』(2001)であるが、筆者は未見であるため、今作がどのような作品であるかは、さしあたっては予告編を見て判断するしか無い(※4)。コールドプレイが本作へのサウンドトラックを提供したことや(※5)、ジョリー氏が水疱瘡にかかってハリウッド・プレミアを欠席したことなど(※6)は、日本メディアでも報じられた。  太平洋戦争を背景として旧日本軍が描かれており、かつ戦勝国の監督が製作していることから、日本国内で物議をかもすのは、当然といえば当然である。しかし仮にこれが、日本の作家が作った作品であったらばどうだろうか。結局のところ、作品の評価というものは、作品を見て判断するしかないことだろう。果たして、日本での公開はされるだろうか。   (※1)http://ift.tt/1zUWvfC (※2)http://ift.tt/1Gyi0pp (※3)http://ift.tt/1AFcJe8 (※4)http://ift.tt/1xYURbv (※5)http://ift.tt/1pF0Y4M (※6)http://ift.tt/1zUWto6 井上遊介

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1zUWvfC

via IFTTT

2014年12月23日火曜日

[World News #147] 映画学校は本当に役に立つのか?  現在、日本にも数多くの映画学校が存在し、有名映画人がそこで教鞭を執っています。また、マーティン・スコセッシなど映画学校出身の映画作家も多く、近年ではむしろ映画学校で学んだ経験のない映画人を探す方が難しいかも知れません。しかし、映画学校で学ぶことは本当に必要なのか。あるいは少なくとも役に立つのでしょうか。映画学校の学費は年々高騰し、一方で映画製作費はデジタル化によって劇的に下がりました。映画製作を学ぶよりも、実際に自分で撮った方が良いのではないでしょうか。こうした疑問を、IndieWireのポーラ・バーンスタインがインディペンデント映画作家たちにぶつけ、彼らからの回答をまとめています(#1)。様々な立場からの異なった意見が存在し、バランスの取れた議論となっていると思われますので、その幾つかを抜粋して紹介します。 ------------------------------------ アンナ・リリー・アミールプール Ana Lily Amirpour 映画作家(代表作『ア・ガール・ウォークス・ホーム・アローン・アット・ナイト』) 同作品により、2014年最も期待すべき映画作家の一人として様々な賞を受けた ------------------------------------  以前、こう言ったわね。「映画作りというのはセックスみたいなものよ。やり方は一つじゃないの。そしてそれを学ぶには、自分でやってみるしかない」。今でもこの通りだと思うし、付け加えるなら、他のアーティストの作品作りを手伝うための場所は道具として使えるってことね。私はUCLAの映画学校で脚本を学んだけど、それがLAに引っ越す格好の理由になった。そこで何人かの良い友達と会ったし、その一人は私の映画編集者になったわ。あそこでは2年間で5本の長編映画脚本を書いた。でも、私は映画学校で映画作りの方法を学んだり、物語を語る方法を学べるなんて期待してなかった。だって、そんなことできないから。  映画学校は道具であって、道具はそれ自体では役に立たないものだと思う。道具が目的を持つには、他に沢山のものが必要なのよ。それは、他の何かを作るためにあるものなの。でも、道具になるのは映画学校ばかりじゃない。映画を見ることだってそうだし、好きな作品の脚本を読むこと、好きな監督のDVD特典を見てその舞台裏を学ぶこと、カメラを手にして作品作ってみること、世界を旅して回ること、本を読むこと、音楽を聴くこと。自分がクリエイティブになれて、自分がやってることや人生そのものに魅了されることであれば、何でも道具にするべきなの。映画というのはまさに人生を生きることであって、これは映画学校で得られるものじゃないわ。ヘルツォークがまさにそれを言い当ててたけど、彼はこう言ったの。「アフリカで生きるボクサーは、彼が世界で最高の映画学校を卒業するよりもフィルムメイカーとして相応しい訓練を受けている」。 ------------------------------------ アーロン・カッツ Aaron Katz 映画作家(代表作『コールド・ウェザー』『ランド・ホー!』) マンブルコア派の重要な作家の一人と呼ばれている。 ------------------------------------  僕にとって、映画学校に通った経験は二つの意味で重要だった。一つ目は、そこで実践的なアイディアを得られたこと。つまり、映画作りの技術的な側面だね。僕の学校は映画作りのスタイルに於いてとても保守的で、そのおかげで僕らは、映画作りが伝統的にどのようにあるべきものだったか理解できた。僕は、そこで学んだ方法からしばしば逸脱するんだけど、でもああした基礎があるおかげで、自分の見つけた新しい手段が有効だって逆に分かるんだよ。二つ目に重要なのは、そしてこっちが一番大切なんだけど、その後の人生で映画作りの協力者になってくれた沢山の人たちと出会えたことかな。 ------------------------------------ ロバート・グリーン Robert Greene 映画作家、編集者(代表作:『アクトレス』『フェイク・イット・ソー・リアル』) 「インディペンデント」誌が選ぶ、10人の最も注目すべき映画作家2014にリストアップされたドキュメンタリー映画作家。 ------------------------------------  私は映画教育の重要性を強く信じている。だからこそ、他の全てを捨てて、ミズーリ大学ドキュメンタリージャーナリズム科の創設に関わることにしたんだ。しかし、そこで学生たちに伝えたいのは、私自身が持つ基本的な信念に基づく。それはつまり、「正しい映画学校」なんてものは時間の無駄でしかないってことだ。確かに、完全に無駄ではないかも知れない。若者たちが自分で探求したり作業するための時間を持つことはいつだって良いに決まってる。そしてそれが、映画学校の提供できる最高のものなんだ。だが、私の経験で言えば、学生にとってもっと良いのは、他のフィルムメイカーの現場に入る術を見つけることだろう。例外はある。カリフォルニア芸術大学やハーバード大学感覚民族誌学研究所などがそうだ。しかし、大抵の映画授業ってのは、次のクリストファー・ノーランになりたがってる子供たちを捕まえて、彼らのポケットから金を吐き出させるための装置でしかないように見える。私はミズーリでそれよりもうちょっとマシなことができればと望んでいるんだけど。私自身はニューヨーク市立大学で映画を学んだが、それが良い経験だったとは言えない。 ------------------------------------ アレックス・ロス・ペリー Alex Ross Perry 映画作家(代表作『カラー・ホイール』『リッスン・アップ・フィリップ』) 『リッスン~』でロカルノ国際映画祭審査員特別賞を受賞。次世代のアメリカ映画を担う人材の一人として期待されている。 ------------------------------------  こうした議論を、映画学校が役に立つか/そうでないかという二者択一に押し込めるのは単純化しすぎだと思う。どんなものでも、ある人に役立つ場合があれば、別の人には役立たないってことがある。思うに、映画作家になりたい人間にとって、「単なる学生」として他に何もしなくて良い贅沢を与えられるのはこの上ないポジションなんだ。「本当の人生や仕事や責任」なんかから離れて「単に映画が作りたいだけ」の数年間を過ごして、それを役立てることができるかどうかは、その学生次第だ。僕の経験では、授業とバランスとりながら、クラシック映画見に行ったり、ビデオ屋の店員として仕事する中で知識を仕入れたりするのは、素晴らしいことだった。もし、たいていの学生が普通の学校でするように、お楽しみの間の義務のようなものとして映画学校に通っていたとしたら、僕は単に単位を取っただけで、映画作家にはなっていなかったに違いない。 ------------------------------------ ハル・ハートリー Hal Hartley 映画作家(代表作『トラスト・ミー』『シンプルメン』) ------------------------------------  僕は1980年から84年まで、ニューヨーク州立大学パーチェス校に通った。それは低中所得者階級向けに作られた学費の安いアートスクールで、奨学金まで付いていた。ここに通えたのは、僕の人生で最高の出来事だったよ。毎月185ドルの奨学金を返し終えたのは、2作目の長編『トラスト・ミー』を撮り終えて数年経ってから、1992年ごろだったのを覚えてる。卒業してから7年後だね。  当時、映画作りに関わる様々な作業を学ぶことが、学科の中心になっていた。しかし、僕らの先生は、映画作り以外の興味を僕たちが持つよう強く勧めていた。僕らが自分自身の力で自分が関心を持てる対象を見つけること、そしてそれを表現する適切な手段を見つけることこそがその目的だったんだ。  教育は大切なもので、時間を費やすに相応しいと僕は思う。どんな教育であっても。映画教育に関しては、最近ではラップトップで学べるし、カメラも安い訳だから、それ自体としてさほど重要な物ではなくなったと思うけど。(80年代には、映画撮影装置を使えるってだけで意味があったんだ。)  でも、若い人たちは出世競争から離れた場所で自分の作品を向上させる機会を持つべきなんだ。人間としても学び、自分が本当に興味を持つ対象を探し、商売の世界で成功するプレッシャーとは無縁に自分の感覚を養う。挑戦して失敗しても許されるような場所でね!だって、ものごとを学ぶってのはそういうことだから。保護施設だね。束の間の。苦痛や悩み、妥協や失望なんてものは、どうせその後味わうことになるんだから。 それに、目的がハッキリしてそのための情報も経験も豊富に持った大人に囲まれて学んだり作業する機会を持つことができるわけだし。 僕は、自分があんな安価に教育を受けることができて、いつか罰が当たるんじゃないかって感覚をずっと拭い去ることができなかったくらいだよ。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ 12/26(金)19:00『私たちの好きな八月』 ミゲル・ゴメス特集@新文芸坐シネマテークにて上映! http://ift.tt/1uR44n5 #1 http://ift.tt/1GGgamw

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/13zIFUj



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1E6tYZN



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1E6tYc7

2014年12月20日土曜日

[World News #146]ソニー・ピクチャーズの映画『The Interview』が公開中止に、北朝鮮によるサイバー攻撃が原因? 今月18日、ソニー・ピクチャーズは12月25日から公開予定だった映画『The Interview』の公開中止を決定した。映画『The Interview』は北朝鮮を題材にしたコメディ風刺映画。セス・ローゲン、ジェームズ・フランコ演じる2人組が金正恩を殺害するため北朝鮮に送られる、という設定だ。フィクションであるといえども「北朝鮮のリーダー金正恩を殺害する」というプロットに、北朝鮮側は公開発表直後から強い反発を示していただけでなく、その過激なテーマにはアメリカ国内の政府関係者、国民からも批判的な意見が寄せられ物議を醸していた。公開直近の今週、アメリカの大手映画チェーンが上映不可との判断を下したのち、ソニー・ピクチャーズが公開中止を決定した(*1)。 ソニー・ピクチャーズは11月下旬から、“Gurdians Of Peace“と名乗るハッカーから攻撃を受けシステムがダウン。同月17日にはジョナ・ヒル、キャメロン・ディアス、アンジェリーナ・ジョリーといった映画俳優や従業員のパスポートやビザのコピー、ビジネス文書といった多数の機密ファイルが公開されていた。さらには『フューリー』『アニー』といった公開前の作品が少なくとも5本流出していたことも発覚(*2)。11月24日には全システムがダウンし、その際には、ソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントのCP画面に「Hacked By #GOP」という言葉とともに「我々はすでに警告した。要求に従わなければ取得した機密データを世界中に公開する」という脅迫文が表示されていた(*3)。今回の出来事は刑事問題だとして、ソニー・ピクチャーズは司法当局と調査を進めるなか、『The Interview』の公開が迫っていることから、北朝鮮と今回のハッキング事件の関連性を調査していた(*4)。その矢先、“クリスマス・プレゼント“と称してPastebinをはじめとする共有サイトに以下のような書き込みがあったことから、今回の一件と北朝鮮との関連性が明らかになった。 *ハッカー集団“Guardians Of Peace”により投稿された文章(*5) 映画『The Interview』が先行上映を含めて公開されてしまえば、面白がっていた者たちに我々は悲惨な運命を与えるだろう。そしてソニー・ピクチャーズ・エンターテインメントがいかに不愉快極まりない映画を製作したのかということを世界中が知ることになるだろう。 世界は恐怖によって包まれることになる。 2001年9月11日のことを思い出すがよい。 我々はお前たちに、その日、その場所には近づかないことを助言する(もし自宅が付近にあるならば、その日は外出しておいたほうがよいだろう)。 その日に起こる出来事はすべて、ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメントの汚い欲が招いたものである。 世界がソニーを非難することになるだろう。 4200万ドル(約50億円)もの予算で製作されるも公開直前で見送りとなってしまった『The Interview』。今後この作品が明るみに出ることはあるのだろうか。なお、YouTubeで閲覧可能だった予告編はここ数日で非公開動画となっている。 記事・内山ありさ(早稲田大学) *1 Sony cancels The Interview release amid threats http://ift.tt/1J4uQxU *2 ‘Fury,’ ‘Annie,’ 3 More Sony Pics Leak Online After Hack Attack http://ift.tt/1yrzEaM *3 Sony Movies Leak Online After Hack Attack http://ift.tt/1v0prx4 *4 Sony Pictures Investigates North Korea Link In Hack Attack http://ift.tt/1w1NGl9 *5 Sony Pictures hackers make terrorist threat against opening of “The Interview” http://ift.tt/1ACNJC1



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1GzK4Zz

2014年12月18日木曜日

NED RIFLE

[World News #145]ハル・ハートリー監督の新作がこの春にVIMEO ON DEMANDで先行配信されるそうです。 今年、日本未公開作を含む特集上映が全国で行われ、すでにDVDも発売されるなどしてハル・ハートリー監督は再度その名を広めました。そして今年、彼の新作『NED RIFLE』がトロント国際映画祭でプレミア上映されました。この新作『NED RIFLE』がアメリカでの劇場公開に先立ちVIMEO ON DEMANDというサービスで先行配信されるようです。ハル・ハートリー監督は独特のスタイルを持ったアメリカのインディペンデント映画監督ですが、彼の映画監督としてお金を稼ぎ生きていく方法、は非常に柔軟です。 彼は新作を撮るためにKICKSTARTERで資金を募った結果、1ヶ月で39万ドル以上もの資金を見事に調達し撮影を開始することが出来ました。こうしたやり方はいわゆるクラウドファンディングと呼ばれるもので、何人もの監督がこの方法で自身の映画を撮っており、ハル・ハートリー監督もその一人になります。 Indiewire誌のインタビュー(*1)で「クラウドファンディングは面白い。何をするべきかどのように行うべきかを知るのにとっても役に立つんです、何故なら産業はどんどん変わっていってるからね。(…)劇場で公開することはほとんどの場合、そのあとに考えることだよ。」と語ります。劇場公開のプロセスまでを含めて予算を集めて制作を行う“賭け”のようなスタイルとは異なり、クラウドファンディングでは劇場公開はそのあとに考えられるものになります。自分の作品を見てくれるひとによびかけるため大きなリスクが減り、多くの出資者の声を聞くことも可能になります、また同じ理由で作品の自由度が上がります。 また、同誌での別の記事(*2)内で「インディペンデント映画監督のなかでも未だに映画は映画館で上映されるのが正統である、と考えてる人たちが多くいます。そして彼らは映画がとても好きです。私も多くのそうした友人を持ちますが、彼らはこう言います、映画は好きだが自分のビジネスモデルと上手くいかない、とね。」そして「もはやまったく劇場にこだわっていません」こうハル・ハートリー監督は語ります。 このように柔軟に現在の状況と向き合いながら、彼は自身の制作を続けます。しかし、同記事(*2)によれば、「その新作が高評価であったにも関わらずどこでもロードショーされないようです。」しかし彼はもはや劇場にこだわらないので、「その代わりにとった方法がVIMEO ON DEMANDでの公開だった」ようです。 また、「VIMEO ON DEMANDでの公開は収入の10%をVIMEO側の利益にすることでその宣伝を受け持つというのです。従来の制作スタイルと最も大きな違いは、権利が監督の側にある」ということのようです。そして「ハル・ハートリー監督が述べるには、クラウドファンディングによるものや自主制作は「1ドルを生みだせばすでに映画は利益を出しています、その時点で映画は既に完済されていますから。」というものになります。このような映画の公開スタイルでは従来と違い、彼に言わせると「より多くの収入が私の下に入ってきます」」と語られます。 このようなハル・ハートリー監督の自由かつ柔軟な発想は、もしかしたら彼の自由な映画のスタイルと大きく繋がっていると言えるかもしれません。こうした制作方法も彼の映画の魅力と呼ぶことは出来るのではないでしょうか。 KICKSTARTERでの『NED RIFLE』のページ http://ift.tt/1gfBzTE (*1) http://ift.tt/1sAA90m (*2) http://ift.tt/1uwloZA 三浦 翔 横浜国立大学3年/映画雑誌NOBODY http://ift.tt/1ofDLiA http://ift.tt/1iv7YL4

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1gfBzTE

via IFTTT

2014年12月16日火曜日

And Soon the Darkness (2010)

[World News #144] アルゼンチンの映画協会がホラー映画ファンドを設立  アルゼンチンの映画、といわれてみなさんどんな一本が思い浮かぶでしょうか。日本ではさほど馴染みがないように思われるかもしれませんが、渋谷アップリンクとアテネ・フランス文化センター共同主催の企画として、今年2月には「アルゼンチン映画の秘宮」(#1)、9月にはアルゼンチンの若き才能として注目を浴びるマティアス・ピニェイロの特集上映(#2)が行われるなどその評価は徐々に高まりつつあるといえるでしょう。  またアルゼンチン本国では、2004年に「成瀬巳喜男監督映画祭」が開催、翌月にアンコール上映も行われており、世界各国の映画とともに日本映画も現地の人々に受容されているようです。  そんなアルゼンチンの映画業界がじきに、ホラー映画の分野で大きく飛躍するかもしれません。南アメリカにおけるホラー映画のジャンル的な発展を目指して、この分野の映画製作に政府が助成金を給付するファンドが設立されたことをIndiewireが報じています。(#3)  この一件は、ブエノスアイレスに拠点を置くサン・テルモ・プロダクションズのブログ内で発表されました。記事を書いたベンジャミン・ハーギンディー氏によれば、アルゼンチン出身でINCAA映画協会の会長を務めるルクレシア・カルドーゾによって設立されたこのファンドは、資金を供給することになる2作品の企画選出後、すぐに出資の呼びかけを開始するよう予定されているということです。    近年のアルゼンチン・ホラーの多様性について、ブログ内では吸血鬼が登場する『Darkness by Day』(2013)や、3Dでジャーロの世界観を体験する『Necrophobia 3D』(2014)、そして今年度のベルリン国際映画祭で批評家からの絶賛を浴びた『The History of Fear』(2014)などが代表に挙げられています。また、オカルトものの『Jennifer’s Shadow』(2004、フェイ・ダナウェイとジーナ・フィリップス出演)や、70年代のイギリススリラーをリメイクした『And Soon the Darkness』(2010、アンバー・ハードとカール・アーバン出演)といった作品は、米スタジオとの共同プロデュースにより製作されているということから、今後の国際的な製作提携にも一層期待が高まることでしょう。  この動きに伴う、アルゼンチンの映画祭事情についての記事がVariety上で公開されています。(#4)記事によれば、ファンド設立の動きと並行して「Blood Window(ブロード・ウィンドウ)」という単独のホラー映画祭が来年度から開催予定にあるといいます。この「Blood Window」とは本来Ventana Sur(ベンタナ・シュール)というローカルフィルム・マーケット内の部分的な催しとして2013年から行われていたものであり、来年度からは2000年から続く伝統的な「Rojo Sangre(ロホ・サングレ)」という映画祭と提携して本格的に開かれることになるようです。ブエノスアイレスで開催予定のこのホラー映画祭は、INCAAとカンヌの架け橋である12月初旬のラテンアメリカフィルム・マーケットと同時並行で行われることもあり、必然的に観客・業界共々の注目を集めることになるでしょう。  そのラインナップは、「Blood Window」の主催側と各国のジャンル映画祭――ファンタスティック映画祭(米・オースティン)、シッチェス・カタロニア映画祭(スペイン)、富川国際ファンタスティック映画祭(韓国)、モルビド映画祭(メキシコ)――のプログラム選定者により決定されることになっています。この中には、スペイン最大の映画祭、サン・セバスティアン国際映画祭のディレクターを務めるホセ・ルイス・レボーディノスもその名を連ねています。  以上のような動きの背景として、2014年を通じて選りすぐりのアルゼンチン映画が次々に予想以上の興行収入を収めたこともあり、アルゼンチンの映画業界には今後一層活発な動きが起こることが期待されます。ホラー映画は長年B級の烙印を押されてきたジャンルですが、映画におけるジャンルとは何か、という問いは今後改めて問い直される必要があるといえるでしょう。 早稲田大学文化構想学部4年 西山 晴菜 #1 http://ift.tt/1IW0bCS #2 http://ift.tt/1nMDDHA #3 http://ift.tt/1x9OAfQ #4 http://ift.tt/1u0BtsZ 『Darkness by Day』(2013) http://ift.tt/1IW0dL3 『Necrophobia 3D』(2014) http://ift.tt/1whIjZH 『The History of Fear』(2014) http://ift.tt/1IW0dL7 『Jennifer’s Shadow』(2004) http://ift.tt/1uRq79d 『And Soon the Darkness』(2010) http://ift.tt/1hFGVIv

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1hFGVIv

via IFTTT

2014年12月14日日曜日

Hope For Film

[World News #142] 産業の未来ーー8つの予言ーー  テッド・ホープ氏はインディペンデント映画のプロデューサーです。氏が製作に携わった作家としては、アン・リー(『ライフ・オブ・パイ』)、ハル・ハートリー(『シンプルメン』『愛・アマチュア』)、ミシェル・ゴンドリー(『エターナル・サンシャイン』『ムード・インディゴ うたかたの日々』)などが名を連ねます。    氏は自身のブログ(※1)でインディペンデント映画を中心に、産業についての先駆的な予測や考察を発信してきました。今回紹介するのはIndie Wireに掲載された氏の記事「映画の未来についての8つの予言」です。この記事からは、ソーシャルメディアや、動画配信の存在感の大きさ、また大手企業のこれまでの経営に対してハッキングという行為がいかに脅威的か、ということなどが感じられると思います。Indie Wireに掲載されていることからもわかるように、氏の立場はインディペンデントなーーこの場合、予算が少ない作家という意味合いが大きいでしょうーー映画の作り手は、こうした新しいメディア、産業システムの変容を「利用」することで、自身の製作に活かすべきだというものです。  とはいえ、日本と米国での産業環境の違いも考慮に入れ、こうした予測は鵜呑みにできるものではなく、また筆者は必ずしもホープ氏の予測に全面的に賛同する訳ではないということも付け加えさせてください。しかしながら同時に、筆者の感触としては、特にウェブを積極的に利用しようとする映画人には、この記事で語られている姿勢の一部は、先駆的であるというよりは、ある種の定説であるのではないかとさえ思います。そういう意味では、日本で暮らす私たちにとっても、無視できない動向について語られているのではないかと思います。 1、非営利的な興行の体制が、今後、地域を問わず映画産業を先導するだろう。  ーー産業の抜本的な改変が迫っている。特定の国が主導するのではなく、世界規模で起こるだろう。サンダンス映画祭、BFI(英国映画協会)、アジア諸国、ラテンアメリカ… 各国でこの動きは始まっているーー 2、大手産業はEメールの内容に気を使わざるをえなくなる。 ーーウィキリークス、スノーデン、そして今回のソニーのハック事件…。業界大手の社員マニュアルには、メールでの言葉の使い方についての細かい指導が加わることになるだろうーー 3、観客は映画を見ながらツイートし、スクリーン上にそれらが表示されるようになる。 ーーもちろん、これを受け入れられない人もいるだろう。映画は神聖なものであるのだから。しかし、これをビジネスにして、映画館側が資金を得るという可能性もある。中国ではそのような動きも始まっているようだーー 4、シネフィルにとって、DVDを購入することは「クール」な行為とみなされるようになる。 ーー音楽産業でアナログレコードが辿ったように。ある種のファッションとしてーー 5、中編作品が作家にとっても、観客にとっても一般的なものになるだろう。 ーー我々には時間がない。観客にとって、70分という尺は、かつての90分映画がそうであったように、魅力的な上映時間となるだろうーー 6、米国での劇場公開と同時にインターネット上での動画配信(SVODなど)をする体制が増加するだろう。 ーーWeinstein社(タランティーノなどの作品を配給する独立映画会社)が「St. Vincent」でこの動きを見せている。海賊版の流通を封じ、ある種のブランド化の効果もあるだろうーー 7、ウェブ上では複数作品の一括配信が進むだろう。 ーーSVOD配信は、例えば25作品を同時に配信するような方向に進むだろう。消費者にわかりやすい選択肢を与えるためにーー 8、GoogleやApple、あるいはAmazonは、制作会社やスタジオを買収するだろう。  ーーGoogle、Appleなどの新しい産業は、資産運営や、物資の管理の方法が非常に優れている。映画の流通システムを考えるとき、こうした会社が映画会社よりも運営面で勝ってしまう可能性があるーー 引用元記事:http://ift.tt/1zImqId ※1 ホープ氏のウェブサイト:http://hopeforfilm.com 文責: 井上遊介

from inside IndieTokyo http://hopeforfilm.com/

via IFTTT

2014年12月11日木曜日

[World News #141] 25年目の『ドゥ・ザ・ライト・シング』!  サミュエル・L・ジャクソンが観客に向かって「ウェイク・アップ!」と叫んだのが1989年(日本公開はその翌年)。スパイク・リー監督・主演によるこのド派手で極彩色の陰惨なコメディ『ドゥ・ザ・ライト・シング』(#1)が、人種差別にも階級闘争にも解決などなく終わりなど存在しないと強烈に宣言してから、今年でもう25年経つ。当時、大学を卒業したばかりだった私は、友人の家でまだ公開前だったこの作品のスクリプトを読んだことを覚えている。パンフレット用にシナリオ採録を書き起こすアルバイトをしていたとのことだが、今の学生には到底信じがたいであろう高額ギャラをもらっていると聞いた。それがバブル時代。あれから日本も世界も大きく変わったように思う。しかし、その根本的な部分ではどうだろう。私たちは果たしてサミュエル・L・ジャクソンのパンチで目覚めただろうか。差別や貧困はもはや過去のものとなっただろうか。  いや、差別にも貧困にも解決などなく終わりなど存在しない。事実、現在のアメリカは再び人種差別問題によって大きく揺れている。ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官による黒人青年射殺事件がその最大の発火点だ。警官が大陪審によって不起訴処分となった後、この決定への抗議行動は全米へと燃え広がっている。そして事件は、ファーガソンだけにとどまらない。ニューヨーク市警の白人警官もまた、課税対象外のタバコを販売した罪で黒人男性を逮捕した際、その背後から首を締め死亡させてしまったのだ。この場合もまた、当該警官は不起訴処分となった。そして、この事件がニューヨークに住む多くの住民たちの記憶から呼び覚ました一本の映画こそ、ちょうど25年前に公開された『ドゥ・ザ・ライト・シング』であったのだ。  このスパイク・リー作品で、大きなラジカセを常に抱え、パブリック・エネミー『ファイト・ザ・パワー』を大音量で流し続けていたレディオ・ラヒームは、物語終盤、白人警官の手によって背後から絞め殺されてしまう。それはまさに、25年後の現在をそのまま予言したかのようだ。この不吉なイメージの一致にインスパイアされ、ニューヨークで一つの興味深いイベントが開催された。『ドゥ・ザ・ライト・シング』スクリプトのライブリーディングである。主催したのは、「合衆国で同じアメリカ人の人権が暴力的に侵害されていることに強い関心を持つ市民たちのネットワーク」(#2)である「Blackout for Human Rights」だ。この無料イベントには、オリジナルキャストを含む俳優たちが多数出演し、ニューヨークのリンカーンセンターを舞台とした(#3)。また、開催された11月28日金曜日は、感謝祭翌日であり、アメリカで最も小売店の売り上げが黒字になるとされることから「ブラック・フライデー」と呼ばれる日でもあった。その黒字のブラックを黒人のブラックへと読み替えようという遊戯的意図がこのイベントには込められていたわけだ。  ニューヨークでの二人の黒人犠牲者に捧げられたこの朗読会は、『フルートベール駅で』監督ライアン・クーグラーと『Newlyweds』監督シャカ・キングによって演出され、『フルートベール駅で』に主演したマイケル・B・ジョーダン、そしてオリジナル作でもピノを演じたジョン・タトゥーロらが出演した。クーグラーは、次のようにコメントしている。「(Blackout for Human Rightsの)ブラックアウトというテーマは、11月28日金曜日を消費者精神(コンシューマリズム)ではなくアクティビズム精神の日へと変化させるものだ。これを踏まえ、私たちはスパイク・リー作品のライブリーディングを行うことが、人々にショッピング以外の別の楽しみを与えることになると考えた。」(#4)  75席のキャパしかない会場では、数時間前から300人以上の観客が列をなしてその開演を待ったという。そして、朗読会がクライマックスにさしかかり、レディオ・ラヒームが警官によって絞殺される場面が朗読された瞬間、俳優たち背後の巨大スクリーンにはファーガソンのイメージが映し出され、会場は沈黙に支配されたとのことだ。その様子をリポートしたIndieWireのGreg Cwikは、次のように文章を結んでいる(#5)。「四半世紀経った現在、それでも『ドゥ・ザ・ライト・シング』がこれほどアクチュアルな問題を私たちに突きつけるのはあまりに驚くべき事だ。それは過去の遺物となるべきものだったのだ。でも、そうじゃない。それがトゥルースなんだよ、ルース!」 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ 12/19(金)19:30『自分に見合った顔』 12/26(金)19:00『私たちの好きな八月』 ミゲル・ゴメス特集@新文芸坐シネマテークにて上映! http://ift.tt/1uR44n5 #1 http://ift.tt/sJ368d #2 http://ift.tt/1FsNevM #3 http://ift.tt/1yJ0zQs #4 http://ift.tt/1xFINcJ #5 http://ift.tt/1z9g6XW

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/1qA7UAr



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1slxlRX



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1slxnJB

2014年12月10日水曜日

«White God», et un chien vivant après elle

[World News #140] カンヌの「ある視点」部門グランプリ受賞作品 サミュエル・フラーの“White Dog”ならぬ、コーネル・ムンドルツォの“White God”、アメリカとフランスで公開へ    今年のカンヌでは2匹の犬が観客に強い印象を残した。1匹はジャン=リュック・ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』に出てくるゴダールの愛犬、ロクシー・ミエヴィル。そして、もう1匹はコーネル・ムンドルツォの“White God”に出てくるヘイゲン(兄弟犬、ボディとルークによって演じられている)。いずれの3匹とも、パルム・ドッグ賞を獲得している。  “White God”は政府が純血犬を保つために、雑種犬を飼う世帯に対して、租税を徴収するという事態となり、少女リリーの愛犬ヘイゲン(ラブラドールの雑種)は、彼女の父親によって強引に街へ捨て去られる。街をあてもなく彷徨っていたヘイゲンはほどなくして他の雑種犬たちと共に捕らえられるが、自分たちを虐げた人間たちに復讐すべく、反旗を翻すといった物語のようだ。(*1)  本作はハンガリーの映画監督、コーネル・ムンドルツォがJ.Mクッツエーの『恥辱』からインスピレーションを経て作られたものらしく、(*2) 映画のコンセプトと題名がサミュエル・フラーの“White Dog”(『ホワイト・ドッグ 魔犬』(1982))と非常に似ていることから、各方面で対比として頻繁に参照されている。しかし、両者とも人種差別を犬というメタファーに置き換えて描く、社会風刺映画の側面を持ち合わせているものの、全く異なる内容である。(*1) (*3)  また、その物語の内容から『猿の惑星:創世記』なども思い浮かばせるかもしれないが、“White Dog”ではCGは一切使われておらず、また犬たちは人間たちのように喋ることもない。何より、200匹の犬が無人と化したブダペストの街を荒々しく駆け抜けていく映像は圧巻とのこと。その光景は予告編で垣間見られる。 “White God”予告編 http://ift.tt/1IxXhUI  元カイエ・デュ・シネマ編集長のジャン=ミッシェル・フロドン氏は: 「この映画が真の意味で成功しているのは、やはりセンスと感性の巧みさにある。コーネル・ムンドルツォはフレームとリズム、そして距離に対して、力強く、注意深いセンスを有している。彼は一匹の犬の孤独なレースや、犬の群れが街を荒らす軍隊へと変わる姿と同じくらい、リリーを演じる若き役者、Zsófia Psottaの顔と身体もよく映している。ブダペストをラブラドールの高さから撮影することで、彼は人間たちを驚く明敏さによって再発見している。まるでエネルギーが川のように、天井がない監獄へと変貌した街のあいだや、夢幻的な場所、戦場を流れていく。」(*4)  本作はIndieWireやカイエ・デュ・シネマから、好評を博しているが、些か否定的なLes inrocksの見解と照らし合わせると、どうやら作品の特に後半部分、犬たちの反乱パートから興味深くなるような見解が多く見当たる。それに対して、前半部分はLes inrocksのSerge Kaganski氏によれば、退屈でありふれた犬と人間との関係が目立つとのこと。しかし、後半はヒッチコックの『鳥』やアベル・フェラーラの『ボディー・スナッチャーズ』を彷彿とさせる思いがけない怪作になるという。(*3)  IndieWireやカイエ・デュ・シネマからも、一見の価値がある作品としてプッシュされている、コーネル・ムンドルツォの“White God”。(*5) (*6) 監督自体、あまり日本では馴染みがないかもしれないが、2008年にカンヌ映画祭で彼の“Delta”という作品が国際映画批評家連盟賞を受賞している。願わくは、いつかゴダールが描く「犬」と比べてみたいものである。 「街中を駆ける犬というのは、美しい。特に、コーネル・ムンドルツォが撮影しているときは。」(*4) 楠 大史 http://ift.tt/1ieyRzU (*1) http://ift.tt/1AdFbkX (*2) http://ift.tt/1rUZTS0 (*3) http://ift.tt/1vdkbXd (*4) http://ift.tt/1GakWXc (*5) http://ift.tt/1AdFbl1 (*6)

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1vdkbXd

via IFTTT

2014年12月8日月曜日

Reese Witherspoon Explains How Feeling Uninspired Led Her to Reinvention

[World News #139] リース・ウィザースプーン、変革の年?  先週末、リース・ウィザースプーンの主演最新作“Wild”がアメリカで公開されました。アメリカ西海岸を南北に縦走する自然歩道「パシフィック・クレスト・トレイル」を1770㎞、単独で踏破した女性シェリル・ストレイドの自叙伝を、ニック・ホーンビィ(『ぼくのプレミアム・ライフ』『ハイ・フィデリティ』etc.)が脚色し、昨年『ダラス・バイヤーズクラブ』でマシュー・マコノヒーにオスカーをもたらしたジャン=マルク・ヴァレが監督……と、これだけでも十分注目に値するこの作品ですが、やはり一番話題になっているのは主演のリース・ウィザースプーン(以下リース)の演技、そして彼女自身が製作を手掛けていることです。  “Wild”でのリースは険しい山道や雪の中を歩き続けるだけでなく、薬物を使用するシーンや激しいセックスシーンなど、文字通り体を張った演技を披露しているとのことですが、興味深いのはそういう作品を自らが起ち上げた製作会社パシフィック・スタンダードで、彼女自身が主導して製作したということでしょう。  Indiewireのインタヴュー(#1)でこの作品を作った経緯を聞かれた彼女は以下のように語っています。 「思い立ったのは2、3年前。ひらめいてこのプロダクション(パシフィック・スタンダード)を始めて、貪欲に読書をするようになって、みんなに声をかけて、そして(映画の)題材は芸術的好奇心に溢れた時間から生まれた。あらゆることが同時に起こったのは運命だったと思うわ」 「私の元に届いたり、オファーされる題材を読んでいると、オファーの数が減っているわけではなく、その題材のレベルが下がっているように思えた。たいして良くもない役柄を5~6人の女性で奪い合っているような状態で、私はこう考えたの。“ワオ、市場には紛れもない空白があるわ。その空白を埋めるのは女性映画への興味であり、間違いなく観客もそういう映画を求めている”ってね。でも明確に興味深い女性が主人公の映画を作ろうとしている会社は見当たらなかった。それで素晴らしい映画プロデューサーであるブルーナ・パパンドレアと一緒に自分たちの会社を設立したの。誰の指図も受けたくなかったから。そしてとにかく本を読んで読んで読みまくったってわけ」  そうやってリースが出会ったのが“Wild”の原作本“Wild: From Lost to Found on the Pacific Crest Trail”、そしてギリアン・フリンのスリラー小説“Gone Girl”でした。そう、彼女は今週末から日本でも公開されるデヴィッド・フィンチャーの最新作『ゴーン・ガール』のプロデューサーでもあるのです。つまり、彼女は製作者としても今年大きな成功を収めたことになります。 「私たちはブラッド・ピットの会社プランB、ジョージ・クルーニーの会社スモークハウス、それからドリュー・バリモアのフラワー・フィルムズをモデルにして会社を作ったの。必ずしも私が出演する企画を手掛けるわけではないわ。強く、ダイナミックで、複雑な女性が主人公の作品を作ることが私たちの使命よ。だからその役を演じるのは私でも、ローラ・ダーンでも、ナオミ・ワッツやニコール・キッドマンでも、才能ある女優はたくさんいるのだから、その中の誰かがやればいい。彼女たちと映画における女性について対話を続けていくことに興味があるのよ」  とは言うものの、実のところリースは『ゴーン・ガール』でロザムンド・パイクが演じた失踪する妻・エイミー役をやる気は満々だったようで、結局プロデューサーに徹することになった理由については、Hollywood Reporterに掲載された6人の女優による座談会(#2)の中で口にしているので、そちらも紹介しておきましょう。 「出演する用意はあったわ。でもデヴィッド・フィンチャーがあるプロジェクトをやりたいと言うときはいつだって口を挟まずに“やりたいようにやって”と言うべきなのよ。私たちはじっくり話し合って、彼が “君はこの役に合わない。それが理由だ”と言い、私も100%賛成したの」  出演は叶わなかったにせよ、リースは『ゴーン・ガール』で(おそらく“Wild”でも)プロデューサーとして成功し、そして、“Wild”で女優としても転換期を迎えたようです。ただ、『カラー・オブ・ハート』『ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!』や『キューティ・ブロンド』などを観て、彼女のファンになった人たちにとっては、今後彼女がコメディ映画から遠ざかってしまわないか少し不安なところでしょう。  Indiewireのナイジェル・M・スミス記者が、「『キューティ・ブロンド』がヒットした当時、自分のキャリアがロマンティック・コメディによって制限されたと思うか」と彼女に質問したところ、彼女はこのように答えています。 「わからないわ。全ての女性、全ての女優の人生にはたくさんの局面があると思う。ひとつかふたつの局面しか訪れない人なんていないと思うのよ。絶えず新しいことに挑戦し続けることがアーティストの仕事だし、怖くて怯みそうになることでも、とにかくやるしかないのよ。目標に向かって前進したり、自分を作り直したりすることは、冷たいプールに飛び込むようなもの。先のことはわからないの! だって“Wild”への反応が散々なことだってあり得るわけでしょ? でもお客さんたちが私を違う見方で見てくれて、この作品を受け入れてくれるなら本当に感激だわ。観客たちも変わっていると思うし、もちろん私のファンも私と一緒に成長している。20歳の時に『キューティ・ブロンド』を観ていた女性はもう20歳じゃないのよ! 彼女たちは35歳になって、子供だっている。人生の酸いも甘いも経験している。だから彼女たちがスクリーン上で見ていた女性も彼女たちと同様に変わるべきだと思うわ」 黒岩幹子 #1 http://ift.tt/1w43O2S #2 http://ift.tt/1vpLvYU

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1w43O2S

via IFTTT

2014年12月7日日曜日

[World News #138]『プレジデント』とモフセン・マフマルバフ監督 ヨーロッパで亡命生活を続けるイラン人監督モフセン・マフマルバフの最新作『プレジデント』。ヴェネチア映画祭オリゾンティ部門オープニング上映作品、そして東京フィルメックスでは観客賞を受賞した本作は、2015年日本でも公開予定です。本作の映像、ストーリーそして監督の想いは多くの映画ファンをうならせました。 “舞台は老独裁者に支配されている架空の国。 ある日、クーデターが勃発。妻と娘たちはいち早く国を脱出してしまい、残された独裁者は幼い孫を連れて逃亡の旅に出る。ボロボロの服を着て旅芸人に扮した独裁者は、行く先々で自分の圧政のために苦しんできた人々を目撃する......。 大勢のエキストラを動員した冒頭のクーデターの場面を筆頭に、マフマルバフの演出力が全面に展開する。イラクのフセイン政権崩壊、アラブの春、ウクライナ紛争等々、近年起こった様々な事件を想起せずにはいられない力作である。”(引用:http://ift.tt/1wg4dCF 今回は、ヴェネチアでの会見とインタビューからマフマルバフ監督の『プレジデント』にかけた想いをお伝えします。 「本作の撮影はグルジアで行いましたが、それは撮影許可がおりたとりう理由のためであり映画のストーリーはグルジアとは無関係です。『プレジデント』が舞台となっているのは架空の国ですが、それはこの映画が世界中の今までの、現在の、そしてこれから誕生するであろう独裁政権の縮図だからです。大人は皆、どんな人物であろうと純粋な心をもってこの世に生を受けます。その純粋な子供たちの中には大人になる過程で神になるチャンスを得る人がいます。彼らはまるで神がやるかの様に、他者の運命をも支配しようとします。私たちの主人公もその神の一人ですが、突然神の地位から落ちてしまいます。老いた”プレジデント”は突然力を失った神の様な存在なのです。 本作は独裁政権をテーマとしている以上に暴力にも焦点をあてました。本作における暴力とは2つあります。それは独裁者が使う暴力、そしてもう一つは独裁者に反抗する革命がもつ暴力です。私たち人間の暴力は”地球”に影響を与えていると信じています。そしてこの暴力は日々増加しているように思われます。今現在の暴力の何十倍もの暴力が地球を支配した光景を想像してみてください。暴力に反逆できるのはたった一つしかありません。それは文化です。現在地球上を支配している暴力に対して、一人のガンジーと一人のマンデラでは足りません。私たちには彼らの思想を全人類に広める責任があります。 『プレジデント』のアイディアは8年前に遡ります。私は8年前、アフガニスタンのアマーヌッラー・ハーンのかつての宮殿に立ちその窓からカーブルの街を眺めていました。その時です、もしここに立つ”プレジデント”が孫を楽しませる為に街の電気をスイッチ一つで消したらどうなるだろうかと想像しました。それから数年後、緑の運動(2009年イラン)やアラブの春など世界中で国民による反乱が相次ぎました。それらのニュースを見て私は、アフガニスタンで頭をよぎった閃きを今一度深く掘り下げたくなりました。なぜ私たちは常に世界中のどこかで同じ様な問題を抱えているのだろうかと自問しました。独裁政権、大量虐殺そして反逆者たちによる革命、そして再び新たな独裁政権。この連鎖に終わりはあるのでしょうか。独裁者が独裁者となり得るには、彼一人の力ではなく、彼の取り巻きの存在が大きいのです。彼らは”プレジデント”にごまをすり、彼の写真を壁に飾ります。それに気づいていない私たちは民主主義を求めて”プレジデント”だけを代えますが、しかし代わったのは”プレジデント”ただ一人だけです、それでは民主主義になったわけではありません。独裁者の取り巻きそして全国民の意識も代わらなければなりません。」 by Sevin http://ift.tt/1jB6EEk 『プレジデント』:http://ift.tt/1wg4e9A 会見&インタビュー:http://ift.tt/1vsnw4A) アマーヌッラー・ハーン:http://ift.tt/1wg4dCL

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/1qbW4wo



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1qbW3IR



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1qbW3sk

[World News #137]『Jauja』俳優ヴィゴ・モーテンセンが語る、「映画が撮りにくい世の中」 アルゼンチン・デンマーク合作『Jauja(原題)』が、アルゼンチンのマルデルプラタ映画祭で先月29日プレミア上映され、アルゼンチン人のリサンドロ・アロンソ監督、主演俳優のヴィゴ・モーテンセンらが出席した(*1)。 『Jauja(原題)』は、デンマーク人の父と娘が、デンマークからアルゼンチンのパタゴニアに船旅をするという19世紀を舞台にした物語である。旅の随行者と恋に落ち、消えてしまった娘を探す父親の不思議な旅から愛と死を語る本作。第67回カンヌ国際映画祭ある視点部門でも国際映画批評家連盟賞を受賞し(*2)、39歳という若手リサンドロ・アロンソ監督はいまやカンヌお馴染みの顔となった。 ベネズエラ、アルゼンチン、デンマークで育ったためにスペイン語、デンマーク語が流暢なヴィゴ・モーテンセン。彼の達者なデンマーク語も見ものな本作だが、マルデルプラタ映画祭において、ヴィゴ・モーテンセンの語った映画業界の現状が的を得ていて辛辣だ。 『Jauja』について彼は「デンマークとアルゼンチンの共同制作なのに、国からの資金援助がない。それどころか、デンマークでは公開すら決まっていないんだよ。答えは単純で、作品にヒットの匂いがしないからだろう」、 続けて「デンマークに限ったことではなく、世界中でますます映画が撮りにくい流れになってきている。確実にヒットが保証されたものでなければ、出資もされないし公開もされない、誰だってリスクを犯したくないものだからね。もちろん今までもそうだったが、しかし今状況はもっと複雑になってきている」、 「リサンドロのように、自主映画を撮る人々はいつどこにだっている。『つらい、映画を撮るのは辞めよう』なんて彼らは一言も言わない。ただ撮るだけ」。 自主映画・低予算映画にも協力的なモーテンセンだが、ハリウッド式の映画製作を見下しているいうわけでもない彼は「予算が沢山あるからこそ危ない橋を渡りたくないのも分かるし、全く新しいことができないのも納得。だからいつも大作は分かりやすい設定や演出ゆえにどれも既視感のある似たような作品になっているね」とコメント。 さらに、クリストファー・ノーランのSF大作『インターステラー』については「面白く観させてもらったが、ノーランは高予算でハイリスクな映画を撮る人間だと思った。これはノーランに対する批判ではないよ、作品は非常に面白かったからね。だけど、お金があれば誰だって“もっとできたのに、もっとやれたのに…”と思うもの。リサンドロは本当に予算なしで『Jauja』を撮ったからね」 記事・内山ありさ(早稲田大学) *1 Viggo Mortensen Talks About Taking Risks in Hollywood Filmmaking http://ift.tt/1r5qMrQ *2 JAUJA -Festival de Cannes 2014 http://ift.tt/1AGraNr



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1IhFX6l

2014年12月5日金曜日

'Inherent Vice' Will Screen in 70mm in Select Theaters. But is Bigger Always Better?

[World News #136] 70mm上映!?ポール・トーマス・アンダーソン監督新作『Inherent Vice』 トマス・ピンチョンの『LAヴァイス』を原作にした、ポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作『Inherent Vice』については、過去に取り上げました。(*1)その最新作がアメリカで来週ようやく公開されるようです。しかし、驚くべきことに『Inherent Vice』は一部の限られた映画館において、35mmフィルムをブローアップさせて70mmフィルムで上映されるようです。 現在映画産業はデジタル化への移行が進み、35mmフィルム上映の出来る映画館がただでさえ少なくなっていくなか、70mmフィルム上映の出来る場所はほとんどなくなっています。日本では、最後の収容人数1000人を超える劇場でありかつ、多くの70mm上映を行っていた大映画館ミラノ座が今年12月31日に閉館することになっています。私たちは、もはやまったく70mmフィルムでの上映の噂を耳にしなくなっているほどです。現在話題の『インターステラー』(2014)も70mmフィルムで撮影されていますが、それはかたちを変えIMAXという最新技術を駆使したデジタル巨大スクリーンで上映されています。 70mmフィルムの魅力は、フィルムそのものが大きい分画質が良いこと、そのことにより大きなスクリーンに投影出来る点がひとつあります。しかし、35mmを70mmにブローアップするというのは、元のフィルムより画質が向上するわけでないはずです。にも関わらずどのような利点があるのでしょうか。 実は、多くの映画が70mmでの上映を好んだのは、“音”という問題があるようです。Indiewire誌のMike Celestinoによる記事の中で、パシフィックシアターのJohn sitting氏が語ることによれば、「ドルビーサウンドシステムが1974年に導入されるまで、ほとんどの映画館で35mmフィルムはモノラルサウンドによる上映だった」ということです。こうした状況に対して、「(70mmフィルムが)より優れていた理由は、6チャンネルの音によるステレオサウンドを導入出来た」ということになります。ですから、「こうした音の優位性に基づき『枢機卿』(1963)に始まり90年代の『タイタニック』(1997)に至るまで多くの映画が35mmから70mmへとブローアップされ公開されました。」 他にもHauerslev氏によれば「より多くの光を使うことが可能で、くっきりとした色、輪郭を与え」、また「35mmフィルムに比べ(スクリーンへと)拡大される率が低いため、ほこりや傷が目立たない」といった視覚上の優位点も指摘されます。 しかし、70mmの6チャンネルがDolbyへと、70mmの大スクリーンがIMAXへと変わっていきました。幾つもの新たな技術が過去の技術を乗り越える中で、70mmフィルムによる上映の機会は現在無くなりつつあります。上映形態は、これからも変化を続けていくはずです。映画はこのように、様々なメディアを乗り継ぎながら変化していきます。既に日本では、ほぼ70mmフィルムを見ることは出来ません。それは、アメリカでお金がある人たちの限られた文化になってしまったのでしょうか。あるいはただのノスタルジックな考えに過ぎないのでしょうか。 しかし、「20世紀に非常に愛されたフィルムにこだわり、その死に抗いながら映画を撮り続けるのがポール・トーマス・アンダーソン監督です」と語られるように、事実としてフィルム映画を撮り続ける人がいます。そして、その彼の新作が70mmにブローアップされるということは、ひとつの探究あるいは可能性の見直しと言えるのではないでしょうか。それは単なる、フィルムVSデジタルという問題ではなく、ひとつひとつの(35mmから70mm)という方法を新たに試す行為です。 ポール・トーマス・アンダーソンのような監督が様々な方法で“技術”を探究し続けることは、フィルム原理主義とは違って、我々が映画のメディアに対して考える機会を残してくれていると捉えることは出来ないのでしょうか。それは我々にひとつひとつ、フィルムやデジタルあるいは音響技術などに“固有な良さ”を、味わう可能性を残すことになるはずです。 「」内引用元 http://ift.tt/1ymcbdD (*1)http://ift.tt/1ymce92 三浦 翔 横浜国立大学 人間文化課程3年 映画雑誌NOBODY http://ift.tt/1ofDLiA http://ift.tt/1iv7YL4

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1ymcbdD

via IFTTT

2014年12月1日月曜日

Les Inrocks - Cinéma: les révolutions technologiques qui arrivent

[World News #135] 映像・音響技術の進歩がもたらす映画館の行く末  今日において、ほぼすべての映画館がデジタル上映設備を設け、逆にフィルム上映設備を備えている映画館はめっきり少なくなってしまった。しかし、現存のデジタル上映設備を既に上回るもの(映像の解像度や上映機材)が出来上がりつつあるようだ。  多くの映画館で備わっているデジタルシネマ用プロジェクターは4Kや2Kが主となっており、4Kプロジェクターに至っては70mmフィルムに近いクオリティまで上映できるようになっているらしい。しかし、最近のカメラでは4Kのみならず、6Kで撮影できるものも作られており、12月12日に公開されるデイヴィッド・フィンチャーの新作『ゴーン・ガール』はRed Epic Dragon(6Kカメラ)ですべて撮影された6Kの初長編映画となっている。(*1)そのうち8Kカメラやプロジェクターが活躍する日も近いだろう。  また音響技術の進歩により、2012年ごろからドルビーアトモスの様な64本ものスピーカーを利用した立体音響システムも積極的に映画館へ導入されつつある。(最初にドルビーアトモスを使用した作品はピーター・ジャクソンの『ホビット 思いがけない冒険』(2012)のようだ)(*2)  こういった最先端の映像・音響技術を映画館の設備に取り入れることによって、映画館という場所で映画を見るということが、いわば自宅のテレビなどで映画を見たりするのとはいかに異なる、特権的な体験なのかということを強調し、人々の関心を集めるのに一役買ってはいるのだろう。それも映画館が現代で生き残るための、一つの戦略なのかもしれない。  その延長としてなのか、20th century foxが今年の9月に、新たな映画の上映フォーマットでウェス・ボールの『The Maze Runner』という作品をリリースしている。その新たなフォーマットとは、3つのスクリーンを前方と左右の壁に配置した、パノラマ式のトリプルスクリーン上映である。スクリーンで観客席の3方面を囲むことによって、映画への没入感をより高めようというわけだ。(*3)  しかし、こうした新たな技術を用いて上映することで、映画館で映画を見る意義を唱えるのとは全く逆の考えで、例えばクエンティン・タランティーノのようにデジタル技術に懐疑的な監督はフィルム上映こそ、本当の映画体験だと強く主張する者たちも居る。彼の次回作『The Hateful Eight』は70mmで撮られた西部劇であり、インタビューなどで70 mmの魅力を語ると同時に、デジタル上映についても言及している。 「それはテレビでは見ることのできない体験だよ。ただ、自分のアパートや小さな部屋、iPhoneやIPadで映画を見ていては、絶対に体験できないものだ。(…)デジタル上映っていうのは、単なる公共のテレビだよ。みんなで集まってテレビを見るんだ。唯一の違いと言えば、リモコンをスクリーンに向けないことぐらいだ。」(*4)  タランティーノの場合、些かフィルム上映に関してピューリタン過ぎるかもしれないが、他にも同じくフィルムを重視しているクリストファー・ノーランは『インターステラ―』のインタビューにおいて以下のようなやり取りを行っている(*5): ― あなたは35mmで映画を撮り続けている数少ない監督の一人ですが、決してデジタルへ移行することはないのでしょうか? クリストファー・ノーラン:クエンティン・タランティーノがやっているように、決して移行しないとは言いたくない。ただ、35mmを過去の産物として語るのは間違っているし、愚かなことだ。確かに昨今においては、すべてが早く移り変わっていくのは十分承知の上だが、考えてみてほしい:4年前、『インセプション』が公開された時はほぼ35mmしかなかった。今となっては『インターステラ―』の為に、私はアメリカで250巻集めるのに闘わなければならない。フィルムは依然として、最も明確で豊かな、最高のメディアだ。デジタルはまだ足元にすら達していない。私たちは芸術的な理由からではなく、ただ単に経済的な理由から35mmを捨て去ろうとしている。私は別にデジタルに対して抵抗はないし、デイヴィッド・フィンチャーやスティーヴン・ソダーバーグのように、いち早く自分たちの用途に合わせてデジタル技術を扱っている演出家たちをリスペクトしている。ただ正直なところ、アーティストたちに選択肢を与えなくなってきている。  ここ数年で急激にデジタル技術が普及し、あっという間にフィルム上映施設こそ逆に少なくなってしまったが、タランティーノやノーランのように新作をフィルムで作ることによって、フィルムの良さを改めて訴えると同時に、映画館で映画を見る意義を強めるきっかけも作っている。しかしノーランが現在と4年前の違いについて語っているように、技術の進歩は目まぐるしく、現在のデジタル上映機材を数年後には一式、すべて入れ替えなければ最新ではないという事態がやってくるかもしれない。そうすると映画館は結局、いかに最先端の設備を備えるのかという自転車操業となってしまう恐れもある。  しかし、新しい技術といえども、例えば映画館のスクリーンの大きさによっては2Kと4Kのプロジェクターを比較してもそれほど変わらない映像クオリティとなることはあるし、ドルビーアトモスよりも爆音映画祭のように音楽ライヴ用の音響機材を使って上映する方が刺激的だったりする。要はそれぞれの映画館によって最新技術も使いようであり、必ずしも最先端の設備を備えなくとも、充実した映画体験をすることはできるのではないか。  それにいくらデジタル技術が進歩したからといって、今まで上映されていたフィルムが全てなくなったわけでもない。いま私たちはまだフィルムでしか現存していない作品を見ることが出来るという幸運な立場にいるのをもっと意識するべきかもしれない。  楠 大史 (*1)http://www.lesinrocks.com/2014/11/14/cinema/cinema-du-futur-8k-hfr-3d-ce-va-changer-quelques-annees-11535280/ (*2)http://vimeo.com/40699179 (*3)http://www.lesinrocks.com/2014/09/02/cinema/escape-ecrans-triple-revolutionner-les-salles-cinema-11521876/ (*4)http://www.lesinrocks.com/2014/11/12/actualite/tarantino-realisation-cest-truc-jeunes-11535135/ (*5)http://www.lesinrocks.com/2014/11/08/cinema/christopher-nolan-on-laisse-choix-aux-artistes-11534349/

from inside IndieTokyo http://www.lesinrocks.com/2014/11/14/cinema/cinema-du-futur-8k-hfr-3d-ce-va-changer-quelques-annees-11535280/

via IFTTT

2014年11月30日日曜日



via inside IndieTokyo https://www.facebook.com/inside.indietokyo/photos/a.491153117680657.1073741828.483778145084821/612745388854762/?type=1



via inside IndieTokyo https://www.facebook.com/inside.indietokyo/photos/a.491153117680657.1073741828.483778145084821/612745325521435/?type=1

[World News #134] 作曲家と映画の関係『The Imitation Game』  アカデミー賞のノミネート予想が盛り上がる季節がやってきた。多くの人がそれぞれ部門ごとに様々な作品について言及しているが、今日は特に作曲賞の話がしたい。あなたはアレクサンドル・デスプラ(Alexandre Desplat)という名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないという人は、簡単に調べてみてほしい。彼の名前は知らずとも、彼の手掛けた映画音楽は、必ずと言ってもいいが、聞いたことがあるはずである。それほど、彼は今までに様々なジャンルにわたって数多くの作品に作曲してきた。  ただ、彼は数々の映画祭で数々の作曲賞を受賞しているものの、アカデミー賞においては、6つの作品で作曲賞にノミネートされてきたが受賞には及んでいない。しかし今年は、かれの念願のアカデミー賞チャンスの年だ。今年はノミネート有力とされている『Monuments Men』、『グランド・ブダペスト・ホテル』、『GODZZILA』、『The Imitation Game』、『Unbroken』の5本の作品に楽曲を提供している。その中でも、『The Imitation Game』の評価はかなり高い。  『The Imitation Game』は、モーテン・ティルダム監督の最新作。暗号解読者アラン・チューリングの数奇な人生に基づいた作品で、第二次世界大戦において世界最強と言われたドイツの暗号エニグマを解読しようと奮闘するチューリングの孤独と苦悩を描いた伝記的映画である。  『The Imitation Game』の音楽が素晴らしいのはそのメロディで、その旋律はキーボード、クラリネット、チェレスタ・ハープの、早いアルペジオに突き動かされるようだ。デスプラは、オーケストラの演奏からサンプリングしたピアノの音をつかってコンピューターによって作曲した。初音ミクでおなじみのボーカロイドと同じ方法だ。そのピアノの音は、正確なときもあるし、でたらめな時もある。チューリング言う非同時性を表しているのである。たとえば、オープニングで使われている音楽は、さざ波のようなキーボードの主旋律。この旋律はその後にかかる曲でも、違うテイストで引用されるのだが、これがなんともほろ苦い雰囲気を演出している。  デスプラは、『ファウンテン 永遠に続く愛』や『ブラック・スワン』の劇中音楽を手掛けたクリント・マンセルに代わって『The Imitation Game』の音楽を作曲することになった。3週間だけで作曲したデスプラは、チューリングのエニグマ理論を実践したと言えるだろう。彼は監督のモーテン・ティルダムとは会ったことがなく、代表作『ヘッド・ハンター』も見たことがなかった。しかしすぐにティルダムの人間性や彼のユーモラスな映画を、そしてカンバーバッチの演技と、物語にフラッシュバックを挟む演出法を気に入って、すぐに引き受けることを決めたのだった。  「すぐに、ピアノでファンクとアコースティックを混ぜたような音楽がいいんじゃないかと提案したんだ。電子ピアノと、ベースと、いろんなものを、コンピューターで編集したものをね。人がピアノを演奏すると、ロマンチックとかクラシカルになりすぎることがあるんだけど、抽出したピアノの音をつかってコンピューターで作曲した『The Imitation Game』のピアノの主旋律は美しくて独特。だけどシンプルさと従順さが同時にある。まさにこの映画みたいな音楽だよ。それからアランとクリストファーのシーンではできるだけ情熱的に、悲劇的な雰囲気がでるようにした。アランがクリストファーの死を理解するこのシーンがとっても感動的で、僕の好きなシーンの内の一つなんだ。このアランのシーンにはあえて、クリストファーのテーマを使ったよ。まるで長い旅をしてきたような感じがする。この映画の冒頭からの長い旅を経て、ようやくここにたどり着いた。」  もちろん脚本や演出、カンバーバッチや彼の脇を固める俳優たちの演技など注目すべき点はさまざまだが、映画の重要な要素として特にこの作品では、音楽が関わっていることは注目すべきである。ほかの部門と合わせて、『The Imitation Game』はアカデミー賞争いにどう食い込んでいくだろうか。日本での公開は2015年3月を予定している。 則定彩香 横浜国立大 参考 http://blogs.indiewire.com/thompsononhollywood/how-composer-alexandre-desplat-captures-different-wwii-vibes-for-imitation-game-and-unbroken-20141126 公式HP http://theimitationgamemovie.com/ IMDb『The Imitation Game』 http://www.imdb.com/title/tt2084970/

from inside IndieTokyo http://www.facebook.com/pages/p/483778145084821

via IFTTT

[World News #134] 作曲家と映画の関係『The Imitation Game』  アカデミー賞のノミネート予想が盛り上がる季節がやってきた。多くの人がそれぞれ部門ごとに様々な作品について言及しているが、今日は特に作曲賞の話がしたい。あなたはアレクサンドル・デスプラ(Alexandre Desplat)という名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないという人は、簡単に調べてみてほしい。彼の名前は知らずとも、彼の手掛けた映画音楽は、必ずと言ってもいいが、聞いたことがあるはずである。それほど、彼は今までに様々なジャンルにわたって数多くの作品に作曲してきた。  ただ、彼は数々の映画祭で数々の作曲賞を受賞しているものの、アカデミー賞においては、6つの作品で作曲賞にノミネートされてきたが受賞には及んでいない。しかし今年は、かれの念願のアカデミー賞チャンスの年だ。今年はノミネート有力とされている『Monuments Men』、『グランド・ブダペスト・ホテル』、『GODZZILA』、『The Imitation Game』、『Unbroken』の5本の作品に楽曲を提供している。その中でも、『The Imitation Game』の評価はかなり高い。  『The Imitation Game』は、モーテン・ティルダム監督の最新作。暗号解読者アラン・チューリングの数奇な人生に基づいた作品で、第二次世界大戦において世界最強と言われたドイツの暗号エニグマを解読しようと奮闘するチューリングの孤独と苦悩を描いた伝記的映画である。  『The Imitation Game』の音楽が素晴らしいのはそのメロディで、その旋律はキーボード、クラリネット、チェレスタ・ハープの、早いアルペジオに突き動かされるようだ。デスプラは、オーケストラの演奏からサンプリングしたピアノの音をつかってコンピューターによって作曲した。初音ミクでおなじみのボーカロイドと同じ方法だ。そのピアノの音は、正確なときもあるし、でたらめな時もある。チューリング言う非同時性を表しているのである。たとえば、オープニングで使われている音楽は、さざ波のようなキーボードの主旋律。この旋律はその後にかかる曲でも、違うテイストで引用されるのだが、これがなんともほろ苦い雰囲気を演出している。  デスプラは、『ファウンテン 永遠に続く愛』や『ブラック・スワン』の劇中音楽を手掛けたクリント・マンセルに代わって『The Imitation Game』の音楽を作曲した。3週間だけで作曲したデスプラは、チューリングのエニグマ理論を実践した。彼は監督のモーテン・ティルダムとは会ったことがなく、代表作『ヘッド・ハンター』も見たことがなかった。しかしすぐにティルダムの人間性や彼のユーモラスな映画を、そしてカンバーバッチの演技と、物語にフラッシュバックを挟む演出法を気に入って、すぐに引き受けることを決めたのだった。  「すぐに、ピアノでファンクとアコースティックを混ぜたような音楽がいいんじゃないかと提案したんだ。電子ピアノと、ベースと、いろんなものを、コンピューターで編集したものをね。人がピアノを演奏すると、ロマンチックとかクラシカルになりすぎることがあるんだけど、抽出したピアノの音をつかってコンピューターで作曲した『The Imitation Game』のピアノの主旋律は美しくて独特。だけどシンプルさと従順さが同時にある。まさにこの映画みたいな音楽だよ。それからアランとクリストファーのシーンではできるだけ情熱的に、悲劇的な雰囲気がでるようにした。アランがクリストファーの死を理解するこのシーンがとっても感動的で、僕の好きなシーンの内の一つなんだ。このアランのシーンにはあえて、クリストファーのテーマを使ったよ。まるで長い旅をしてきたような感じがする。この映画の冒頭からの長い旅を経て、ようやくここにたどり着いた。」  もちろん脚本や演出、カンバーバッチや彼の脇を固める俳優たちの演技など注目すべき点はさまざまだが、映画の重要な要素として特にこの作品では、音楽が関わっていることは注目すべきである。ほかの部門と合わせて、『The Imitation Game』はアカデミー賞争いにどう食い込んでいくだろうか。日本での公開は2015年3月を予定している。 則定彩香 横浜国立大 参考 http://blogs.indiewire.com/thompsononhollywood/how-composer-alexandre-desplat-captures-different-wwii-vibes-for-imitation-game-and-unbroken-20141126 公式HP http://theimitationgamemovie.com/ IMDb『The Imitation Game』 http://www.imdb.com/title/tt2084970/

from inside IndieTokyo http://www.facebook.com/pages/p/483778145084821

via IFTTT

2014年11月29日土曜日

Frederick Wiseman Turns to National Gallery in London for His Latest Documentary

[World News #133] フレデリック・ワイズマンの新作 『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』  米国のドキュメンタリー映画作家フレデリック・ワイズマンの新作『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』が来年1月、Bunkamuraル・シネマで公開されます。筆者は未見ですが、東京でも試写はすでにおこなわれており、その評判もちらほらと耳に入ってきています。  ワイズマンはこれまでに40本を超える数の作品を作ってきましたが、彼の仕事の多くは、ある種の公共性を問題にしていると、まずは言うことができると思います。競馬場、ボクシングジム、聴覚障害者の学校、軍事演習施設、病院…ワイズマンが被写体として選ぶ施設や空間に共通する特徴のひとつは、だれもが同じ名前で呼ぶ場所であるということです。公共性とはそのような意味です。こうした施設や空間に、少数のスタッフとともに長時間留まり、その場所が持つ名前の下でうごめいている微細な運動や所作を冷徹に記録することで、その場所の実態を明らかにしていくこと、これがワイズマンの作品に一貫するひとつの態度です。  これらのことから、ワイズマンが「 美術館」を撮影することは、ある意味でとても頷けることであると思います。映画好きな人々にとっても馴染みのある場所であろう、美術館という空間において、ワイズマンがどのような運動を記録し編集したのか、いまからとても楽しみです。たくさんのレビューが海外メディアで報じられていますが、その一部をここに抜粋します。 ーーMinnesota Public Radio News 11月26日(※1)ーー ...ワイズマン監督がこの美術館を被写体として選んだのは、次のような、とてもシンプルな動機だ。氏はこう語った。「ナショナル・ギャラリーが世界で最高の美術館のひとつであること。そして、許可を得ることができたということだ」  ワイズマンは12週間をギャラリーを徘徊して過ごした。同時に事務室やワークショップ、そして施設の外においても、カメラを備えて動き回り、美術品とそれを見る人々を撮影することに、170時間を費やした。 「気が付くと、より注意深く見るようになっていました」と氏は語る。80歳半ばのワイズマン氏は生涯を「注意深く見ること」に捧げてきたのだ。  「今回の撮影を通して学ぼうとしたことのひとつは、絵画というものを見ること、そして、読むということでした。」とワイズマン。これは単に色彩や形態を理解するということではなく、歴史的な文脈も関係するだろう。映画のなかのある場面では、ガイドが観客を引き連れて、聖書のイメージで、鮮麗な装飾の施された中世風の仕切りを前にし、次のように語るのだ。「さて。私たちはナショナル・ギャラリーにいて、粛然と作品を見ている訳ですが−−ただし、覚えておいてください。もっとも重要なのは“これらがどう見られることを意図して描かれたのか?”ということなのです。」 『ナショナル・ギャラリー』は徹底して、見ることに関する映画だ。美術家が対象をどう見るか。観客が絵画をどう見るか。そして映画作家は観客をどう描くのか――。 ーーNY Times 11月17日(※2)ーー 『ナショナル・ギャラリー』はロンドンの美術館についてのドキュメンタリーだ。今月ニューヨークでプレミアを迎え、ロンドンでは1月7日より公開される。映画は早朝の(ロンドンの)トラファルガー広場のシーンで始まる。冒頭のショットは美術館のファサードをじっと眺めている獅子像――。3秒後に映し出されるのは、近世から20世紀にかけての2300点余りの絵画を収蔵する建築物の内部だ。磨きこまれた床には、長く鮮やかな色の回廊と、鑑賞されるのを待つ絵画たちが、写り込んでいる。別の部屋へ、そのまた別の部屋へ――どれも人気が無く、しんと静まり返っている。それから、一分間の間、絵画の映像の連なりが画面を埋め、その細部を映し出す。そこで、何か雑音が入り、思惑的で神秘的な時間をストップさせーー次のショットは、輝く床面にさらなる磨きをかける、掃除機である。 「ナショナル・ギャラリー」におけるこの最初の90秒のショットは、ワイズマンが明らかにしようとするものを――つまり、いかにして神聖さとありきたりのものが分ちがたく結びついているのかということをーー端的に現しているものだ。  氏はこう語る。「私がショットを編集し、そしてそれらを結びつけるときに初めて意味が生まれるのです。私は、自分を納得させるためにも、その編集に説明を与えなければなりません。そして、合理的な意味合いでなくとも、言葉にしていかなければならないのです。」  そしてこう続ける。「私のであれ、別の人のであれ、作品は二つのレベルで人に影響を与えます。人々の語りや行動、そして見ているものが示唆することが、実質的にーーつまり「誰が」「誰に」「何を」言っているのか、というーー伝わる事態と、抽象的に伝わるという事態、このふたつのレベルにおいて。そして私は思うのですが、真の映画とはこの二つのレベルの狭間において、立ち現れるのではないでしょうか。」 ※1  http://ift.tt/12de9i9 ※2 http://ift.tt/1EUUKRH   文責:井上遊介

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1EUUKRH

via IFTTT

2014年11月27日木曜日



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1voU7x2



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1vodoNI



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1voU7wS

[World News #132] 歴史上はじめてのイラン風モノクロ吸血鬼ウェスタン 「歴史上はじめてのイラン風モノクロ吸血鬼ウェスタン」と銘打たれた「無国籍映画」が現在アメリカで公開され大きな話題を呼んでいる。そのエキセントリックな風貌とあけすけな言動で知られたアンナ・リリー・アミールプールの長編処女作『ア・ガール・ウォークス・ホーム・アローン・アット・ナイト(A Girl Walks Home Alone at Night)』(以下『ガール』)だ。サンダンスでプレミア上映されて以降、様々な映画祭で上映されてきた同作は、既に海外の映画批評家から数多くの絶賛の言葉を受けている。たとえば「次世代のタランティーノ」と呼ばれ、「『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』が現在のジャームッシュなら、『ガール』はデビュー時のジャームッシュが撮ったようなヴァンパイア映画だ」といった賛辞が並んでいる。 また、ニューヨーク・タイムズのA. O.スコットは、次のように評価している。 「彼女の造形したヴァンパイアは、悲しい世界の孤独な歩行者だ。ロサンゼルスを撮影地に白黒で描かれたその街(バッド・シティ)は、まるでチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグの背教者によって夢見られた異世界のようである。アミールプールは、ロックなペルシャ風フェミニズムストーリーをそこで語るが、主人公は女性的弱さと復讐者の強靱さの両方を象徴している。この作品に込められた怒りは、ジャームッシュ的クールさと無邪気なまでにイノセントな無法者のロマンチシズムによってバランスが取られている。」(#1) 著名な映画評論家デイビッド・トムソンはさらに熱狂的な評論を寄せ、『ガール』が今年ベストの1本であるとまで断言している。(#2) 「『ガール』は、『インターステラー』や『ゴーン・ガール』より優れていると言うだけでは全く十分でない。そんな比較はメジャー映画を喜ばせるだけの話であり、アンナ・リリー・アミールプールによるこのダーティな輝きを放つ処女作の光を鈍らせるだけの話だ。それは、彼女の先行者であるデヴィッド・リンチの最高の作品と比較するだけでもまだ足りない。『ガール』は、ジャン・ヴィゴやジャン・コクトー、ルイス・ブニュエルらとの比較に於いて語られるべき作品であるのだ。」 『ガール』の監督アンナ・リリー・アミールプールの言葉は、既にIndieTokyoのこちらの記事(#3)で一度紹介してあるが、公開を機に様々なメディアに掲載されたインタビューから、さらに幾つかの発言を拾っておこう。(#4)(#5) ■デヴィッド・リンチやタランティーノからの影響を問われて 「そう言われるのは嬉しいことよ。だって、彼らはすごい人たちだから。リンチのことを考えると私の胸は高鳴るの。彼はものすごいクリエイターで、ある意味で私のヒーローでもある。でも、彼にはすごく影響されてるけど、それは彼の映画や仕事ぶりを真似してるって意味じゃない。彼の映画は彼の脳味噌そのもので、とても固有のものなの。だから、彼の作ったものに影響されたと言うよりは、彼が自らに対してとてもオープンであることに影響されたと言うべきね。リンチは自分の脳の最も暗い部分を探求するような人で、私も自分の脳に対して同じことをしたいと思ってる。」 「『ガール』の準備を始めた時に考えていたのは3本の映画で、それは『ランブルフィッシュ』と『ワイルド・アット・ハート』と『ウェスタン』だった。いや、もっと多かったわね。『続・夕陽のガンマン』とか。とにかく西部劇が大好きなの。あと、『ガンモ』もそう。あれは私の人生で最も重要な作品の1本だわ。」 ■ハリウッドでのキャリアを求めるか聞かれて 「有名な会社からエージェントとマネージャーを付けられたことがあるの。1年以上に渡ってクリエイティブな面で去勢され続けたわ。スクリプトの変更ばかり求められて。クソみたいな案だったけど、それが彼らのベストの案なのよ。結局、私は自分が知ってることをやることに決めた。安っぽく聞こえるかも知れないけど、それが本当なの。もちろん、人によって違うことね。私は誰かにどうやって恋に落ちるかなんて教えられない。同じように、どうやってクリエイティブなモチベーションを得るかなんて教えられないわ。」 「結局、こういうのはその場になってみないと分からないことなんだけど、数ヶ月前、私は『悪魔のいけにえ4』を撮らないかってもちかけられたの。もちろん大きなスタジオの仕事になるわよね。断ったんだけど、その提案は嬉しかった。あんたらの考えは最高だよ、って思ったわ。私が引き受ける仕事じゃないけど、彼らがそう思ってくれたのは嬉しかった。ああ、素敵ね、ありがとう、でもやんない、って感じかな。」 「(『ガール』の前にオファーされていた2つの長編映画企画について)脚本を弄ってばかりで、あの俳優のためだとか、この助成金のためだとか、ああいうのは本当に間抜けで馬鹿げた映画の作り方だと思う。だって、目的のために何かを作ろうとしている訳で、クリエイティブであることとは真逆だから。クリエイティブとは、自分自身に問うことであり、そこに何かを見つけることなのよ。もし最初からゴールとか目的地が見えていたとしたら、私たちは何も見つけることなんてできない。」 ■映画学校について聞かれて 「(UCLAには)映画の作り方を学びに行った訳じゃないの。映画の撮り方を教えるなんて、誰かにファックの仕方を教えるようなもの。できるわけない。ファックの仕方を学びたければ、自分でファックするしかないのよ。決まってるじゃない。」 「フィルムメイカーは自分の冒険的な側面を守らなければいけないの。私は探検家であり、発明家でもある。(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の)ドク・ブラウンは私が一番親近感を持つキャラクターだけど、彼は狂人よ。彼は自分のアイディアに閉じ込められた狂人で、でも自分がやりたいと思ったことは成し遂げる。デロリアンは、彼が目的を持った狂人であり続けるためにこそ動かなくちゃいけない。そして、誰もが自分自身のデロリアン見つけるべきなのよ。」 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ 12/19(金)19:30『自分に見合った顔』 12/26(金)19:00『私たちの好きな八月』 ミゲル・ゴメス特集@新文芸坐シネマテークにて上映! http://ift.tt/1uR44n5 #1 http://ift.tt/1nBPvRL #2 http://ift.tt/1F1MFLh #3 http://ift.tt/1HIDbXp #4 http://ift.tt/1HID9ia #5 http://ift.tt/1HIDbXu

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT

2014年11月22日土曜日

Steve McQueen's Next Project to Feature Four Great Female Leads

[World News #131]スティーヴ・マックイーン新作 スティーヴ・マックイーンは映画だけでなく、ドクメンタ11・12やヴェネツィア・ビエンナーレなど現代美術の大規模国際展でも活躍しているアーティストです。そうした経験の中から長編映画を撮り始め、昨年、自由黒人でありながらも奴隷にされてしまったひとが12年間に渡り奴隷労働を強いられた姿を描いた“12 Years A Slave”(邦題:『それでも夜は明ける』)で、アカデミー賞、作品賞を受賞しました。 そのスティーヴ・マックイーン監督の新作情報が少しずつ伝わってきていますので紹介します。彼はどうやら6月ごろからHBO(ケーブルテレビ局)による新しい企画に着手していたようで、名立たるプロデュサーがその企画に名を連ねています。そのとき監督は「外見からはそう見えないような過去を抱えた若いアフリカ系アメリカ人が、ニューヨークの高級社会のなかに入っていく冒険」のようなもの、と企画についてほのめかしていました。同時に、俳優を募集しており「民俗的に曖昧なアフリカ系アメリカ人、つまり様々な人種の血が混ざったひとであること」が重要な条件である、と資料から読み取れます。 そして今月、同じくタイム・ワーナー傘下のリージェンシー・エンタープライズ(映画製作会社)企画で「イギリスのテレビシリーズ“Widows”(日本語で“未亡人”の意味)をリメイクした脚本を書いてる」ことが明らかになりました。年内にプリプロも予定されているようです。こちらの企画は上のものと違ったものなのか、同じ企画の変化したものなのかは分かりませんが、「強盗を題材にしたスリラー」もののようで「その強盗が原因で親を無くす」話ということまで分かっています。「エンターテイメントでありかつ活動的な仕事」「スティーヴ・マックイーン監督の新境地となる試み」といった期待の声も上がっています。 昨年のアカデミー賞、受賞作家とだけあって注目が集まる監督ですが、“12 Years A Slave”から分かるのは、自由黒人でありながら奴隷労働を強いられる、つまり曖昧な理由で暴力的に奴隷にされていく、その過程に潜む人間の問題を描きだそうとしているように見えます。それだけに、新作では、アフリカ系アメリカ人という既に民俗的に曖昧な存在が全く違う社会に入っていくことや、強盗という社会の中では明確にされずにしかも帰るべき親を亡くしている存在、といった側面が重要に見えてきます。彼の問題体系はハリウッドを相手にして今後どのように展開していくのか、注目していきたいです。 http://ift.tt/1zH6lB1 http://ift.tt/11GKBu6 http://ift.tt/1wdN8W6 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1zH6lB1

via IFTTT

[World News #130] 11月22日から第15回東京フィルメックスが開催されます。 (Nov. 22 ~ Nov. 30) そこで、今年の東京フィルメックスのコンペティション部門で上映されるイラン映画『数立法メートルの愛』をご紹介します。 東京フィルメックスは今年で15年目を迎えるわけですが、今まで貴重な掘り出し映画を世に紹介してきました。なかでも日本では見落とされてしまう中東映画を勢力的に紹介することで、日本における中東映画の地位を確立してきました。ですから、東京フィルメックスにて、さらにはコンペティション部門にて上映される映画はアジア映画ファンにとって見逃せないのです。そして15年目を迎える今年、東京フィルメックスは初の単行本を出版します!(『この映画を観れば世界がわかる〜現在を刺激する監督たちのワールドワイドな見取り図』、¥1800)本書は、2008年〜2014年まで雑誌『SAPIO』にて連載された記事が元となっています。本書は、様々な国の映画を隔てなく上映してきた東京フィルメックスだからこそ編成できる映画の世界地図なのです。 さて今年、東京フィルメックス・コンペティション部門で上映されるイラン映画は、『数立法メートルの愛』と『プリンス』ですが、両作ともイランにおけるアフガン難民の現状をリアルに描いています。イランはアフガニスタンと国境を接している、そして言葉が通じるといった理由からイランへの合法/違法アフガン難民の移住は後をたちません。一方で、彼らは多くの場合、イラン政府の援助から見落とされ正当な教育を受けられず安い賃金で労働を強いられています。ですから、イランにおけるアフガン難民問題はとても深刻であり、多くの監督の作品でも度々取り上げてこられました。例えば、第二回東京フィルメックス(2001年)でも上映されたモフセン・マフマルバフ監督の『カンダハール』は、カンヌ映画祭でも話題をよんだ、アフガン難民の問題を真正面から描いた印象的な作品です。そして今年の東京フィルメックスのコンペティション部門で選ばれたイラン映画が2作ともアフガン難民を題材にしていることから、この問題がいまだにイランそしてアフガニスタンを悩ませていることが映画を通してうかがえます。イランへのアフガン難民の流出が増加する背景には当然、アフガニスタン国内の情勢不安が見え隠れしている訳でありまして、マスメディアでは流行のごとく騒がれそして忘れ去られた2001年のアフガン紛争やタリバンは、現実ではまだ過去の話ではないことを痛感します。 『数立法メートルの愛』は、テヘラン郊外で働くアフガン難民の恋愛を描いたストーリーです。自身もアフガン難民である監督による作品であることから、緊張感そして監督の想いを感じることができるでしょう。先ほども触れましたように、イランではアフガン難民の権利や地位が保証されないことが少なくありません、その結果、彼らがイラン社会で一定の地位を築くことはやはり並大抵の努力では達成されないでしょう。このような環境下でアフガン難民としてアフガン難民を題材とした作品を世界に発信した監督Jamshid Mahmoudiの熱意が感じられます。また、本作はイランでは珍しいが近年増加してきているインデペンデント映画、すなわちイラン政府から援助を受けていない作品であることも注目すべき点です。イランでは従来、政府の支援を受ける代わりに政府の意向を大いに受け入れるかたちで国内映画は製作されてきましたが、近年インデペンデント映画製作の増加に伴い、イラン政府の関与をできる限り最小限に抑えた比較的自由度の高い映画製作が可能になってきました。 『数立法メートルの愛』:http://ift.tt/1ujtOmL 『プリンス』:http://ift.tt/1AtetZ7 『この映画を観れば世界がわかる〜現在を刺激する監督たちのワールドワイドな見取り図』:http://ift.tt/1ujtQL8 『カンダハール』: http://ift.tt/1AtetrX Jamshid Mahmoudi: http://ift.tt/1Atets3 by Sevin http://ift.tt/1jB6EEk

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/1v2U1Ln



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1FayZ0l

2014年11月20日木曜日

Here's What's Wrong With the American Film Market — and Hollywood, Too

[World News #129] 皆様、「AFM」はご存知ですか?AFMはAmerica Film Marketの略で、今年で35周年を迎えた映画の見本市です。フランスの「カンヌ」、イタリアの「MIFED」と並んで世界三大映画見本市と呼ばれ、多くのバイヤーが訪れます。今日はそんなAFMが抱えている問題についての記事を紹介します。 私は今年、AFMに赴きました。サンタモニカで食べた22ドルのサラダや、ホテルの窓からの景色はそんなに悪くありませんでした。 しかし、映画に関してはどうでしょうか。AFMは、映画の質に関して全く考慮していません。それどころか、時には嘘をついたりします。AFI(*1)では、多くのタイトルが45分間流されます。AFIでは、何百もの映画か400本だけを慎重に抽出します。しかし、AFMでは、エントリーの条件は小切手のみであり、多くの出展社がマーケットで雑多に映画を流しています。 二つのイベントには、元は関係性がありました。AFIは質を、AFMはビジネスを追い求めていました。しかし、サンタモニカとハリウッドを結ぶといった困難以前の問題で、二つのイベントの関係性はなくなってしまいました。 世界各地から配給会社の代理人が殺到する中で、重要なものは質ではなくなってしまったのです。 確かにAFMは「ウェインステイン映画配給会社」や「ボルテージ」のような、良い映画をアメリカの映画館に配給しなくてはならない映画会社にとってありがたいものです。彼らはホテルでビジネスを行います。映画製作者から見たら、AFMは異世界です。しかし、バイヤーにとっては、映画を購入する過程で誰の感情も害することなく取引を遂行することができるようになります。しかしながら、こうした理にかなった側面がすべてではありません。 会社は、派手なポスターを使って宣伝しますが、その映画はまだ存在していないし、もしかしたら今後も存在しません。時々、オーソン・ウェルズの『The other Side of the Wind』や三池崇史監督の侍映画のティーザー(*2)などもありますが、AFMでの基本状態は、いんちき商品の売買となってしまっています。 私は、あてもなくAFMの会場の廊下をふらふら歩いていました。その中で私は、『Too Many Cooks』で下品なポップカルチャー特有の言葉のあやが大量に出てきたときと似たような気持ちを感じました。すなわち-「誰がこんな『クソ』に金を払うんだ?」 その答えは「多くの人」です。AFMは毎年世界中から8,000人の代理人を呼び込みます。企業にとっては、ローコスト/ハイリターンの仕事で、AFMにとっても安泰な仕事なのです。AFMはもはや、「質の不在」によって定義づけられます。本質的には、そのことが、制作会社が質の低い映画を生み出す要因となってしまいました。 AFMでは、海外のバイヤーのために「面白いインディーズ映画の発掘」も行われます。国内の配給会社では、海外のバイヤーたちの反応を見て、売れるかどうかを判断することが出来ます。そしてもちろん、AFMは売買の機会を必要としている会社同士を結び付けます。映画産業の発展によって経済活動を活発にさせようとしている国、例えばマレーシアやタイから、南米の多くの国のためにもなります。 しかしながら、その過程には映画の製作サイドが一切介在せず、製作者と配給会社の、未来に良い映画が作られるような直接的なつながりがありません。 ここには、世界的な映画産業が、商業を活発化させる芸術活動へのモチベーションを製作側に持たせることに失敗し続けている小世界が見られます。 もちろん、こうした問題は何も新しいものではありません。『Electric Boogaloo: The Wild, Untold History of Canon Films』でば30年間がらくたのような映画を売り続けてきた会社のやりくりを追っています。スタジオ・システムでない製作方法で作り、解放感を感じる一方で彼らは創造力を貧困にさせていきます。問題の一因は、AFMのようなイベントにあります。AFMは、表面上は経済活動の維持に主眼を置いているものの、ビーチでぶらぶらしたり、人々が大物であるかのように振舞うための言い訳となっています。真の映画文化を涵養するための見本市のはずが、その逆の結果を招いてしまっているのです。 あるAFMの出席者は「AFMはビジネスなんかじゃないよ。バカンスにお金を払っているだけだ」と述べました。彼は続けます。「AFMの会場で出来ることは、スカイプやEメールでだって出来るよ。全くばかげている」 記事:近藤多聞 *1 北米最大の国際映画祭。ハリウッドで開催されている。 *2 商品を隠したり小出しにしたりして興味をあおる広告など 引用: Indiewire: http://ift.tt/1A3Bem4

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1A3Bem4

via IFTTT

[World News #128] フィルムは時代錯誤?『インターステラー』フィルム上映にみる限界と可能性 11月7日よりアメリカで公開され、今月22日より日本でも公開されるクリストファー・ノーラン監督最新作『インターステラー』。人類滅亡を防ぐべく、地球に変わる第二の惑星を探す宇宙の旅に出る…というノーラン監督のSF超大作だ。本公開に先駆けた11月5日、本国アメリカの映画館で35mm・70mmフィルムによる先行上映が行われたが、フィルム上映に関して劇場主たちから批判の声を受けていたという(*1)。 『インターステラー』の配給パラマウント映画とワーナー・ブラザーズは、先行上映に参加するアメリカ国内240館もの劇場が、10月頭の時点で未だ上映用のフィルムプロジェクターを準備していると発表。それもそのはず、アメリカ国内の映画事情も日本国内と同じように、殆どの劇場がフィルム上映では興行面で予算回収できないために、デジタル移行してしまったからである。 本作の監督、クリストファー・ノーランがフィルム映画の熱狂的な支持者であることは業界でもよく知られている。以前のInside IndieTokyoでも、クエンティン・タランティーノ、マーティン・スコセッシらが映画配給会社と協働し、フィルム生産打ち切りのため閉鎖寸前だったコダック社の工場と契約を交わした件に触れた(*2)。フィルムに惹かれる作り手にとって“フィルムかデジタルか”は映画製作において譲れない拘りであろう。 しかし、今回の『インターステラー』フィルム上映に関しては、さすがの劇場側も難色を見せた。ハリウッドのスタジオがフィルム手配を中止したことを契機に、現在世界各国の映画館は殆どすべてデジタル移行されている。皮肉にも『インターステラー』の配給であるパラマウント映画は、今年初めにフィルム配給を取り止めた最初の映画スタジオでもある。 全デジタル上映を行うジョージア州の映画館系列、スポットライト・シアターズのCEOであるジョー・パレッタ氏は「この試みは、確実に我々の行ってきたことを格下げしている」と述べる。「たった2日間のこの上映のためにフィルムを用意する予算はない。それだけでなく、フィルムを扱う映写技師すら用意できない」と苦いコメントを残した。パレッタ氏と共にフットヒルズ・シネマを経営するバイロン・バークリー氏も「時代錯誤で、無意味」と批判の声を露わにした。ハリウッドのスタジオからの資金援助はあるといえども、彼らのような小規模映画館チェーンの経営者にとっては金銭的ダメージを食らうのは当然だ。 しかし、35mm・70mm・DCP・IMAXと様々な方式で上映される『インターステラー』に対し、それぞれ絶賛の声もあがっている。「デジタルこそ暗さを活かして撮影できると聞いていたが、映写となると、やはり宇宙の暗さはフィルムのほうが美しく出る」、「確実にIMAXで観るべき映画。普通の劇場で観ていたらこれほど圧倒されていない」、「35mmにすることで、この世の他のものに全く類を見ない作品になった」…などの意見が殺到している(*3)。デジタル上映時代にあらゆる映画上映の可能性も示唆している、新しい映画ともいえるだろう。 記事・内山ありさ(早稲田大学) *1 Why Theater Owners Aren't Happy About Christopher Nolan's 'Interstellar' Film Initiative http://ift.tt/1tl4UTK *2 [World News #069]絶滅寸前なフィルム映画のため立ち上がる!タランティーノ、ノーラン、スコセッシら奮闘(内山ありさ) http://ift.tt/14MkcMz *3 70mm? IMAX? DCP? How Format Affected Our Theatrical Experiences With Christopher Nolan's 'Interstellar' http://ift.tt/14MkcMC



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1xPVDHY

2014年11月16日日曜日



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1sSYqfk



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1sSYnQE

[World News #127] アメリカン・インディペンデント in Progress  U.S. in Progressという映画祭のプログラムをご存じだろうか。現在のアメリカのインディペンデント映画ばかりを上映するプログラムである。現在はポーランドのウォルクロー映画祭と、フランスのシャンゼリゼ映画祭の2か所で、映画祭の1プログラムとして組み込まれており、2011年から毎年開催されている。このプログラムが特徴的なのは、アメリカのインディペンデント映画作家たちが自分の作品をそこで上映し、知識のある観客たちと一緒に考え、場合によってはこれからまた手直しをしてもっと良くしていって、のちに上映するときには援助しましょう、というwork in progressの方法で映画を作っていくのが目的のひとつであるということだ。  work in progressの方法で映画を撮って、「自分の映画をいいと思うのは作った本人だけだ。しかし、なぜそれが良いのかという根拠を、自分で説明できなければならない」と、『God Bless the Child』の共同監督であるRobert Machoianは語っている。自分の作品を他人に説明し、自分では気が付かなかったが無意識のうちに作品に付与していた意味を他人に発見されるという経験は、特に若い映画作家にとって重要なものになるだろう。  『God Bless the Child』では、演技経験のない子供を登用して、母親に見捨てられた子供たちをリアルにとらえている。脚本はあるけれど、子供たちが自発的に生み出すめちゃくちゃなエネルギーは、さながらドキュメンタリーのようである。共同監督のもう一人Ojeda-Beckが言うには、このストーリーはRobertの父がかつて実の母親に「兄弟の面倒を見るように」との書置きを残して出ていかれてしまったという話にインスピレーションを得て、そしてRobertの息子を使って撮るという方法をとったのだそうだ。  この映画は、音響デザイン、色彩、作曲、など多岐にわたって優れていると高い評価を獲得し、ヨーロッパの配給会社の目に留まることになる。2015年のサンダンス映画祭に出品されることも決まった。しかしそれに加えて、監督の側は、このプログラムで人間関係が広がることに価値を見出していた。「表彰式がおわったらみんなで飲みに行こう。もっと深い話をするためにさ。」  2012年にU.S. in Progressで注目を集め、ヨーロッパの配給会社からプリント代と宣伝費を獲得した『I Used To Be Darker』のプロデューサーは以下のように語る。「インディペンデント映画は一般受けするようなジャンル映画でないことが多いし、特にインターナショナルな配給会社から注目されるものでもない。それでも上映に集まった映画人同士で関係を築くこと、作品を完成させるまでにいろんな人に見せて、様々な意見をもらって作品を良くしていくことが、インディペンデント映画がごみごみと混在する中から頭一つ抜けるためにずっと重要なことだ。」  また、映画祭で審査員を務めたアーティスティックディレクターによると、AFFが称賛するのはこの手の野心だという。「編集やストーリーテリングの上手いアメリカ的な映画作りと、作家主義のヨーロッパ的な映画作りの間のギャップを埋めること、つまりアメリカの映画をヨーロッパで流行らせるための何か特別な工夫なんかは、必要ないと思っている。一風変わったコンセプトと、彼ら自身のかなり個人的な物語、それでいいのだと思う。彼らの勇敢で新鮮なアプローチは、ハリウッドでは生まれない。そういう国籍も慣習も乗り越えた面白い作品がインディペンデントの作家から生まれるのが、私たちの希望です。フランスのヌーヴェル・ヴァーグだって、その頃のフランスの観客に感銘を与えたのはアメリカ映画だったのですから。」 則定彩香 横浜国立大学 教育人間科学部 http://ift.tt/14t0QvO http://ift.tt/10LQW66 http://ift.tt/14t0TaW

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT

2014年11月14日金曜日

[World News #126] ポール・トーマス・アンダーソンが紹介する“Mondo Hollywood” 11月8日~13日、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターおよびエジプシャン・シアターで、アメリカン・フィルム・インスティチュート主催の映画祭「AFIフェスト」が開催されました。新作映画の見本市というよりも、アカデミー賞を始めとする今年度のアメリカの映画賞レースに参加する作品のお披露目の場として知られる映画祭で、11日にはクリント・イーストウッドの最新作“American Sniper”が初上映され話題になりました。 さて、先月のニューヨーク映画祭でお披露目されたポール・トーマス・アンダーソンがトマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』を映画化した作品 “Inherent Vice”も同映画祭で8日に上映されたのですが、その上映前に「ポール・トーマス・アンダーソン・プレゼンツ」という名目で “Mondo Hollywood”(#1)という作品の上映、ならびに同作の監督であるロバート・カール・コーエンとアンダーソンの対談が行われました。今日はその模様をレポートしたIndieWireの記事(#2)とともに“Mondo Hollywood”について触れたいと思います。 “Mondo Hollywood”(67)は1965~67年に撮影されたドキュメンタリー映画で、ロサンゼルスに暮らす有名無名の人々の姿が彼ら自身による(ただし時に誰の独白であるかわからなくなる)ナレーションとともに映し出されます。登場するのは、ストリッパー、役者、歌手、ヘアスタイリスト、サーフ映画の製作者、サイコロジスト、彫刻家、ハウスキーパー、スカイダイバーなどなど多彩な人たち。そして商工会議所の懇談会やイギリス王室のマーガレット王女がユニバーサルスタジオを訪問した際の記録映像、さらに反共主義やベトナム戦争への反対デモ、ワッツ暴動で廃墟と化した場所なども撮影されています。 ちなみに1968年のアヴィニヨン映画祭に招待されながらも「視覚的攻撃性や編集による心理操作が国民の心の健康にとって有害である」という理由でフランスで上映禁止にされた過去を持つ曰く付きの作品でもあります。 アンダーソンがこの作品を観たのは近年のことで、1970年のロスを舞台にしたトマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』が原作である“Inherent Vice”を準備していた時に、ロスにあるラルゴというクラブのオーナーからこの作品を勧められたのだそうです。最初はこの作品に対して懐疑的だったというアンダーソンですが、観た途端に「こんなものは今まで見たことがない」と思ったと言います。「変わり者、厳格な人、人情深い人などなど多様な人々に接近し、彼ら個人を映し出したこの映像に心を動かされ、“Inherent Vice”を作る上でとても参考になりました。僕らの作品は1970年が舞台ですが、その数年前に作られた作品であることがより一層貴重だったんです。なぜならこのフィルムはコミュニズムやベトナム戦争という時限爆弾がカチカチと時を刻んでいるのを捉えているからです」 当時、アリフレックスの35mmカメラを自ら肩に担ぎ、ロス中を歩き回っていたコーエンは「私はただその時間が“ある”ことをとらえようとしました」と言います。「何かにカメラを向けることは、その時間を記録しているということです。47年後にここに座って、ポールを含めた当時はまだ生まれていなかった大勢の人たちと一緒に同じ映画を見ることになるとは想像もしていませんでした。もし1955年、私が25歳だったころに、50年前の1900年あたりに撮られた風景を見ていたら唖然としたと思いますよ。完全に違う世界ですからね」 この対談をリポートしたチャーリー・シュミードリン氏によれば、“Inherent Vice”には“Mondo Hollywood”からの影響が具体的にわかる場面がいくつかある(たとえば“Mondo Hollywood”に登場する、マリブの山頂に10ドルでガレージを借りて猿とともに遊んでくらす百万長者の青年のキャラクターがホアキン・フェニックス演じる主人公に投影されていると思われるシーンなど)とのことだが、アンダーソンとコーエンの発言を読む限りでは、やはり“Inherent Vice”が受けた影響は、“Mondo Hollywood”の細部に宿った時代の空気のようなものにこそあるように思えます。 コーエンもアンダーソンの作品のそういった点を高く評価しているようで、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』については自身の体験を交えて以下のように褒めたそうです。 「私は1950年に中央カリフォルニアにディアブロ山脈にある採鉱場で鉱業アナリストをしていたんです。その鉱山のオーナーはジョン・ウェインでした――もちろん彼がそこに来たことはありませんが。私は夏の間そこで時給1ドル25セント、食事つきで働き、4人の同僚とひとつのテントで寝泊まりしていました。あなたの映画(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』)を観た時、そこには私が知っている正真正銘の鉱山での娯楽が描かれていると思いました」 さらに“Inherent Vice”に関しても、「私たちは物理的にはここ(ハリウッド)にいますが、一方でここにはいないんです。ハリウッドは記憶の中にある…。ここは幻想をつくり、それを世界中の人々に売るビジネスマンによって舗装された砂漠です。人々の記憶の中にあるハリウッドの人々やイメージはテレビや映画というフィルターを通したものです。 “Inherent Vice”を観ましたが――ポールはそういった感覚をも表現できる達人ですね」と述べています。 “Inherent Vice”は12月12日より北米の一部で公開、日本での公開は2015年に予定されているそうです。同作を観る前に、ぜひ“Mondo Hollywood”もご覧になってはいかがでしょうか。(#3) 黒岩幹子 #1 http://ift.tt/1zo3JYy #2 http://ift.tt/1pXUcHy #3 “Mondo Hollywood” (Youtube) http://ift.tt/1zo3JYA

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/1ECmwk3



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1ECmwjT



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1BlKSSE



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1BlKQKz

2014年11月13日木曜日

[World News #125] 「非営利」(Non-Profit)を巡って  今日は「非営利(Non-Profit)」に関わる記事を紹介します。映画製作と配給、上映活動における新たな動きを巡る話題です。著者の Nick Toti 氏はこれまでインディペンデントの映画監督、俳優として活動し、これまでに蓄積した経験と知識を携えて、非営利団体である「Interesting Production」を設立したといいます。  日本国内と米国では寄付金や営利/非営利の考え方がおそらく異なるので、単純に参考になるものではないかもしれませんが、記事の前半で語られる非営利活動の歴史、現在を考察した分析はなかなか示唆に富んでいるように思います。また映画に限らず、文化活動の運営者が「何から独立するべきなのか?」といった問題を考えるにあたっても、一読の価値があるかもしれません。 (※1) 「過去二年間、私は様々な文献や人々の意見から、映画という産業の未来について考えてきた。たとえば、テッド・ホープは持続的な産業システムの形成が急務だと語っていたし、ティム・リーグは配給の新しい経路を模索している。海賊版の普及については賛否両論があり、あるいは、クラウド・ファウンディングによる出資の是非をめぐる議論も依然として不明瞭なままだ。  しかし、私と、映画製作のパートナーであるマット・ラサムの考えでは、これらのいまとなっては聞きなれた議論のほかにも、いくつか重要なことが見落とされている。まず、こうした意見はすべて映画産業の内部にいる人々のものだ。かれらの多くが、海賊版の流通に否定的な姿勢をとっているのは、沈みゆく船の甲板に空いた穴をふさごうとしているかのようだ。しかし、映画製作はこれまでになく盛んなものになっている。高性能の機材はますます安価になり、クラウドファウンディングの普及、オンラインで配給される作品へのアクセスのしやすさなど、いくつかの要因が状況を変化させてきたのだ。産業の既存の体系はそういった流れに遅れまいとするけれども、我々真にインディペンデント(ここでいう「インディペンデント」とは、注目を集めているわけでもなく資金があるわけでもない、しかし自身の内側からの想いを原動力に映画を撮り続けている若者のことだ)の作家こそは、これらの方法をフルに活用することができる」 「これまで非営利的な製作体制は、主に劇場を運営する企業によって採用されてきた。これらは文化としての映画の存続を目的とし、理解のある観客の直接的な支援に支えられてきた。現代のインディペンデント映画は、ごく自然にこうした非営利の方法論に向かっているのではないだろうか。予算が少なかったり、個人的な作品であったり、あるいは何か非常に偏った趣味の映画は、寄付金によって資金が集まってはいても、採算をあげることは稀である。しかし、情熱のある観客と作家たちの新たなコミュニティの形成によって、こうした作品に横のつながりを生み出すとともに、経済的な面でも、口コミなども利用しながら製作を支援することが可能になる。」 「例えば「Nobudge」(※2)のようなウェブサイトは、20世紀半ば「Little Journal」が詩の文化にたいして果たした役割を、映画産業にたいして果たそうとしている。「Simple Machine」(※3)は未公開の映画を観客に(註:例えばプロデューサー、映画祭ディレクターに)届ける役割を果たしているし、「Micro-Wave Cinema Series」(※4)は作家と情熱的な観客をつなげようとする試みである。こういった事柄は、市場の枠組みの中でのアメリカの映画産業の在り方を超えていく、その始まりのメディアであるように思える。」 「現在まで、非営利の団体にとっての最大の障壁は「文化への寄与」にかかわる問題だった。非営利団体は、ことさらにその活動が「文化的に意義がある」ことをしめさなければならない。たとえば「教育的なプログラム」であることや、地域文化や社会的問題と関わるものであることを強調する必要がでてくるのだ。こういった側面のために、非営利の映画製作団体の上映活動は教育目的重視のドキュメンタリーや、時事的な政治問題を直截的に扱ったフィクションに限定されることが多かった」 「こうしたことを視野に入れて、私とマットは従来とは異なる方向性を模索していた。我々が作ろうとしている映画は一般的に広い支持を受ける類のものではないかもしれない。けれど私は映画を通してでしか伝えられない何かを表現するために作品をつくるべきだと思っていた。そして現在、インターネットを通してそういった映画を、そうした関心を持つ人々と共有することもできる。そうした流れで我々は『Interesting Production』という名前の非営利の映画会社を設立したのだ。新たな映画製作と配給の体系の一端となればと思っている」 「Interesting Productionではすべての作品を無料で公開する予定だ。配給経路に作品をゆだねることは視野に入れない。我々がやろうとしていることはある種の極北で、あまり他の人たちはマネしたがらないかもしれない。けれども、新たな開拓を試みるときには、大胆さが必要な場合もあるはず。すべては寄付によっておこなわれる。それはつまり、この事業が継続するか否かは、私たちも属している共同体の善意に依っているということだ。...時間と労力を要することは間違いない。  現代はアメリカ映画産業にとって、刺激的な時代だと思う。我々の理想とする映画を支える経済のシステムは未だ明確なかたちをとっていないが、資本のみが猛威を振るった時代は終わろうとしている。大いなる理想とヴィジョンを持ち、未来のシステムを想像する人々にとっての、新しい時代が到来しつつあるのではないか」  著者はこの記事で、IndependentであることとNon-profitであることを延長線上に捉え、それらふたつの性格を包括できるようなシステムの構築を目指しています。  日本でもクラウドファウンディングはかなり定着し、Load Showなどの活動に、新たな配給活動の一端を見ることができます。冒頭でも書いたように、米国と日本ではかなり文脈が異なるとはいえ、様々な形式の製作・配給・上映の方法が実践されているという状況には、今後も注目したいところです。 (※1)http://ift.tt/1up17Jy... (※2)http://nobudge.com/ (※3)http://ift.tt/1ovGkwn (※4)http://ift.tt/1xQ71Tk 文責:井上遊介(映画批評MIRAGE 編集委員) 11月15日は七里圭さんのイベントがあります。 (http://ift.tt/1up17JD パンフレットの編集などお手伝いしました。ご興味あればぜひ。

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT

2014年11月11日火曜日

[World News #124] 映画監督への道は一つではない あなたが映画監督への道を志したとします。では、どうやってその夢を実現すれば良いでしょう?かつてスタジオシステムが存在した時代であれば、映画会社に入社し、脚本を書いたり助監督を経験した後、映画監督へと進出するコースが存在しました。しかし、それはもう過去の話です。今なら、映画学校に入って映画作りを学ぶのが最短コース?しかし、学校に入学して一本か二本の作品をそこで作り、やがて卒業したあなたは気づくかもしれません。自分は映画監督という仕事の「形」を学んだだけであって、本当に監督になった訳ではないのだ、と。では、映画監督になるのはどうすれば良いのでしょう?あるいは、映画監督という仕事は現在に於いて何を意味するのでしょう?映画監督になるとは、どういうことであるのでしょう? 90年代以降の米インディペンデント映画を代表する一人にホイット・スティルマン(#1)という監督がいます。残念ながら日本では正当に紹介されていませんが、ロメール的とも評される会話を主体としたユーモア溢れる群像劇で、世界的にファンの多い映画作家です。しかし、彼の映画監督としての道は決して平坦ではありませんでした。 1952年生まれのスティルマンは、ハーバード大学を卒業後、はじめジャーナリストとして職を得ます。しかしその職を失った彼は、スペイン人である妻の紹介からスペイン映画をアメリカTV局に売るセールスエージェントの仕事に就きます。その傍ら脚本を書き続けた彼は、自らのアパートを売却し友人たちからの援助も加えて集めた500万円ほどの資金を元に処女長編『メトロポリタン』(90)を監督します。この作品で高い評価を得たスティルマンは、続いて『バルセロナの恋人たち』(94)『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』(98)を発表し、いずれも現在では90年代米インディペンデント映画のクラシックとも呼ばれる名声を確立しました。 ところが、その後プロデューサーと共にイギリスのスタジオで様々な企画を手がけたスティルマンはいずれも実現することができないまま13年間の時を過ごしてしまいます。その意図せざる沈黙の後に発表した『ダムゼル・イン・ディストレス』(2011)では、インディペンデント映画の女王グレタ・ガーウィグを主演に迎え、再び現役へと復帰。現在は、Amazonオリジナルシリーズの『The Cosmopolitans』を撮影しています。 ポーランドで開催中のアメリカ映画祭でレトロスペクティヴが開催されたスティルマンは、自らの波乱に満ちた人生を振り返りつつ、映画監督への道について次のように語っています。(#2) ■映画監督への道について できるなら今すぐビジネスに飛び込んだ方が良いよ。でも、それが上手く行かなかったとしても別の道がある。早熟なタイプもいれば晩成型もいる訳で、僕は後者だと思うね。大抵の場合、物事が上手く行く瞬間というのがあるわけで、たとえば、君がたまたま会うべき人の隣に座っていて、話すべき事を話したとか、そういうタイミングが必要なんだ。 小説家には、すぐに物書きで成功しなかった作家を羨む人たちがいる。成功するまでに別の仕事をして別の世界で生きてきたからね。例えば、フィッツジェラルドはジョゼフ・コンラッドが船乗りだった事実をすごく羨ましがっていた。僕の場合もコンラッドほど魅力的でもロマンチックでもないけど、幾つかの異なった世界で働くチャンスはあった。 (フェルナンド・トルエバやフェルナンド・コロモといったスペイン人監督のセールスエージェントとして働いていた時)僕はトルエバに頼まれてアメリカ人の奇妙な精神分析医の役を演じたことがある。そこで、映画がどのように作られるのか見ることができたわけだ。後に『バルセロナの恋人たち』となるスクリプトもそこで書いていたんだけど、外国で映画を作ることはとても難しく、とてもお金のかかることであり、とりわけ処女作で選ぶべき選択肢ではないと気づいた。だから合衆国に戻って、可能な限り最もシンプルな方法で映画を作る道を探ることにしたんだ。 ■フィクションか脚本か はじめ、僕はフィクションを書きたかった。フィッツジェラルドや僕の尊敬する小説家のコピーをしたかったんだ。でも、ある時壁にぶつかった。そして脚本を書くのが怖くなった。僕はただ映画を監督したかっただけなのに、そのために脚本を書かなくちゃいけなかったんだ。でも、やがて学んだんだけど、映画脚本の素晴らしいところは、どの登場人物も自分自身の語り手であるということなんだ。そしてその語り手は、君以外の誰か役者が演じてくれる。『メトロポリタン』の製作中、ある瞬間から役者たちが自ら自分自身の役を作り上げていくことに気づいた。自分自身の事実を語り始めたんだ。 たいていの場合、僕は最近起こったことをそのまま脚本に書くことができない。それは過去から少しねじ曲げられなくちゃいけないんだ。自伝的な内容を直接書くべきじゃないと思う。本当に創造的なのは、自伝的内容をスクリーンにそのままのせることではなく、ボンヤリした記憶の膜を通じて物事を改めて作り上げることだと思うんだ。こうした作業によって、アイディアは結合し形を為していく。現実に起きた出来事から変化していくことになるんだ。 ■主題を見つけること 君が最初に脚本を書き始める時に最も大切なことの一つは、君が長い間魅了され続けていて、しかも他人も魅了されると思う主題を探し出すことだ。そこには、なにかセクシーな側面がある筈なんだ。かつて映画監督のエイブラハム・ポロンスキーは、あらゆる映画にはポルノ的要素があると話していた。僕はポルノは嫌いだけど、ある種の主題にはそうした身震いするような興奮があることは間違いないね。 僕が(13年もの)長い間映画を撮ることができなかったのは、原作ものの脚色に取り組んでいて、物事を伝統的なやり方で進めようとしていたからなんだ。つまり、プロデューサーと相談しながら、様々なオプションを前に選択し続けていた。その結果、できあがった脚本は、もはやその映画化権を自分が所持していないなんて事実に突き当たる訳だ。 僕の映画授業のクラスとか、あるいは映画祭に作品が出品された25才くらいの若い映画監督の作品を見ていると、たいてい10才くらいの少年を主人公に描いた悲しい物語であることが多い。でも、世の中に10才の少年の悲しい映画を見たいと思う観客はそんなに沢山いるわけじゃない。君は何が観客の興味を引くか、そしてそれが同時に自分にとって興味深いものであるかについて、もっと注意深く考える必要があると思う。 ■バジェットの問題 『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』は予算が大きすぎた。たとえ君がこの映画にはこれだけの予算があってこれだけの事ができると言われたとしても、それが作品にとって本当に良いことか改めて考えるべきだと思う。あの作品はワーナーから資金が出ていたが、そのためスタジオのやり方で物事を進めなくちゃいけなかった。組合の規定とか、そういうのだ。そして僕たちは彼らに喜んでもらう必要もあった。だから大きなナイトクラブで撮影しようなんて考えた訳だ。でも、それが良い選択とは限らない。小さな場所で撮影した方が良いことだって多いんだ。この結果、広大なナイトクラブと膨大な組合規定と、それにナイトクラブを人で埋めるためだけの桁外れの予算ばかり手にすることになってしまった。あれは完全な間違いだった。今や大きなディスコを見るだけで恐怖を感じる程だよ。20人ほどの友人たちが踊る小さなディスコこそが、僕の考える楽しい空間だ。 ■低予算の代替案を持つこと 僕の最大の失敗は、こんなにも長い間映画を撮らなかったことであり、そしてその事実に向き合わなかったことだ。この失敗から学んだ教訓はこういうものだ。つまり、常に低予算の代替案を持つこと。自分の脚本を他人に売ってしまわないこと。あるいはその必要があったとしても、いつでも買い戻せるようにしておくこと。そしてその脚本をお金なしで撮る方法を見つけることだ。低予算で『戦争と平和』を撮る方法だって世の中にはある筈なんだ。失敗を解決するには、起こり得る事態をコントロールするしかない。自分自身で道を切り開いて、その責任を引き受けるんだ。僕の場合、スタジオとプロデューサーに責任を委ねてしまった。全ての幻滅がそこに始まった。それはプロデューサーの世界なんだ。彼は良い奴だったけど、結局はビジネスマンなんだよ。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://ift.tt/Xd9OKd #2 http://ift.tt/1tTmwdI

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/148aEuZ



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1xp6mck



via inside IndieTokyo http://ift.tt/148aGD8



via inside IndieTokyo http://ift.tt/148aGmC

Les Inrocks - À Lisbonne, le cinéma d’auteur portugais s’unit contre les dérives libérales

[World News #122] ポルトガルのインディペンデント映画作家たちの奮闘 Others Will Love the Things I Loved  今年で第12回目を向かえるリスボンの国際ドキュメンタリー映画祭、Doclisboa*(1)が10月16日~26日のあいだに開催された。lesinrocksによると、今回の映画祭はかつてないほど、ポルトガルのインディペンデント映画作家のコミュニティによる活動が反響を呼ぶものとなったことを示唆している。  今回の映画祭で上映が最も待ち望まれていたManuel Mozos監督による、" João Bénard da Costa – Others Will Love the Things I Loved" *(3)(2009年に亡くなった批評家、映画監督でもあり、シネマテッカ・ポルトゲーザ(ポルトガルのフィルムセンター)の館長を18年に渡って務めた人物、João Bénard da Costaについてのドキュメンタリー)の上映を期に、ポルトガルのインディペンデント映画作家たちの大半が資金援助委員会から身を引くことを発表し、拍手をもって受け入れられたという。  2013年に設けられた新しい法律により、ポルトガル映画・映像院(ICA)の役目の一端として、映画やテレビの企画に関する資金援助を担当する特別な部署(資金援助委員会)が設けられたそうだが、ポルトガル監督協会やインディペンデント・プロデューサー、また映画祭の責任者たちが、それらの資金が個人的な経済的問題の解決と利益のために利用されているということを告発した。  ポルトガルが抱える経済危機の現状に加え、このような問題が浮かび上がることは多くの映画作家たちによる映画の企画が頓挫する可能性を大きく孕んでいる。この現状を打破するため、インディペンデント映画作家のコミュニティは共同文書に「資金援助の決定プロセスにおいて、己の利益を探そうとしない者に与えること」*(2)という要求を文章にしたため、政府に提案する方針を示した。  ただでさえ、ポルトガルで作られる映画の予算が人々の出費の減少と平行線を辿っているというのに、政府の計らいなどによって公的資金に依存して援助され続ける芸術作品もあるという事実を踏まえると、そういった一存とは一線を画す、映画作家や観客の要望に応えるような映画の必要性をポルトガルのインディペンデント映画作家たちは切に訴えている。  今回の一連の流れが" João Bénard da Costa – Others Will Love the Things I Loved"の上映を期に行われたのは、João Bénard da Costaの意志を継ぐ者たちとしての意志表明だったと思われる。João Bénard da Costaは自分が触れた絵画や文学、そして映画の作品から培ったものを、後世に伝えようと、自分の人生をかけて取り組んでいた。そして、本ドキュメンタリーではまるで彼の魂が、自分の愛していた映画や文学作品によってできていたかのように、彼の愛した映画の断片(カール・テオドア・ドライヤーの『奇跡』やニコラス・レイの『大砂塵』)と彼が執筆した批評の言葉と共に、彼の抱いていた情熱を我々(観客)が引き継いでいくかのような構成となっているらしい。*(4)   「その夜に上映された映画のサブタイトルは、商業的でもなく、エリート主義的でもない、一部のポルトガル映画の欲求を主張していた。「自分が愛したものをきっと他者も愛してくれるだろう」と信じて・・・」*(2) 楠 大史 http://ift.tt/1AVcLRn http://ift.tt/1slEnVj *(2) http://ift.tt/1tUNiBk http://ift.tt/1tUNiBm

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1slEnVj

via IFTTT

2014年11月9日日曜日

Why Stephen King Is Utterly Wrong About 'Room 237'

[World News #124]スティーブン・キングと『シャイニング』と『Room 237』 スティーブン・キングが、キューブリックが監督した『シャイニング』を毛嫌いしていることは有名ですが、2013年に公開された、『シャイニング』の熱狂的なファンについてのドキュメンタリー『Room 237』にも苦言を呈しました。しかしながら、『Room 237』はある意味で特殊なドキュメンタリーであり、今回はこの映画に関してのレビューをお届けいたします。 以下、引用。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 偉大な作家でもあるスティーブン・キングはある種馬鹿者でもある。彼が最も馬鹿になる話題の一つは、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』であり、『シャイニング』の、キングが書いた原作への尊重のなさが彼を35年間も蝕み続けている。しかしながら、ロドニー・アッシャーの、『シャイニング』に関するドキュメンタリー『Room 237』が公開されて、彼が馬鹿になる話題はこの映画にまで拡張した。今回は、ローリングストーンとキングののQ&Aを見ながら、「何が真実か」を御覧いただこう。 ――あなたは、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』の熱狂的なファンのドキュメンタリーを観ましたか? うん。だけど耐えられなくて途中でやめちゃった。 ――それは何故? 彼らの「学術的なでたらめ」に耐えられなかったんだ。「人々にナイフとフォークを与えたら、彼らは何かを切ってしまった」とボブ・ディランは言ったけど、それがあの映画で行われていることだったんだ。 キングは、キューブリックの以前のアシスタントであるレオン・ヴ ィタリや、「『Room 237』はただひどいだけじゃない。耐えられな いんだ。ニューヨーク大学芸術学部の新入生の方がまだ映画らしいものを作れる」と書いたへサー・ドッグレイと同じように、『Room 237』を見当違いに批判する人の一人となってしまった。 『Room 237』は『シャイニング』の過大解釈の危険があることを考慮に入れると、多くの人々は『Room 237』を、もっともらしい理論、例えば『シャイニング』は、月の着陸のフェイク映像製作に加担したというキューブリックの告白であるという仮定などの単なる紹介にすぎない、と過小解釈しているという皮肉が生まれる。 アッシャーは、ABCニュースのベテラン特派員である、ビル・ブレイクモアが、『シャイニング』が密かなるネイティブアメリカンの虐殺の記録であると考えている(本人はそれを隠しているが)ことを明かし、被写体の信頼性を保証している。 キングの発言で最も苛立ちを感じることは、激昂する前に理解しよ うとしていないことだ。ディランの発言の引用に関してははまさにその通りであり、『ルーム237』は実際、見境ない分析の適用であり、それは映画が自己批判を経ていない時に起こることだ(初期のレビューは、『Room 237』が映画の批評家の話であると解釈しており、私は「それが悪い批評家である」という一点に基づき、それに賛成する)。しかし、それを「学術的なでたらめ」と切り捨てることは、『Room 237』についてというより、キング個人の問題だ。『Room 237』が本当は何なのかを議論する際、人々は、まさしく映画の被写体のように、ひどく危険なリスクを背負わねばならないが、そのリスクを背負うことは、繰り返すロールシャッハテストの一種として、最も機能的なやり方なのだ。 『Room 237』の被写体のうち何人かは、大学教育を受けているが、 彼らの理論は学術的なものというよりは、キューブリックが『シャイニング』を製作した時には、不可能ではないにせよ、非常に難しかったであろう、ある特定の側面への熱心な鑑賞と、インターネットに依拠しており、映画の中に出てくる、「ミノタウロスの絵」のようなイメージを観ていく中で、それが彼ら自身の理論を成り立たせるための、なんら意味づけのない、強迫観念的なテキストであることを無視しながら、効率的に映画の流れというものを無視している(ニセモノの月面着陸が、映画の主人公である、自分の才能のなさによって狂った作家と何の関係があるのか?)。これは、『ソプラノ』のファンのやり口と似ている。どっちの場合も、作者は自分の映画を全てコントロールしていると考えられており、どんな些細なディテールも目的があるのだと考えられている。 『Room 237』をパワフルにしているものは、この「無作為から関連性を生み出す近くの働き」は、狂気を生み出しうることをほのめかし、批評家と観客に、それらは悪魔的であることを分からせた、そのやり方なのである。 文:近藤多聞 引用:http://ift.tt/1tzsWNR

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1tzsWNR

via IFTTT

2014年11月7日金曜日

Why Theaters Are Refusing to Book Godard's Moneymaking 3D 'Goodbye to Language'

[World News #123] 米にて3Dゴダール公開、その影響と現状 あのゴダールが3Dで新作を撮った、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した、などと話題になりながら多くの人たちがゴダールの新作を待ち望んでいます。『Adieu au Langage 3D』(英題:Goodbye to Language 3D)邦題『さらば、愛の言葉よ』はフランスではカンヌ国際映画祭の直後に公開され、アメリカでは先週公開されました。尚、日本では2015年1月に公開されます。 しかし、アメリカでの公開はかなり制限されたかたちで行われている。ゴダールの新作はカンヌ国際映画祭で正当に評価され、批評家からも様々な絶賛の声が上がり、その封切りはとても好調だったようです。「ニューヨークのふたつの映画館で上映され、たったの二日間で総利益は11,448ドルを上げ、その評判が次々に他の劇場との契約を結びつける」に及んでもいるが、ロサンゼルス・シカゴ・ボストンそしてワシントンなどアートマーケットの中心となる重要な大都市で公開されるに至っていないのが現状のようです。 Indiewireではふたつの原因が分析されています。ひとつめは、それがゴダールの映画だから、ということです。「彼の実験的な作品は、他の一般的な作品と同様に扱われない。」「実験的な映画が重大な欠陥となる」ことはアメリカの市場ではよくあることのようです。 今回、特に問題となるふたつめの理由はそうしたゴダールのいわば特殊な映画が3Dの映画である、という点です。「3D映画の主な市場とは異なり、ゴダール映画の核となるアートマーケットでは、映画館にデジタル技術のなかで最も高価な3Dの技術を取り入れるための理由がありません。結果として、そうした(主にインディペンデントな)アートマーケットの劇場では上映することが出来ないのです。」 また「近年での似たような3D作品、ヴィム・ヴェンダース監督の『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』は350万ドルの利益を上げました。しかし、それは興行主のIFCが様々な賞を宣伝として用いたためであり、しかもその主な収入源は昔からのファンの間で見られた2D上映によるのです。一方、ゴダールは正当に3Dのみで上映するべきだと主張しています。」 ロサンゼルスは二番目に重要な特殊なマーケットなのですが、上映のリクエストが殺到する状態が続いています。「ロサンゼルスには、他の主要都市と同様にゴダールを重視する映画愛好者がたくさんいます。そして彼の3Dによる新作は中でもとりわけ熱い注目を集めています。その特殊な技術のおかげで、この注目作を本来の形式で見ることができるのは映画館の観客にほぼ限られるでしょう。この事実は、ニューヨークと同様、この地でも劇場に大きな成功をもたらす可能性があると思います。」 3Dゴダールの公開は、このようにアメリカ市場に大きな、しかし複雑な影響を与えています。そして、恐らく日本でも何かしらの影響を与えることは間違いないです。これから、市場がどう動いていくかは分かりませんが、ゴダールの映画が映画作品の外で及ぼす影響について注目することは、重要となるはずです。 http://ift.tt/1uh1Qi0 http://ift.tt/1tIelC9 三浦 翔 横浜国立大学 人間文化課程 http://ift.tt/1ofDLiA

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1uh1Qi0

via IFTTT

2014年11月5日水曜日

美しい人工知能を描いた映画『EX MACHINA – エクス・マキナ』(2015)ビジュアル&予告編が公開

[World News #121] アレックス・ガーランド監督、『Ex Machina』の予告編公開  『ザ・ビーチ』(2000)や『28日後…』(2002)など、ダニー・ボイル監督作品の原作者として名高いアレックス・ガーランド。独創性の高い作品で読者と観客の心を惹き付けてきた彼がメガホンを取った初監督作品が、来年から全米で公開されることが報じられています。 今回はそのデビュー作である『エクス・マキナ(原題:Ex Machina)』の予告編とともに、鍵となる人物を演じるオスカー・アイザックのコメントをご紹介したいと思います。 (以下引用)  ドーナル・グリーソンは、彼がリラックスできるよい休暇を勝ち取ったと確信している。オスカー・アイザックにはまた違う考えがあるようだ。  『28日後…』や『サンシャイン2057』の原作者であるアレックス・ガーランドが、人工知能SFスリラーの『Ex Machina』で監督デビューを果たす。その初の予告編が、配給元のA24フィルムによって解禁された。(#1)  『Ex Machina』の主演は『スター・ウォーズ7』新キャストとしても知られるドーナル・グリーソンだ。彼は巨大IT企業に勤めるプログラマーであり、会社の(オスカー・アイザック演じる)CEOが所有する山奥の私有地で一週間を過ごせる権利つきのコンペティションで優勝する。続く展開は以下の通りだ。  「到着と同時に、カレブ(グリーソン)は、ネイサン(アイザック)から自分自身がネイサンの最新の人工知能実験におけるチューリングテストの、人間の構成要素の部分として選ばれたことを教えられる。カレブに任せられたのは、人工知能が種々の能力、そして究極的には「意識」を持つかどうかを評価すること―。そして、この実験の末誕生するのが(アリシア・ヴィキャンデル演じる)AVA、美しく目を見張るようなA.I.であった。彼女は、自身が二人の男の想像を超えて感情的知性を持つ洗練され―かつ人を欺きもする―存在であることを示していく。」  また別の記事では、人工知能の開発者を演じたオスカー・アイザックがこの作品を以下のように語っています。  「これはそう遠くない―実際にありえそうな、けれど不確定の―未来が舞台で、すべては家、少なくとも何らかの施設の中で起こる。私は億万長者のプログラマー役で、彼は世界一有名な検索エンジンのアルゴリズムを開発している。もう長い間、彼の姿を見たものや声を聞いたものはいない。そんな中、彼の従業員の内の一人が、アラスカにいる彼のもとへ行き、最新の発明を試す権利を勝ち取る。そこに待ち受けているのが、意識を持つかもしれない女性型ロボットとの出会いというわけだ。」アイザックはこう話す。「だからこれは、人間の経験にとってはとても寓話のような話で、君は自分自身の世界の見方や他人がそうする仕方について知ることは不可能だ。私たちはそれをお互いに表現しようと懸命に努力するけども、真に知ることは出来ない。だからこそ、とてもすばらしいんだよ。」(#2)  『Ex Machina』は、2015年4月10日に全米の劇場で公開される予定です。(#3)日本での公開は未定ですが、”trippy”(=トリップするような、幻覚を見るような)と謳われている予告編を見て、この作品の世界観に思いを馳せてみましょう。 早稲田大学文化構想学部4年 西山 晴菜 #1 http://ift.tt/1zuQdFj #2 http://ift.tt/1p3xqg7 #3 http://japa.la/?p=44372

from inside IndieTokyo http://japa.la/?p=44372

via IFTTT

2014年10月31日金曜日

[World News #119] 映画作家にとっての映画祭とは?  10月26日、東京はデジタルハリウッド大学において、東京国際映画祭の連携企画として、フィルム・ワークショップが開かれた。このワークショップでは、「シノプシス(あらすじ)コンテスト」が行われ、日本の映画作家、作田勇人が最優秀賞を獲得した。彼は、藤澤浩和監督の『砂を掴んで立ち上がれ』(2012)の脚本を務めている。今回は、「Virgin Mafia」という、どうにもヤクザになりきれないヤクザについての話だ。最優秀賞の賞品として、ハリウッド5日間の旅が贈られた。彼はこの5日間の旅で、たくさんのハリウッドの映画関係者と会うことになる。  また、もうひとりEriko Kyoso の「Exchange Mothers」は、2人の母親が人生に本当に求めることを探すために生活を交換するというもので、President’s Special Recognition Prize を受賞した。この賞の受賞をきっかけに、Kyosoは、12月にオーストラリアのブリスベンで行われるasia pacific screen awardsに参加し、また太平洋アジアから集まった映画作家たちとの会合にも出席するとのことだ。この二人は、どちらも映画祭がきっかけで世界に出ていくことができたのである。  「MPA(日本国際映画著作権協会)は、アジアの映画監督や映画人をつなぐための、重要な役割を担っています。そしてMPAは、今この会に参加している輝かしい才能をもつような映画監督個人個人に投資をしているわけではなくて、もっと国際的に開かれた、世界の映画産業の未来に対する投資なんだと思っています。」と、アカデミー賞受賞歴のあるプロデューサーで、今回このコンテストの審査員を務めたデヴィッド・パットナム氏は語っている。  映画祭やそれに付随するような国際的なイベントは、特に映画製作に携わる人にとっては、なかなか出会うことのない、国を越えた映画作家同士の出会いの場として、大きな意味をもつのだろう。今日取り上げたのは比較的小さなコンテストではあるが、ここで海外の人と出会い、さらに日本から出るきっかけを与えて、出会いがどんどん波及していくような、縮こまっていた個人個人のネットワークが開いていくことでいろんなものが生まれて一人ではできない色んなことが可能になっていくような、インディペンデント的に必要な仕組みだと私は思う。 則定彩香 横浜国立大 参考 http://ift.tt/1rL2X2H http://ift.tt/1p0QCfu 関連:大寺眞輔「World News#117 海外映画人と会おう」 http://ift.tt/1rGoQPZ



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1tohxBW

2014年10月30日木曜日

特集:オーソン・ウェルズ - プラネットプラスワン - PlanetPlus1

[World News #118] オーソン・ウェルズについての2つの話題  今日は映画監督/俳優のオーソン・ウェルズについての記事を2つ紹介します。  オーソンウェルズの生涯とその製作活動を追った『Magician: The Astonishing Life and Work of Orson Welles』(『魔術師――オーソン・ウェルズの驚くべき人生とその作品』)(ChuckWorkman監督)が12月にロサンゼルスでプレミア公開されます。  作品はウェルズの生涯を忠実にドラマ化したもの。「1915-1941: The Boy Wonder」と題された第一章では、ウェルズの少年時代から20代までが描かれています。ウェルズの20代は――それはアメリカの大恐慌期とほぼ重なります――多くの事件で満ちています。初の舞台演出作品『マクベス』のヒットをはじめ、もちろん1938年10月30日の有名なエピソード――SF小説『宇宙戦争』のラジオ・ドラマバージョンを迫真の演技でこなしたウェルズの声に、リスナーは本当に火星人が攻めてきたと信じ込みパニックになった――も描かれています。※1  ウェルズ作品からの映像もふんだんに使われ、いかに彼が一作一作で自身のスタイルを向上させていったかを伝えるドキュメントとしても見ることができるようです。既に古典として名高いウェルズの生涯を描く本作はRKOをはじめとしたハリウッドの歴史とも関連して、アメリカ映画愛好者にとってきわめて関心度の高い、魅力的な作品なのではないでしょうか。スピルバーグ、スコセッシ、リンクレイターなどのインタビュー映像も作品には含まれているそうです。※2  2つ目の記事はウェルズの未完作品『The Other Side of the Wind(『風のあちら側』)』の話題です。Royal Road Entertainment社は4半世紀にわたる家族を含む権利保持者との交渉の末、とうとう本作を公開する権利を得ました。※3 ジョン・ヒューストンを主演に迎え、ハリウッド映画監督の映画製作を描いた本作は、同じく未完の『Don Quixote(ドン・キホーテ)』とともに、公開が待たれていた作品です。ウェルズの生誕100年にあたる来年2015年の公開が決定したと同社は発表しています。  本作を論じた著書を来年刊行するジョシュ・カープ(Josh Carp)氏は本作の公開は「オズ大陸、あるいは失われた墓標を見つけるほど」困難な状況だったといいます。※1 1985年に逝去したウェルズは、その最後の15年間の大半をこの作品に費やしました。彼の死後、権利関係のトラブルもあり、長らくフランスでお蔵入りになっていた本作の公開に尽力したのが、製作当時のプロデューサーもつとめていたフランク・マーシャル氏。スピルバーグのプロデューサーも経験した彼は、「これが最後のチャンスだ」と語り、「テクノロジーの利もあって、最終的な編集は滞り無く進めることができた」と語りました。(※3)  思えば、ここ数年ウェルズの特集はみなかったように思います(大阪ではこの夏特集がありました。※4) 生誕100周年の来年、東京でも特集上映がおこなわれることを期待します。 ※1 http://variety.com/2014/film/reviews/film-review-magician-the-astonishing-life-and-work-of-orson-welles-1201334973/ http://ift.tt/1FVy9pF ※2 http://moviepilot.com/posts/2014/10/27/stunning-trailer-for-orson-welles-documentary-is-an-oscar-contender-2384921?lt_source=external,manual ※3 http://ift.tt/1wKPTS1 ※4 http://www.planetplusone.com/special/post_191.php 文責:井上遊介(映画批評MIRAGE 編集委員)

from inside IndieTokyo http://www.planetplusone.com/special/post_191.php

via IFTTT

2014年10月28日火曜日

[World News #117] 海外映画人と会おう 今回は、いつものニュースとは少し趣きを変えて、エッセイ風に書いてみようと思います。そしてこれは、国内でインディペンデントに映画製作や上映などに関わる人たちをメイン読者として想定した文章です。勿論、それ以外の方を排除する訳ではありませんが、その前提を了解した上で読んでいただけると幸いです。 10月中旬、京都と大阪に行ってきました。直前にポルトガルの映画監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲス(彼の特集上映を2013年に私が日本で主催して以来の親しい友人関係です)(#1)からメールをもらい、いまフランスの若手映画監督で素晴らしい才能を持つダミアン・マニヴェル(#2)という人が日本にいるから会っておいた方がいいよ、と教えてもらったからです。 実は、海外の映画人も結構日本に来ています。自作の上映や映画祭ゲスト、海外映画祭のための作品セレクション、あるいはプライベートでの来日という形もしばしばあります。そして、彼らと話してみると、みな一様に日本の映画人と話したがっている。と言うことはつまり、わざわざ日本まで来てるのに、日本の映画人と交流する機会が彼らにはあまりないということです。ごく一部の同じ人たちばかりが、会って話したりすることになります。 しかし、それで良いのでしょうか?日本の映画人も国内や仲間内だけで自足していてはもう駄目だって、もはや明らかではないでしょうか。映画作家にとっては、自作を海外の観客に見せるチャンスとなるかも知れません。映画批評家にとっては、逆に取材するチャンスです。私は、もっと多くの国内映画人が海外の映画人とオープンに交流すべきだと考えています。私たちは、開かれるべきです。 とりわけ、大会社や公的機関に依存せずインディペンデントで活動する映画人にとって、これは死活問題でさえある。だって、お金の無い私たちの武器は、自分たちが作る作品、言葉、そして人間性や交友関係しかないのですから。そして、実のところ、映画の世界で何かを動かすのは、常にこうしたものだと私は考えています。私たちが思っている以上に、友達を作ることはこの世界でとても重要なのです。 海外の映画人と知り合いになるのに、海外に行く必要は必ずしもありません。いまでは、FacebookやTwitterなどがありますし、そこで知り合って個人的にメル友になる場合もあるでしょう。しかし、直接会って話す以上に友人関係を深める機会はやはりないと思います。さらに、マイクやカメラを間に挟んだ取材といった正式な場ではなく、プライベートな食事の席や飲み会では、メディア向けのパフォーマンスとは異なる、思いもかけない零れ話や映画への考えなどを聞くことができます。それは、とても楽しいものです。雑誌などに書くことはできなくても、絶対に私たちの生きる糧となります。 勿論、国内の映画人相手でもそれは同じことですが、生まれも育ちも背景とする文化も、見てきた映画も全く異なるような海外の映画人相手に話していて、思いもかけず映画観が一致したり、好きな映画が一緒だったとか、あるいは逆に新鮮な発想に驚かされたりとか、こうした体験は何にも変えがたいのではないかと私は思います。お金の問題ばかりに支配されがちなこの世界の中で、しかし、確かに映画の世界が存在すること、そしてそれが国境を越えて拡がっていることを感じることができます。 ダミアンは、これまで短編を数本、そして処女長編をこの7月に完成させたばかりの新人監督です。しかし、彼はそれらによって既にジャン・ヴィゴ賞やカンヌ国際映画祭批評家週間での賞、そしてロカルノ国際映画祭でスペシャル・メンションを受けています。いや、それ以上に、連絡を取って実際に作品を見せてもらったところ、これが本当に素晴らしかった。個人的には、もうずっと長い間見ることのなかった新たな才能であり大きな発見だと思いました。ものすごく輝きのある作品を作る監督さんだと思います。だからこそ、スケジュールを無理矢理空けて関西まで彼に会いに行ったのです。 ダミアンとは二日間一緒に過ごし、京都や大阪に住む映画人を紹介したり映画館を一緒に見に行ったりしました。彼にとっても過去最長だったという2時間のロング・インタビューもさせてもらいました。そして、今度は東京に来ることを決めたダミアン(彼は人混みが嫌いで、あまりこちらには来たがらなかったのです)と、今日このあとまた会ってくる予定です。 もちろん、海外の映画人と交流するには語学も必要です。とは言え、多少英語が喋れればそれで十分。映画という共通言語、共通の話題があり、映画についての自分の意見や考えがある。それは相手にとっても興味深いものなのですから。だから、自分の殻に閉じこもらず、仲間内で自足することを良しとせず、自分たちもまた相手への興味を持ち、それを言葉として相手に伝え、少しの勇気を持ってこうした交流の場所へと足を踏み出してみること。国境を越えた友人関係を作ろうと努力すること。それだけで、私たちの世界は大きく変わると私は思います。 そう。話は簡単。後は、実践してみるだけです。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://dotdashfilm.com/ #2 http://ift.tt/1oSEPzS

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/ZUEel8



via inside IndieTokyo http://ift.tt/ZUEe4S



via inside IndieTokyo http://ift.tt/ZUEbGd

2014年10月23日木曜日

Between the Lines: Inception

[World News #115]『インセプション』をシュルレアリスム的に見る いま、ある動画が話題になっています。 http://ift.tt/1omjeiW Brows Held Highというオンライン動画シリーズの中で『インセプション』(クリストファー・ノーラン,2010)を分析して見せる映像が公開されました。単体の作品分析を飛び超えて映画史あるいは美術史の中から関係を見出す分析は、映画とシュルレアリスムの関係を明らかにするだけでなく、『インセプション』という作品そのものの批評にもなっています。全く違う作品を結びつけることは一見奇怪にも見えますが、驚くほど映像同士がマッチすることも少なくないです。 『インセプション』という映画が他人の頭の中に入っていく映画、意識や無意識が題材になっているからではなく、映像が似ているというところから分析されます。ポイントはシュルレアリスムの考え方で、意識から忘れられた無意識の部分を露わにすることで、超現実に迫ることです。ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の引用から始まり、『007』『パプリカ』からコクトーそして『カメラを持った男』のジガ・ヴェルトフまで遡ることで、映画を多層的に見ることを可能にします。いわゆる最新技術を用いてリアリティを映画に与えていようと、もっと複雑に映画が組み立てられていることを明らかにします。ヴェルトフの手法と現代のCGによる映像が何らかの相関関係を持つことは、フィルムとデジタルという問いを超えて我々のイメージの問題にも関わってきます。また、ラストの映画内の役を映画製作の役職に置き換えて、映画についての映画だ、という解釈やアイロニカルな決め文句も面白いです。 この映像は、先週公開されネットで話題になり、Indiewire誌でも取り上げられました。10分ほどの短い動画ですので是非、チェックしてみてはいかがでしょうか。 http://ift.tt/12f6iRK 三浦翔 http://ift.tt/1ofDLiA

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1omjeiW

via IFTTT

2014年10月22日水曜日

[World News #114] Politicalな映画はSocialへ イランでは2009年に勃発した反体制運動Green Movement以降、表現者と政府の間で緊張関係が続いています。特に政府の厳しいチェックの対象となっているのが、映画監督です。それは、映画が多くの人に素早く伝わる手段であり、他のメディアや表現媒体と比較して国民への影響力が大きいからでしょう。なかでも、反体制活動のため20年間の映画制作が禁止されたジャファール・パナヒ監督そして、その後の彼の映画による反抗作品『これは映画ではない』(http://ift.tt/1s7HkbW そして今回、新たに政府の的となっているのが前回もご紹介した第71回ヴェネツィア国際映画祭脚本賞を受賞した『Tales』です。(http://ift.tt/1w8XEkg Banietemadは、イラン映画界における女性監督の地位を確立させたパイオニアです。 今回この映画が政府の批判の的となっている要素をいくつかあげる事が出来ます。 1)インデペンデント映画であること 1979年の革命後のイラン映画は長きに渡り政府の管轄下そして政府の資金で制作されてきました。しかし近年、政府が制作する作品と国民のニーズに大きなギャップが生じ国民の映画離れが危ぶまれてきました。そこで急速的に成長しているのが政府に属さないインデペンデント映画です。それらは、イランでは珍しかった企業からの協賛や時には関係者のポケットマネーでその資金は補われています。そして何より重要なメリットは、政府の意向を直接的に受けないで制作、そして外国の映画祭に出品できる事です。今回『Tales』もインデペンデント映画プロダクションであるIran Novin Filmによる作品であること、さらには政府の反対を無視するかたちで第71回ヴェネツィア国際映画祭に出品そして脚本賞受賞という要素が政府の反感をかう一つの重要な要素であると思われます。 2)2009年の反体制運動後の日常を描く 監督のRakhshan Banietemadはいつも、多くの一般の人々との会話を通して作品のストーリーを考えます。そして今回の映画『Tales』の制作に先駆けて彼女は反体制運動後の人々との会話を通して彼らの日常を抽出し作品を完成させました。ですから監督の作品はいつもイラン国民の生な声が聞こえてくるのです。彼女は忠実に現在の国民、現政権に反発しそしてその戦いに敗れた国民の本音を描いているのです。そして、この要素がイラン政府にとって一番の問題なのです。 イラン政府は国民の映画離れを食い止めるためにもヴェネツィア国際映画祭で受賞を果たした『Tales』を国内で上映したいが、政治的なメッセージのある映画が国民を刺激しかねないことへの懸念をがあります。そしてイラン政府は、映画の政治的側面を社会問題に書き換えてイラン国内で上映しようとしています。 いまなお、イランでは映画への政府の介入が露骨に行われています。しかしそれは、1979年のイラン・イスラム革命後イランの現政権が革命後の国民を統制するためにプロパガンダ映画を起用しその影響力を知っているからゆえにの事なのでしょう。例えば革命直後に現イラン政権が起用したプロパガンダ映画監督には日本でも著名なモフセン・マフマルバフ監督もいました。しかし現在、国民のニーズと政府が制作する作品とのギャップから生じている国民の映画離れを解決するためには、インデペンデント映画プロダクションに頼るしか方法がないようです。その時、政府の意向と制作者との間の同意点をどこに求めるのか、どこまでの自由を制作者に与えるのかまた制作者が自由を獲得していくのか、今後のイラン映画の運命を左右するように思えます。また、こういった不自由な環境のなかイラン映画監督のイラン離れも相次いでいます。キアロスタミ監督やマフマルバフ監督のイラン離れから始まり『別離』で一躍有名になったアスガー・ファルハディ監督の最新作『ある過去の行方』がフランスで制作された事などから、イラン国内における制作活動の限界を目の当たりにします。 Sources: 記事(ペルシャ語):http://ift.tt/1s7HmR0 http://ift.tt/1w8XEkk Iran Novin Film: http://ift.tt/1s7Hkc2 『これは映画ではない』:http://ift.tt/1mOmRNN 『Tales』:http://ift.tt/1tg8rnr 『別離』:http://www.betsuri.com/ 『ある過去の行方』:http://ift.tt/1bpD5ox By Sevin アートな中東 http://ift.tt/1xsdDv7



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1uEAA7p

2014年10月21日火曜日

The Ethics of Documentary FIlmmaking

[World News #113] 近年、『アクトオブキリング』のオッペンハイマー監督がヴェネチア映画祭で審査員賞を受賞するなど、ドキュメンタリー映画が好調です。しかし、ドキュメンタリー映画には、どこまで被写体のプライベートに近づくべきなのか、という問題が常につきまといます。この問題について、Indiewireに、ドキュメンタリーを撮る際の心構えを、実例に基づいて示す記事が掲載されました。 以下、引用。 撮るか撮らないか?対象にどれぐらい接近すべきか、また離れるべきか? こうした疑問は、真実を記録するときにドキュメンタリー作家が自らに問いかけねばならない疑問です。被写体と監督との境界線は、越えられたり、またあらかじめ決められていたり、また監督と観客の間で境界線がどこにあるかの意見が一致しないこともあります。 映画監督のゴードン・クインは彼のドキュメンタリー映画『Hoop Dreams』の20周年記念の際に、ドキュメンタリーを撮る際の倫理についてプレゼンをしました。Indiewireは、クインや他のドキュメンタリー映画監督と彼らが倫理的に曖昧な境界線をどう定めているか、という問題について取材しました。 クインによると「ドキュメンタリーの監督は、彼らの作品に影響を与えうる倫理上の問題や疑いについての感覚を持つ必要がある」とのことです。これはジャーナリズムとはまた違ったもので、単純に、ドキュメンタリーの監督は対象にともすれば数年間接近することになるので、個人的に彼らの生活に深く関わりすぎることになるからです。「ドキュメンタリー作家は倫理に対する責任を持つべきです」クインは続けます。「映画監督は、観客に真実を伝える義務や、作品を発表する際正確を期す必要があります」。 彼は以前撮った映画で、ある被写体の女性に「もうこれ以上映画に関わりたくない」と言われたことがありました。彼はチームのメンバーと、被写体の女性とミーティングを開き、一般公開の前に、彼女に映画を見せることにする、と決めました。 「完成前に映画を観ていただきます。この映画にあなたが必要であること、この映画が社会に良い影響を及ぼすこと、そしてあなたがどれだけ映画の中で重要な位置を占めているかをお話します。それでも、あなたを説得できなければ、あなたを映画に出さないことにします」とクインは彼女を説得しました。 ジェームズ・キーチとトレヴァー・アルバートは有名人に焦点を合わせることで知られていますが、アルツハイマーと闘うミュージシャンを追ったドキュメンタリー映画、『Glen Campbell: I'll Be Me』を製作するにあたって、いくつかの制限を設けました。 「撮りたくないものなどありませんが、線引きをどこに設定するかが監督の才能であると考えています。私たちは、常にグレンの尊厳を守り、同時に病気の確実な進行から目を背けないようにすることを選択しました」とキーチは語ります。 「そうなると、次に『どこまで被写体に踏み込んでいいのか?』という疑問が生まれてきます。最初、どのような方向性にすればよいか分からなかったときに、私たちにアルツハイマーを患っている被写体についての疑問が生まれました。私たちはアルツハイマーがどのぐらい深刻に、どのぐらい早く進行するのかが判らず、私たちは自分達がそのことを追い始めていることに気がつきました。最終的に、私たちは、彼の家族と子供が何を望んでいるのかをさらなる制限として設ける必要があると判断しました。」 『Mugshot』の監督、デニス・モールは、被写体の多くが既に生存していないという難問に直面しました。 『Mugshot』では、犯罪者の顔写真の文化的な重要性が説かれ、古い顔写真が芸術品として考えられうるかどうかについて触れられています。誰もが想像しうるように、この映画製作の中で倫理的な問題が浮かび上がってきました。 「少年をレイプした犯罪者や、凶悪な殺人犯といった下劣な犯罪者を見ることに耐えられるか?という問題が浮かび上がってきました」とモールは語ります。 しかしながら、映画の中で、顔写真のコレクターを見つけ出し、彼らと話したときに、彼らのほとんどは、そうした犯罪者の顔写真を排して展示を行っていました。「そうした犯罪者の顔写真は彼らの望むものではありませんでした。私たちは、そのコレクションの中に凶悪犯罪者の顔写真もあることを隠す必要がありました」とモールは続けました。 それでは、被写体が自らを守ることも、映画を手助けすることも出来ないとき何が起こるでしょうか?それが、ヘンリー・コーラの、19歳にして亡くなったシネフィルの女性を追ったドキュメンタリー映画、『Farewell to Hollywood』で起きたことです。 コーラは映画祭で被写体のニコルソンに会い、彼女の病死の前の映画製作を手助けすることを約束しました。Indiewireは、以前の批評で、「課題は、誠実さだ。最終的に、断片的な要素が、ニコルソンの意図と監督の間のズレを生み、それが倫理的な問題につながっているのではないか。死者から遠いところにいる者の挑発や、生きている監督の、死者への優越となってしまっていないだろうか?」と述べました。 コーラは確実にそうした疑念に気づいていました。「私たちはセックスをしていません、いいですね?」彼は映画のプレミアで、自発的にそう述べました。 コーラは、映画が出品されたホットスプリング・ドキュメンタリー映画祭には出席しませんでしたが、メールでいくつかの質問に答えました。彼は、その映画を被写体と監督の間の、そして芸術と人生の間の境界線が崩壊するような、被写体と監督の共同の努力、すなわち「生きている映画」と呼ぶことを強調しました。 コーラはニコルソンとの肉体的な接触を否定しましたが、クインは、「彼が釈明しなければならなかったこと自体が、コーラが疑わしい行為に及んだかもしれない可能性を示唆している」と述べました。彼は、『Farewell to Hollywood』を観てはいませんが、映画監督と被写体は時々不道徳な関係になったり、監督が道徳的に宜しくない判断を下したりすることを強調しました。 ドキュメンタリーの監督は自らのルールを持ち、打ち立てられた境界を維持し、その境界を越えないように被写体ともども尽力しなくてはなりません。彼らは、作品が撮られるべきであったかどうか疑問に思ったり、倫理的ではないと考えたりする観客が必ずいることを認めなくてはなりません。 文責:近藤多聞 http://ift.tt/1Cz1zp9

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1Cz1zp9

via IFTTT

2014年10月19日日曜日



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1sYEICj



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1pr0SZ5

[World News #112] Boyhoodの次はGirlhood? 昨年公開され、日本でも11月に公開されることが決まっている、リチャードリンクレイター監督の新作『6才のボクが、大人になるまで(原題:boyhood)』は、各地で高い評価を得ている。これに対して、こう言う人がいる。「ボーイフッドは良かったけど、ガールフッドはどうなの?」 それも、ボーイフッドに続き、ガールフッド的映画がごく近い時期にお披露目されたのである。今年のNew York Film Festivalでは、アーシア・アルジェントの『Misunderstood (原題: Incompresa)』、それからアリーチェ・ロルヴァケル『The Wonder(原題: Le Meraviglie)』という2本のイタリア人女性による映画が出品された。この2本はまさに、思春期か大人になりたての少女たちの成長を描いており、非常に魅力的な、まさにガールフッド的映画である。 アーシア・アルジェントの『Misunderstood』は、彼女が女優から映画監督になって3本目の長編。アルジェントはこの作品を「この作品は伝記的ではないが、子ども一般を現実的なものとして扱った妄想の産物で、むしろこれはフィクションなのだ」と主張しており、混とんとしたパンク・ロック・ミュージックとクレヨンパレットで彼女の作家性が刻み込まれている。この作品はどこか控えめで、長尺の作品ではないし、入念に作りこまれているということもないが、圧倒的とも堪えがたいともいえる姉妹の感情の描写が上手く、よくまとめられている。 もう一本の「The Wonder」カンヌでグランプリを獲得した。アリーチェ・ロルヴァケルの3本目の作品で、養蜂家に生まれた少女の家族との関係がどっしりと描かれている。それまで外から影響を受け、閉ざされていた彼女の世界が開かれていくのが、リアルに描写されている。派手な展開はないが、静かで考察のしがいのある作品である。 言うまでもなく、女性の視点が中核をなす作品は明らかに不足している。前述の2本の映画は映画祭に出品されたけれど、未だメインの賞レースに入ることは多くない。そこには多くのハードルが存在するが、足りないのは女性の視点や女性監督のオリジナリティを論じるということなのではないか。女性が映画を撮ることができないのは、ジェンダーに支配されているという理由だけではない。女性中心の視点で描かれた良質の映画が、われわれ観客の側から、もっと熱烈に求められるべきなのではないか。 則定彩香 http://ift.tt/1qUoTYP Misunderstood trailer http://ift.tt/1vP82xv The Wonder trailer http://ift.tt/1vP80Wp

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT

2014年10月16日木曜日

[World News #111] アダム・サンドラーの現在地 10月2日、オンラインDVDレンタル及び映像ストリーミング配信事業を行う最大手の会社Netflixが、アダム・サンドラー主演・プロデュースの4本の新作映画を製作し、独占配信することを発表しました。 アダム・サンドラーの近年の主演作はほぼDVDスルー、Netflixも事業展開していない日本の片隅に暮らす私たちにとっては「ふーん」で片づけてしまいそうになるニュースかもしれませんが、アメリカや欧州では大手通信社や新聞社もこぞって報道、翌日以降も複数のメディアで関連記事が続々出てきています。「Forbes」では経済アナリストがこの契約の肝はどこにあって、Netflixがどれだけの収益を見込めるかなどを分析(#1)、「The Guardian」には「アダム・サンドラーの後、Netflixの次なるニッチ(隙間市場)は?」と題されたNetflixの次の事業展開を予測する記事が掲載され(#2)、「Variety」はアダム・サンドラーが長年ファーストルック(優先交渉権)契約を結んでいるソニー・ピクチャーズとの提携がどうなるかに触れています(#3)。私が見た限り特に力を入れていたのが「Hollywood Reporter」で、3日付でNetflixのコンテンツ総責任者テッド・サランドス氏のインタヴューを掲載(#4)、7日にはワーナー・ブラザーズとサンドラーの製作会社ハッピーマディソンとの間で進められていた西部劇の企画“The Ridiculous Six”が白紙に戻ったことを、「彼がNetflixのために4本の映画を製作するという契約はハリウッドのスタジオを苦境に立たせている」という小見出しとともに報じました(#5)。 それらの記事に目を通していて意外だったのは、このアダム・サンドラーの決断をとても重大な契約、驚くべき出来事として受け取る論調が予想以上に多かったことです。たとえば「それ(Netflixとの契約)は長い間ハリウッドのスタジオシステム――家ではなくまず劇場で映画を上映することが前提としてあったシステム――の住人だったサンドラーにとって大きな変動だ」といった記述(#6)、それに類する意見がいくつかの記事で見られました。それも、今年5月に公開されたドリュー・バリモアとの三度の共演作“Blended”を含むアダム・サンドラーの近年の主演作の興行収入が低調にあることを踏まえた上で、です。現在Netflixの会員数は5000万人超(アメリカでは3500万人超)だといいますから、もっと当然の流れとして受け取る向きもあるかと思っていましたが、やはり彼はそれだけの影響力を持つ俳優であり、製作者であるということでしょうか。 Netflixのサランドス氏はサンドラーの作品をこう評価しています。「彼の映画は何度も繰り返し観られています。そしてアダムは最新作の“Blended”に至るまで立て続けに成功を収めてきました。あの映画は約4000万ドル(約42億円)のコストで全世界で1億4000万ドル(約148億円)の収益を上げています。そんな結果をのどから手が出るほど欲しがっている人がどれだけいるか。(中略)彼には私たちと一緒に成長していくようなところがあります。観客は彼が馬鹿な高校生から馬鹿な父親になっていくのを見て自分自身を見つめ直すのです」(#4) 果たしてサランドス氏の見込む通り、アダム・サンドラーはNetflixでも成功を収めることができるのか――。その答えは実際にNetflixで新作が配信されるまで待つことにして、最後にサンドラーの作品について書かれた興味深い批評を紹介したいと思います。それはコメディ作品の情報に特化した「SPLIT SIDER」というWEBサイトで1カ月前、つまりNetflixがサンドラーとの契約を発表する2週間前に公開された、「アダム・サンドラーの映画を監督するってどういうこと?」というタイトルの記事です(#7)。 ここではサンドラーが自身の会社ハッピーマディソンで製作してきた20本を超えるフィルモグラフィーについて、サンドラーが監督としてクレジットされた作品が1本もないにも関わらず、そのイメージや雰囲気に一貫性があり、「なんだかハッピーマディソンがサンドラーのキャリアを連続もののテレビ番組のように動かしていて、雇われた監督はその一貫性を維持するために招かれているように思えてならない」という視点から論じられています。その後の展開をざっと要約すると、サンドラーの作品には彼が演じる主人公を中心とした周りの登場人物の配置やその関係性にある定型があり、デニス・デューガンやフランク・コラチなど度々彼と組んでいる監督はその定型を踏まえ、作品を重ねるごとに彼の演じるキャラクターを育てているが、彼らのもとではサンドラーは俳優として何の挑戦もしていない。一方、ポール・トーマス・アンダーソンの『パンチドランク・ラブ』やジャド・アパトーの『素敵な人生の終わり方』ではサンドラーのキャラクターは事前に予見できず、彼の不安定かつ内省的な部分がむき出しにされている、といったことが書かれていきます。筆者のブラッド・ベッカー=パートンさんが結局、前者と後者どちらのアダム・サンドラーを観たいと思っているかは、今更記すまでもないでしょう。そして、Netflixがアダム・サンドラーと共に作る作品がどちらになる可能性が高いかも…… 黒岩幹子 ※某スポーツ新聞の会社に勤務しつつ、 boidマガジン(http://ift.tt/1yFL90E nobody(http://ift.tt/1yFL6BO #1 http://ift.tt/YY5A9b #2 http://ift.tt/Z0acft #3 http://ift.tt/1q4ZUk4 #4 http://ift.tt/ZAXeFZ #5 http://ift.tt/1vQL2ue #6 http://ift.tt/1rxs263 #7 http://ift.tt/1ueoC5m

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/1F0tPoz



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1F0tP8a

2014年10月15日水曜日

Melissa Anderson on Laura Poitras’s Citizenfour

[World News #110] ニューヨーク映画祭でエドワード・スノーデンを追った『Citizenfour』 が公開。  先日、今年度のノーベル平和賞にパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)が選出されたことが話題になりましたが、発表の数日前にGuardian誌の受賞者予想の記事(※1)ではエドワード・スノーデン氏が上位にランクインされていました。受賞には至らなかったものの、今年度のニューヨーク映画祭では彼の姿を記録したドキュメンタリー映画 『Citizenfour』が、10日金曜日に公開されました。本作はスノーデンがNSA(アメリカ国家安全保障局)の国民監視のシステムを暴露するまでの経緯と彼への香港でのインタビューを軸に展開しています。監督はローラ・ポイトラス(Laura Poitras)氏。これまでにも、バングラデシュの医師の活動を追った『My Country, My Country』(2006)がアカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートされていますが、おそらく日本での知名度は非常に低い作家です。  スノーデン氏については日本でもある程度はすでによく知られていることと思います。2004年、彼は23歳にしてイラク戦争への兵役を志願し合衆国軍に入隊するも、同年訓練中の怪我が原因で除隊し、その後NSAにスカウトされ、関連企業の職務に従事しています。2006年から数年はCIA(中央情報局)の職員としても勤務し、20代にして国家の機密に極めて近い位置で働いていました。彼のキャリアをこうして概観するだけでも、アメリカの軍事産業のシステムがいかに我々の想像を超えるものであるか、呆然としてしまうのですが、その後スノーデンがとった行動は彼の名前を一躍世界に知らしめることとなりました。「内部告発者」( “Whistle Blower”)としての彼の名を。  本作品の要となっているのは、2013年6月に香港のホテルで記録された、スノーデン氏がNSAの機密書類をカメラの前に提示する場面でしょう。これが、監督とスノーデン氏との初の接見でもありました。興味深いのは接見の前に、氏は監督に「私の話は物語にはならないと思う」と述べていることです。(※2)  ロサンジェルス・タイムズ誌はこの作品を、ウォーターゲート事件を扱った『大統領の陰謀』(アラン・パクラ、1976)やAaron Swartz 監督の『The Internet’s Own Boy』(2014)に連なる作品だと評価しています。(※2)また、Artforum誌は本作がスノーデン氏の「繊細さ(あるいは「弱さ」)」("Vulnerability")を記録し、彼の知られざる、より人間的な側面をカメラに収めていることを評価しています(※3)。実際本作には、現在のモスクワでの彼の生活や、ガールフレンドの姿も収められているようです。(※2)  ポイトラス監督は今後も別のかたちで、ジャーナリストとして、この歴史的な事件に向き合い続けていくつもりだと表明しています。(※2) ニューヨーク映画祭でのQ&Aはこのサイトで見ることができます。 http://ift.tt/1qU1INf 本作の予告編はこのサイトに掲載されています。 http://ift.tt/1suYDcf  日本公開が待たれる作品のひとつです。 ※ 1 Guardian http://ift.tt/1s95p7i ※ 2 Los Angels Times http://ift.tt/1qHKuTe ※ 3 Art Forum http://ift.tt/1xKhwbg

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1xKhwbg

via IFTTT

2014年10月11日土曜日

Les Inrocks - Xavier Dolan : "Je fais des films pour me venger"

[World News #108] グザヴィエ・ドラン、 新作"Mommy"の公開記念インタビューとティーチイン  20歳の頃に撮った処女作、『マイ・マザー』のカンヌ映画祭・第41回監督週間での鮮烈なデビューから既にはや5年。毎年に1本のペースで撮り続け、ついに今年のカンヌに選出された"Mommy"でゴダールの"Adieu au Langage"と共に審査員賞に輝いたドラン。近年の若手映画作家の中でも珍しいほど彼の作品は批評家、そして大衆からも大きな支持を得ており、「ケベックの神童」、「美しく、若き天才」というキャッチ・コピーと共に称される彼はなぜここまで多くの人々を熱狂させるのか。フランスでは今月の8日に"Mommy"が公開され、かなりの盛り上がりを見せており、今回の公開を記念して行われたインタビューとティーチインなどから、彼の映画に対するヴィジョンや姿勢を見ていこうと思う。 "Mommy"予告編 http://ift.tt/1yBkort - 君は自分の数々の成功を、批評家受けや大衆受けとに分類していたりするだろうか? グザヴィエ・ドラン(以下XD):全部同じくらいの重要性があるよ。だけど全く異なるものだね:批評には役目があって、大衆には欲求がある。楽しんで、感動するっていう。二つのコミュニティは全く別物なんだ。映画が双方に気に入られてほしいとは思うものだけど、それはごく稀にしか訪れない。もしかすると以前、僕は映画を生業とする人たちの後押しが自分には必要だと思って、批評的な支えを少し望んでいた節があったかもしれない。だけどその考えは自由に仕事をする妨げになるから止めたよ。今では、大衆に対してもっと気を使うようになった。自分の映画が上手くいってほしいんだ。僕は単に映画を自分の母親や父親、そしてごく少数の人たちだけに向けて作る気はないよ。分かってくれるかい?僕はただ、依然マイノリティーな、シネフィルのコミュニティだけに向けて作りたくはないんだ。*(1) - その欲求は君を大衆映画へと導いていくと思うかい? XD:そうだね。僕は大衆性が欲しいし、"Mommy"は明らかにそういう方向性だと思う。この映画は慣用的な物語の図式を守っているし、とてもアメリカ的だ。それにこの映画はアメリカン・ドリームについての作品だと言えるだろうしね。僕は大衆性に大きなはずみをつけたかった。そのうえ商業的にも。感動させ、希望を与え、大衆を活気づかせ、気に入られるために考案されたシーンによってね。扇動的な映画だって言ってるわけじゃないけど、ある意味ではそういう風にも考えられていたんだ。シネフィル的な方法からではなくて、大衆的な方法、つまりポップな方法で。もちろん自分の中に残っているシネフィル的なものはあって、そういった無意識な癖や、ある種の反応を防ぐことができずに、映画を少し知性的なものにしてしまっているかもしれない。だけど、この映画は僕の作品の中でも、最も自然で、シンプルかつ効率的だと思うんだ。*(1) また、ティーチインでは以下のようなことを語っている。 「自分の映画に対する批評はすべて読んでいるよ。人々が見ているものを見ることは知らなければならない。映画は単に自分や、母親と父親のために作るものじゃないのだから。映画は人々に見てもらうために作るんだ。もし、自分たちには白く見えているときにみんなには黒く見えていて、自分たちには少なく見えているときに、みんなには多すぎるように見えているのは、非常に興味深いものなんだ。」*(2)  こうしたドランのインタビューやティーチインにおける彼の発言には、些か誤解を招くような表現も見当たるが、それはあくまで質問に対して誠実に答えようとしているからであり、また彼の着飾らない言い回しによるものだと思われる。たまにインタビューなどで、まるで受け手を意識しているかのような、あらかじめ用意された発言といったものを感じさせることもあるが、ドランのインタビューは非常に即興的な印象を受ける。また、そうした即興的な発言のせいで、批判や誹謗中傷の攻撃対象となる場合も多いようだ。しかし、これらの発言のなかで伺うことができる彼の発想や考えは、常に自分の感覚や感情の上に基いている。そんな彼にとって映画とは具体的にどういったものなのか。 「ピナ・バウシュは「踊れ、踊れ、自分を見失わないように」と言った。僕にとっては「音楽を聞け、音楽を聞け、自分を見失わないように」なんだ。それは表現する術じゃなくて、生きるための術だ。僕の人生は音楽的で、映画もそうあるべきだ。映画とは、僕にとって楽譜のようなもので、会話やシーン、そして感情的な身震いは音符なんだ。」*(2)  彼の作品では多種多様な音楽によって、彩られており、音楽の使い方も彼の作品における大きな魅力の1つとなっている。そしてドランは音楽に限らず、映画の中にファッションや写真、そして音楽といった異なる様々な要素を混ぜ合わせて、独自の世界観を構築している。彼は良い意味でも、悪い意味でも、映画の考え方だけに囚われない姿勢を持って、独自の表現方法を見つけようとしているようだ。既存の考えに囚われず、自分の感覚や感情で映画の壁を、枠をやぶろうとする意気込みを感じさせる、グザヴィエ・ドラン。来年に向けて映画だけでなく、ドラマの企画もあるという彼は*(3)、一体今後どこへ向かっていくのだろうか。 「映画は、僕が愛するものであり、僕に活力を与え、夢中にさせる。自分が映画を作っていく工程の中で、1つでも手を抜くようなことは想像できない。だから学ぶ必要がある。良い疑問を持つこと。人々がどのように映画を見て、批判し、そして感じ取るのか。でも、それらの思惑は超える必要がある。」 楠 大史 参考資料: http://ift.tt/1tgNUy0 *(1) http://ift.tt/1EGZKKA *(2) http://ift.tt/1wgAEw8 *(3) http://ift.tt/1q91CRB

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1tgNUy0

via IFTTT

2014年10月9日木曜日

Interview: David Fincher | FilmComment

[World News #108]デヴィッド・ フィンチャー監督インタビュー デヴィット・フィンチャー監督の最新作『ゴーン・ガール』、日本での公開が12月12日(金)に迫りました。以前、同監督のインタビューは取り上げられました(注)が、今回はfilmcomment誌に掲載された彼へのインタビューを紹介します。彼が、ど のように自身の映画製作を捉えているのか、以下内容に入ります。 原作の『ゴーン・ガール』(ギリア ン・フリン)を映画化したのか、という質問に対して「本というのは、多くの内容を持ちます。その中から映画化したい部分を選ばなければなりません」また「 原作と適切な関係を築くことのできた作品は多くありません。交響曲からポップスを作りさせる人は限られています。私はいつも書き手を喜ばせたいと考えています。それは原作者ばかりでなく、脚色した人も合わせてです。 (…)映画の語りは、それだけ早く進みま す。ですから、その分それを視覚化する必要があります、そのことは大体語りが少々大胆になることを意味するのですが」というように彼は本から脚本という映像化に正当なプロセスを踏んでいることが確認できます。 「原作をそのまま映画化することは出来ませんから、脚本家とともに内容を削り詰めていきます。そして、いったん豊かな意味合いを持つ結論に達すると、全ての役に人を割り振っていきます。そして、スカイプで全員に繋ぎ脚本を読み通します。これはとても面白くて、全て小さな画面での出来事でしかないのに、俳優がどういう人であるか、お互いをどう意識しているか、またどういった経歴を持つ人であるかが分かるのです。そして私は全てを記録 します。それは、まるで小さなハリ ウッドであるかのようです。」これまでにそうしたことはしましたか、という質問に対して「はじめての経験です。ですが、得るものはたくさんありました。シナリオの改訂も進みました。そして、3~4週間のリハーサルを経て10ページから15ページを削ることが出来ました。こうしたプロセスが終わりに近づくにつれて、私たちは第三幕に集中しました。そして全体のテーマが本来あるべきものに近づいていったのです。そしてミズーリに向かい6週間ほど撮影を行い、ロサンゼルスに戻り残り10週間撮影をしました」 映画のトーンが暗いという話が上がっていますが、それに対してどう思うか、という質問に対して「 クルーの中には私たちが『危険な情事』を作ってると思ってる人もいました。」それは違う、という記者に対して「しかし、テレビスポットが同じような仕事をしているのです。トレーラーは見ましたか?何も見せずに、観客を寄せ集める映画の正しい側 面を売り出しているように見えませんでしたか。6カ月もかかった取引で私 は、エイミー(ロザムンド・パイク)の過去に当たる4巻目の部分は宣伝で使えないようにしました。何故なら、もしそうしてしまったら映画が壊れてしまうからです。映画はなにかを発見しに行くものです。というのは、役者が見たことも無いような姿を見に行くのであるし、想像も出来ないような状 況にいる彼らを見に行くのです。何故 なら、自分がそのような状況にいることを想像できないからです。私たちはそうした発見への感覚が、映画を見るときには必要なのです」 デヴィット・フィンチャー監督は、映画の暗い雰囲気などが問題ではなく、明確なヴィジョンを持って仕事をして いることが分かります。ただし、そのヴィジョンとは入念な話し合いを経 て、洗練化されたものです。そのために、スカイプで会議をするというのは、興味深いところでもあります。 インタビュー元記事 http://ift.tt/1DJXq54 注 http://ift.tt/1CXm3Kh 『ゴーン・ガール』日本公式サイト http://ift.tt/1mf0xwt 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1DJXq54

via IFTTT

2014年10月8日水曜日



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1vQb8zC



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1vQb8j6



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1CUJaFj



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1vQbarj



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1vQbaaQ

[World News #107] 第27回東京国際映画祭と中東映画 今年も10月23日(木)から10月31日(金)の9日間、東京国際映画祭が開催されます。開催に先駆けて今回は、見逃してしまった!!という事態を防ぐために一先ず中東地域の注目映画をざっくりとお知らせします!気になった作品がありましたら是非足をお運びくださいませ。 ★『セルフ・メイド』イスラエル 10/29 20:25- 10/30 16:00- http://ift.tt/1vUp9u1 http://ift.tt/10Pk5xD イスラエル人女性とパレスチナ人女性が暮らす場所がひょんな行き違いで入れ替わってしまうストーリー。本作監督のShira Geffenは『ジェリーフィッシュ』で2007年にカンヌ映画祭新人監督賞を受賞しています。 今年のイスラエル映画祭ではオープニングで上映された『セルフ・メイド』。監督にとって映画製作の重要な要素となっているのが、おとぎ話。前作『ジェリーフィッシュ』に続き、本作も現実と監督の妄想の世界を行き来するファンタジー溢れる作品です。しかし、このファンタジーが仇となりなかなか理解を得る事ができず、制作資金調達に苦労したと監督はインタビューで語っています。 また監督は、第三の鍵となるキャラクターはイスラエルとパレスチナの国境でミスを犯してしまうイスラエル少年兵士であると語りました。監督は一ヶ月間、イスラエルの女性平和運動団体と共に、イスラエルとパレスチナを隔てる壁をを管理するイスラエル軍の“チェックポイント”の問題、そしてイスラエルの徴兵制度問題に関する抗議活動に参加し、この経験が本作品の少年兵士を作り上げるにあたって大きな影響を与えたと語りました。 以前からInside Indie Tokyoでイスラエルとパレスチナを巡る映画を度々ご紹介してきました。それら多くの映画で鍵となるのが、“壁”ではないでしょうか?“壁”がなければ、本当は分かり合える両者、しかし物理的な壁が長い歴史を経て心理的な壁になってしまい人々を盲目にしてしまっているように感じます。 http://ift.tt/10Pk5xD ★『遺灰の顔』クルディスタン=イラク 10/25 18:25- 10/28 20:40- http://ift.tt/1vUp9u4 http://ift.tt/10Pk5xF イラン・イラク戦争中(1980〜1988)、戦死した息子だと思って開いた棺の中が違う人だった。一体この人は誰?そして自分の息子は? イランとイラクの国境の悲劇が国境から離れた小さな村で引き起こした大きな悲劇。Shakhawan監督の初長編作品となる『遺灰の顔』は戦争の日常と非日常、庶民と国家をコミカルにテンポ良く描かれています。 本作は、クルド人監督によるイラン・イラク戦争中のクルド系の小さな村の物語です。この時期のこの地域と言うと、思い出す事件があります。それは“ハラブジャ事件”です。イラン側にクルド人が協力したと疑ったサッダム・フセイン政権が化学兵器を使用してクルド系地域であるハラブジャに住む一般市民を殺害したのです。現在でも独立を求めている彼ら。こういった背景を知ると、『遺灰の顔』のユーモアの裏に隠されたクルド人の想いを感じる事ができるのではないでしょうか。 http://ift.tt/10Pk5xF ★『ゼロ地帯の子どもたち』イラン 10/29 10:30- 10/30 20:20- http://ift.tt/1vUp9Kr 国と国の間、つまり国境は、両国にとってゼロの地点なのでしょう。そして、そこに安らぎを求めて暮らす孤独な少年の物語。アミールフセイン・アシュガリ監督の初長編作品です。 孤独な少年映画といったら、アミール・ナデリ監督の『駆ける少年』(http://ift.tt/10Pk394 )を思い出します。 [World News #066] http://ift.tt/1vUp9KB ★『メルボルン』イラン 10/25 10:50- 10/30 18:10- 10/31 18:30- http://ift.tt/10Pk5xO こちらは、アスガー・ファルハディ監督の作品『別離』と『ある過去の記憶』で注目を集めたペイマン・モアディが主演です。『別離』ではイランから外国に移住することを拒む夫、『ある過去の記憶』ではフランスで暮らしていたがイランに戻った男、そして本作では、家族と“メルボルン”に移住するために荷造りをしている夫。 1979年に勃発した革命後、イランから外国に移住する人は少なくありません。革命直後に移住をした人々は革命前の暮らしを守る為に外国での生活を選ぶ人が多かったのでしょう、しかし、近年、革命後のイランしかしらない若い世代の移住が増加しています。それは、2009年の緑の革命(Green Movement)以降、加速しているように思えます。若者によるイランイスラム政権離れです。本作を通してイランの政府と市民の間に大きく横たわるギャップを目撃出来るのではないでしょうか。 ★『ナバット』アゼルバイジャン 10/24 11:15- 10/28 21:15- 10/30 14:00- http://ift.tt/1vUp9KE “最初に脚本を読んだとき、とても気に入りました。だってこの映画は戦争についての映画ではなくて、平和についての映画だからです”と語ったのは主演のイランを代表する女優ファテメ・モタメダリア。小さな村で夫と牛乳を売って暮らす女性Nabatは、やがて夫が亡くなり一人静かに戦場の息子を思いながら暮らす。戦争がもたらす小さな村での大きな悲劇を詩的に描いています。 Elchin Musaoglu監督自身、ソビエト連邦軍として2年間戦争を体験しています。監督は映画を通して母の愛と強さを描いたと語っています。 Sources: 『セルフ・メイド』: http://ift.tt/1vUp9u1 http://ift.tt/1vUp8Gt 『遺灰の顔』: http://ift.tt/1vUp9u4 『ゼロ地帯の子どもたち』: http://ift.tt/1vUp9Kr 『メルボルン』 http://ift.tt/10Pk5xO 『ナバット』: http://ift.tt/1vUp9KE by Sevin 中東現代アートの研究・ペルシャ文学の翻訳をしています。http://ift.tt/1mNyGBb 中東現代アートのキュレーションページ: http://ift.tt/1vUpa11

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT

2014年10月2日木曜日



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1x21XuZ

[World News #105] エマ・ワトソンの国連演説と匿名掲示板 インターネットに代表される現在の情報社会は、宣伝や戦略や偽造や悪意に溢れ、何が真実で何が正義であるか判断するのが極めて困難です。どんなに豊かな個人的経験に裏打ちされた心からの叫びであったにせよ、それがネットに情報として掲載された瞬間、全く逆の立場から反論されたり、揚げ足を取られたり、あるいはその「真実の言葉」がいかに虚偽のものであるか激しく糾弾されたりと、こうした終わりのないオセロゲームに巻き込まれてしまうのを避けることができません。 先日から話題となっていたエマ・ワトソンの国連演説に関連した話題もまた、残念ながら一部でこうした問題を典型的に示すものとなりました。 ワトソンは、国連の女性機関UN Women親善大使として、9月21日、男女平等と性差別の撤廃をアピールする演説をニューヨークの国連本部で行いました。これは、女性が女性のために闘うことを訴えるものではなく、男性もまた性差別に基づく固定観念に縛られており、男女ともに手を携えて人間性の解放を実現していかなくてはならないと主張するものであり、「VanityFair」誌で「ゲーム・チェンジャー」とも称されたように多くの賞賛を集めるものとなりました(#1)。 さらにワトソンは同機関と手を組み、「He for She」と名付けられた活動も立ち上げています(#2)。FacebookやTwitterなどを通じた連帯と共闘の署名運動(ハッシュタグは#HeForShe)も行われており、それによると、「ジェンダーの平等は女性だけの問題ではない。それは人権問題であり、私自身のコミットメントが必要となるものだ。私は、女性や少女に対して行われるあらゆる暴力と差別に反対して立ち上がる」という宣言への同意が男女に対して等しく求められています。これに対し、マット・デイモンやキーファー・サザーランド、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、アントニオ・バンデラス、サイモン・ペッグら数多くの著名人が賛同を示したことも話題となりました(#3)。 しかし、一方でワトソンに対する反感や憎悪の言葉もまたインターネットを中心に氾濫する事態となっています。とりわけ、「若い白人男性」がユーザー中心層と言われ、日常的に「ポルノとレイシズム、セクシズムに満ちあふれている」(#4)といわれるアメリカの「4chan」(さらにその中の「/b/」と呼ばれるランダム掲示板)がこうした騒動の発火点ともなっているのです。英米圏では珍しい匿名掲示板である「4chan」は、その名前から連想されるように、日本の匿名掲示板「2ちゃんねる」(より厳密には「ふたば☆ちゃんねる」)から影響を受けて2003年に創設されたものであり、ネットに於ける言論の自由の功罪両面を典型的に示した場所として有名になりました。 「4chan」から立ち上がった匿名集団「アノニマス」の「ハックティビズム」運動は、WikiLeaksやアラブの春とも連携し、巨大な権力に個人が抵抗する一つの可能性を示したと言えるでしょう。しかし一方で、「若い白人男性」というマジョリティに属する人々のあられもない本音や差別意識、人種偏見が日常的に噴出する場所としても知られ、国家や企業による中央集権的権力の抑圧とは異なる、新たな時代の新たなファシズムの温床であるという指摘も数多く為されています。 さらに、今回のワトソン演説に関連した騒動では、演説への報復として彼女のヌード写真を流出させるというサイトが立ち上げられ、大きな騒動となりました。しかし、これは後にジェニファー・ローレンスらセレブたちのヌード写真流出騒動(#5)を引き起こした「4chan」閉鎖を求める企業(政府や映画会社からの委託を受けたと称している)による巧妙なPR活動であったことが明らかとなっています(#6)。 匿名掲示板を中心とした差別と偏見に基づく暴力に抗議しようと拳を振りかざしたジャーナリストたちは、思わぬ形でばつの悪い思いをさせられたと言えるでしょう。このPR会社の本来の意図がいかなるものであったとは言え、それはむしろ逆効果にしかならなかった。つまり、高度に情報化が進み、あらゆる発言や議論がもはやネタとしてしか受け止めることが難しい社会の中で、「正義の側について悪と闘うこと」がいかに困難であるか、この一連の騒動は図らずも明らかにしてしまったと言えるのです。 「正義」を意気阻喪させるこうした混沌と曖昧さに基づくシニシズムは、しかし、マジョリティによる「本音主義」や「反知性主義」への開き直りを肯定することにしかつながりません。男女の格差が依然として大きい社会の中で、セクシャル・マイノリティへの差別や人種偏見が相変わらず横行する現状を批判するのは、そんなに難しいことであってはいけない筈なのです。間違っていることに対しては、間違っていると主張されるべきであり、気軽に行動へと結びつけられるべきだと思います。エマ・ワトソンの演説からはじまり、多くの映画俳優や著名人へと拡がって行った#HeForShe運動が、そうしたきっかけの一つとなることを願います。 一方、現在ネットでは、エマ・ワトソンの国連演説に感動して書かれたという15歳の少年の手紙もまた話題となっています。その中で、彼は次のように書いています。 「ジェンダーの平等やフェミニズムとは、男性への憎悪や女性の優越を示すものではありません。それは、その定義からして全く正反対のものなのです。フェミニズムとは、性別に関わらず人間の社会的、政治的、経済的な平等を信じることであり、それは本当にとてもシンプルな話なのです。もしあなたがこれを信じるのであれば、あなたは既にフェミニストなのです。」(#7) 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://ift.tt/1uW05DO #2 http://ift.tt/1ik4BsE #3 http://ift.tt/YdkLeT #4 http://ift.tt/1vd5khm #5 http://ift.tt/1lvHf5h #6 http://ift.tt/YzqyLo #7 http://ift.tt/1nszzCc

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/1nQtyzk



via inside IndieTokyo http://ift.tt/1x21YPE

[World News #104] カムデン国際映画祭が9月末に開催  今回はカムデン国際映画祭についての記事を紹介します。カムデン国際映画祭は2005年にニューイングランド地域のドキュメンタリー映画の文化に光を当てることを目的として創始された映画祭です。第1回には世界中から22組の作家が作品を出品しましたが、参加者の中にはローリング・ストーンズのドキュメンタリー(”GImme Shelter,” 1970)で知られるメイスルズ兄弟も含まれていました。  現在までに上映された作品は数百にのぼり、また近年ではQ&Aセッションや作品出品者とのコミュニケーションの機会の拡充、さらにライブパフォーマンスの開催などを通して、来訪者の体験の充実に重きを置くことも主眼とされています 。 HBO、BBC、American Public Televisionなど、産業を担う団体の代表者たちから作家たちが作品へのフィードバックを受けることができる機会として、ワークショップなどの形式でディスカッションの場を設ける試みも行なわれています。また、講義形式でのドキュメンタリーの座学、実践的な撮影の授業もこれらと平行して行なわれています。  映画祭のHP#1によれば、こうした映画祭に作家と観客が「集まる」ことによってドキュメンタリーに限らない文化の発展に貢献していきたいということです。山形ドキュメンタリー映画祭やチェコのイフラヴァドキュメンタリー映画祭に規模としては適わないものの、今後の展開がおおいに期待される映画祭のひとつではないでしょうか。  2014年度は9月25日から28日にかけて開催され、大賞にはロンドンを拠点とするOrlando Von Einsiedel監督の東コンゴの国立公園を撮影した作品 ”Virunga”(『ヴィルランガ』)#2 が選出されました。審査員特別賞を授与したのは、J. P. Sniadecki監督の”The Irony Mistery” という作品で、ニューヨーク映画祭のプレミアにも出品されています。他の受賞作は次のサイトで見ることができます。→http://ift.tt/1xBZieL...  また、カムデン映画祭で開催されているドキュメンタリーの講座で講師をつとめるMarshall Curry氏が自身のドキュメンタリー撮影の哲学を解説した記事はこちら。→http://ift.tt/1v5GYG3...  映画産業においてインターネット、データベース重視の傾向が進む一方で、作品を上映するに留まらない映画祭の意義について考えることがますます求められているように感じます。もちろん、それらと作品の質や意義が平行して語られていくのが理想です。これから大規模、小規模を問わず海外の映画祭を訪れた方々の日本語でのレポートなどが今よりさらに公開されて、広く共有されていくことを望んでいます。 文責:井上遊介(映画批評MIRAGE編集員) #1 http://ift.tt/1xBZgDI #2 http://ift.tt/1v5GZd2

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1myAn4W

via IFTTT

2014年10月1日水曜日

Quentin Tarantino is Shooting The Hateful Eight in Colorado This December - IGN

[World News #103] タランティーノ、新作映画撮影再開 「この数年間、大作映画はいくつかあったが、これは『勇気ある追跡』以来の大作だ、なぜならコロラドで、」フィルム・コミッショナーのドナルド・ザッカーマンは続けます。「西部劇で、タランティーノだからだ」(#1) クエンティン・タランティーノの新作西部劇『The Hateful eight』が12月から撮影を再開します。本作品は、今年の1月、脚本流出問題から撮影を中止していましたが、ユタ州やワイオミング州の誘致を抑えてコロラド州が500万ドルの融資を決定したことなどから、撮影再開が実現しました。 ネットメディア「ゴーカー」を通じて、ネット上に脚本が流出してからは企画の進行は断続的でしたが、4月に行われた公開本読みの評判が良かったことなどから、この度公式に撮影再開がアナウンスされました。 この話は、南北戦争後のワイオミング州を舞台としており、吹雪で立ち往生した駅馬車に乗り合わせた賞金稼ぎと、南部同盟のごろつきの間で次第に緊張が高まっていくという、どことなく彼の処女作『レザボア・ドッグス』を思わせるプロットとなっています。出演俳優として『デス・プルーフinグラインドハウス』で怪演したカート・ラッセル、『パルプ・フィクション』『ジャンゴ 繋がれざる者』などタランティーノ映画にはお馴染みサミュエル・L・ジャクソンなどが候補に挙げられていると噂されており、2015年秋の公開を予定しているそうです。 映画のデジタル化を「映画の死」と一蹴し、フィルムをこよなく愛するタランティーノ監督は、本作品を65mmフィルムで撮影します。ワインステイン社はすでに「20年間で最も大規模な70mm映画になる」と発表しており(#2)、(近年だと70mmフィルムで公開された映画はポール・トーマス・アンダーソン監督の『ザ・マスター』などごく一部に限られる)脚本以外のテクニカルな面にも期待が高まります。 文責:近藤多聞 #1 http://ift.tt/1Bt1eUr #2 http://ift.tt/1CqLjJt http://ift.tt/1xur2Sp

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1Bt1eUr

via IFTTT

2014年9月26日金曜日

Werner Herzog's Rogue Film School

[World News #102] ヴェルナー・ヘルツォーク映画術 IndieWireによるThe Rogue Film School授業レポート 「The Rogue Film Schoolは意気地がない者の来るところではない。自分の足で旅をした者、セックスクラブの用心棒や精神病院の監視員として働いていた者などが、いかなる企画に関わらず、あらゆる国で撮影許可を得るための錠破りや、偽造する方法を学ぼうとする者たちに向けられた場所である。端的に言えば:詩的なセンスを持っている者たち、旅人たち、4才の子供の注意を惹きつけながら自分の物語を語れる者たち、自分の心の中に燃える炎を宿す者たち、そして夢を抱く者たちだ。」(*1) ― ヴェルナー・ヘルツォーク ―   ヘルツォーク自らが設立した映画学校The Rogue Film School(ならず者の映画学校)は2010年から引き続き、今年で4年目を向かえる。授業は3日~4日間のセミナー形式で、開催場所と時期さえもその都度変わるという、まるでノマドのような授業スタイルを有しているユニークな映画学校である。  The Rogue Film Schoolの授業に参加するためには、まず自分の作品や経歴などを送り、ヘルツォークの審査を通った者たちのみ、参加できる仕組みとなっている。また、授業は技術的なことは一切教えず、主にヘルツォークや他の参加者との対話が中心になる。今年は8月の22日から25日にかけてロサンゼルスで行われ、5回目の授業に参加したMarie-Françoise Theodore氏が授業の詳細をIndieWireに寄せており、ヘルツォークによって教えられたことを12個の項目にリスト化している。これらの項目はあくまで個人の見解によるものだが、The Rogue Film Schoolで行われる授業の一端が垣間見られるものとなっている (*2): 1・読んで、読んで、読みまくる ヘルツォークはセミナーが始まる数週間前に長い読書リストを参加者に送りつけ、すべてに目を通すように言い付けたという。その中には詩や、ヘミングウェイからノンフィクションに至るまで、様々なジャンルに及んでいる。しかし、映画の演出論や脚本術などの本は含まれておらず、いかにストーリーを物語るのかを掴むために、多くの読書をする必要性があると指摘している。 2・早く書き上げる 「私はシナリオを書き上げるのに5日かかる」 「もし君が2週間以上もそれに費やしているのだとしたら、何かが間違っているということだ」 ヘルツォークは物語のアイディアがやってくるまで、座ってじっと待っているのではなく、頭の中にある考えを口述していき、物語を作っていく。しかし、彼に適した方法が必ずしも他者に当てはまるとは限らないと本人が悟った為、自分で方法を見出すしかないとのこと。ちなみに彼の秘訣はシナリオを執筆する4~5日前に、ウォーミングアップとして詩だけを読み漁ることらしい。 3・支払われること 「映画監督は自分の仕事を支払われる必要がある。自分のポケットマネーを絶対に使ってはならない」 例えば、予想外に膨らんだポスト・プロダクションの費用を監督が支払う必要が出てくるようなケースなどは、決してあってはならない。 4・失敗を恐れない 「私は自らの失敗による産出物である」 「映画のセットはノー・クライ・ゾーン(泣きごとを言わない区域)だ」 どんな問題や不都合に見舞われようとも、決して映画のセットで泣きごとを言わないよう、心得ておくこと。 5・深く追求する 「最も深い領域まで、なるべく早く達すること。それらを最も高い領域にまで持っていき、落とさないようにすること」 映画を見ている者の心に深く潜り込んで、留まるようなものを追求する。 6・自分のビジョンを守る 「自分のビジョンはしっかりと確定させておくべきだが、セットにおいて暴君と化さないこと」 クリアなビジョンを持っているのであれば、誰かにそのアイディアを批判されても、論理的な反論と説得ができるような柔軟性を持つこと。 7・ビジネスを学ぶ ヘルツォークは基本的な法律の概念を学ぶことで、映画の費用や資金調達などについて知ることを勧めている。また、「決して弁護士に自らのことを交渉させないこと」と述べている。 8・お金の動きを追う 「資金の動きを見る」 「キャメル(CAMEL)の値段を知っておくこと」 ヘルツォークは毎晩、撮影が終わると資金を数えるらしく、資金の流れを理解することで、撮影状況を正確に把握できるようだ。 9・「もし君が2日経っても仕事が得られない場合、2年経っても仕事は得られないだろう」 10・自分だけの真理を作りだす 「事実は真理を構築しない」 「真理を照らしだすような現実を構築すること」 単に事実を述べるのではなく、心の内にある感情的な世界を語るようにする。 11・足を使って旅する 「観光旅行は罪だ。足を使って旅をするのは美徳である」 ヘルツォークはその土地に住んでいる人たちと同じ立場にまで接近して、人生をより近くで見なければならないと強く主張している。 12・Do it 「映画監督の使命はオーディエンスに畏敬の念と不思議な感動を人々に植え付けること」 自分の持っているすべてのものを注ぎ込んで、どんなことがあろうとも次のステップへ進み、自分の映画をつくること。  今から29年前、ヴィム・ヴェンダースの『東京画』に映る、若きヘルツォークはこのようなことを述べていた: 「我々の文明の状況と我々の内面の最深部、その両方に照応する映像が必要だ。つまり、それが必要ならば、たとえ戦場にでも行くことだ。8000メートルの山に登る必要があったら、どんなに難しくても登るべきだ。純粋で、澄んだ、透明な映像を得るためには・・・探さなくては・・・私は火星にだってロケットが飛ぶなら土星にも行く。NASAのスペースシャトルに生物学者や技術者を乗せ、宇宙空間で実験を行うというプロジェクトがある。私もカメラを持って同行したい。もうこの地上には昔のように映像に透明性を与えるものは見いだしえない。かつて存在したものはもうない。私はどこへでも行く」(*4)  それから25年後、『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』などを撮り、相変わらず人々を魅了するようなイメージを追い求めているヘルツォークでありながらも、The Rogue Film Schoolで行われている授業ではストーリー・テリングの重要性やメトディックなことを教えているようだ。しかし、授業で教わるヘルツォーク映画術はまさに彼の生き方そのものである。ヘルツォークはいかなる状況や立場に置かれても、自分のヴィジョンをイメージとして作り出すことのできる人物を求めている。  そんなドイツの鬼才ヴェルナー・ヘルツォークも71才となり、今年中にはニコール・キッドマン主演、ジェームズ・フランコやロバート・パティンソンも出演する"Queen of the Desert"が公開予定となっている。今回のイメージの舞台は砂漠となるようだ。(*3) 楠 大史 http://ift.tt/1hKseKY (*1) http://ift.tt/1mW6oap (*2) http://ift.tt/U52NZt (*3) 『東京画』(1985) ヴィム・ヴェンダース (*4) http://ift.tt/1xp46Uy 参考資料 http://ift.tt/1t1BidW

from inside IndieTokyo http://ift.tt/1hKseKY

via IFTTT


via inside IndieTokyo http://ift.tt/YfDQMY