2014年11月30日日曜日



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[World News #134] 作曲家と映画の関係『The Imitation Game』  アカデミー賞のノミネート予想が盛り上がる季節がやってきた。多くの人がそれぞれ部門ごとに様々な作品について言及しているが、今日は特に作曲賞の話がしたい。あなたはアレクサンドル・デスプラ(Alexandre Desplat)という名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないという人は、簡単に調べてみてほしい。彼の名前は知らずとも、彼の手掛けた映画音楽は、必ずと言ってもいいが、聞いたことがあるはずである。それほど、彼は今までに様々なジャンルにわたって数多くの作品に作曲してきた。  ただ、彼は数々の映画祭で数々の作曲賞を受賞しているものの、アカデミー賞においては、6つの作品で作曲賞にノミネートされてきたが受賞には及んでいない。しかし今年は、かれの念願のアカデミー賞チャンスの年だ。今年はノミネート有力とされている『Monuments Men』、『グランド・ブダペスト・ホテル』、『GODZZILA』、『The Imitation Game』、『Unbroken』の5本の作品に楽曲を提供している。その中でも、『The Imitation Game』の評価はかなり高い。  『The Imitation Game』は、モーテン・ティルダム監督の最新作。暗号解読者アラン・チューリングの数奇な人生に基づいた作品で、第二次世界大戦において世界最強と言われたドイツの暗号エニグマを解読しようと奮闘するチューリングの孤独と苦悩を描いた伝記的映画である。  『The Imitation Game』の音楽が素晴らしいのはそのメロディで、その旋律はキーボード、クラリネット、チェレスタ・ハープの、早いアルペジオに突き動かされるようだ。デスプラは、オーケストラの演奏からサンプリングしたピアノの音をつかってコンピューターによって作曲した。初音ミクでおなじみのボーカロイドと同じ方法だ。そのピアノの音は、正確なときもあるし、でたらめな時もある。チューリング言う非同時性を表しているのである。たとえば、オープニングで使われている音楽は、さざ波のようなキーボードの主旋律。この旋律はその後にかかる曲でも、違うテイストで引用されるのだが、これがなんともほろ苦い雰囲気を演出している。  デスプラは、『ファウンテン 永遠に続く愛』や『ブラック・スワン』の劇中音楽を手掛けたクリント・マンセルに代わって『The Imitation Game』の音楽を作曲することになった。3週間だけで作曲したデスプラは、チューリングのエニグマ理論を実践したと言えるだろう。彼は監督のモーテン・ティルダムとは会ったことがなく、代表作『ヘッド・ハンター』も見たことがなかった。しかしすぐにティルダムの人間性や彼のユーモラスな映画を、そしてカンバーバッチの演技と、物語にフラッシュバックを挟む演出法を気に入って、すぐに引き受けることを決めたのだった。  「すぐに、ピアノでファンクとアコースティックを混ぜたような音楽がいいんじゃないかと提案したんだ。電子ピアノと、ベースと、いろんなものを、コンピューターで編集したものをね。人がピアノを演奏すると、ロマンチックとかクラシカルになりすぎることがあるんだけど、抽出したピアノの音をつかってコンピューターで作曲した『The Imitation Game』のピアノの主旋律は美しくて独特。だけどシンプルさと従順さが同時にある。まさにこの映画みたいな音楽だよ。それからアランとクリストファーのシーンではできるだけ情熱的に、悲劇的な雰囲気がでるようにした。アランがクリストファーの死を理解するこのシーンがとっても感動的で、僕の好きなシーンの内の一つなんだ。このアランのシーンにはあえて、クリストファーのテーマを使ったよ。まるで長い旅をしてきたような感じがする。この映画の冒頭からの長い旅を経て、ようやくここにたどり着いた。」  もちろん脚本や演出、カンバーバッチや彼の脇を固める俳優たちの演技など注目すべき点はさまざまだが、映画の重要な要素として特にこの作品では、音楽が関わっていることは注目すべきである。ほかの部門と合わせて、『The Imitation Game』はアカデミー賞争いにどう食い込んでいくだろうか。日本での公開は2015年3月を予定している。 則定彩香 横浜国立大 参考 http://blogs.indiewire.com/thompsononhollywood/how-composer-alexandre-desplat-captures-different-wwii-vibes-for-imitation-game-and-unbroken-20141126 公式HP http://theimitationgamemovie.com/ IMDb『The Imitation Game』 http://www.imdb.com/title/tt2084970/

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[World News #134] 作曲家と映画の関係『The Imitation Game』  アカデミー賞のノミネート予想が盛り上がる季節がやってきた。多くの人がそれぞれ部門ごとに様々な作品について言及しているが、今日は特に作曲賞の話がしたい。あなたはアレクサンドル・デスプラ(Alexandre Desplat)という名前を聞いたことがあるだろうか。聞いたことがないという人は、簡単に調べてみてほしい。彼の名前は知らずとも、彼の手掛けた映画音楽は、必ずと言ってもいいが、聞いたことがあるはずである。それほど、彼は今までに様々なジャンルにわたって数多くの作品に作曲してきた。  ただ、彼は数々の映画祭で数々の作曲賞を受賞しているものの、アカデミー賞においては、6つの作品で作曲賞にノミネートされてきたが受賞には及んでいない。しかし今年は、かれの念願のアカデミー賞チャンスの年だ。今年はノミネート有力とされている『Monuments Men』、『グランド・ブダペスト・ホテル』、『GODZZILA』、『The Imitation Game』、『Unbroken』の5本の作品に楽曲を提供している。その中でも、『The Imitation Game』の評価はかなり高い。  『The Imitation Game』は、モーテン・ティルダム監督の最新作。暗号解読者アラン・チューリングの数奇な人生に基づいた作品で、第二次世界大戦において世界最強と言われたドイツの暗号エニグマを解読しようと奮闘するチューリングの孤独と苦悩を描いた伝記的映画である。  『The Imitation Game』の音楽が素晴らしいのはそのメロディで、その旋律はキーボード、クラリネット、チェレスタ・ハープの、早いアルペジオに突き動かされるようだ。デスプラは、オーケストラの演奏からサンプリングしたピアノの音をつかってコンピューターによって作曲した。初音ミクでおなじみのボーカロイドと同じ方法だ。そのピアノの音は、正確なときもあるし、でたらめな時もある。チューリング言う非同時性を表しているのである。たとえば、オープニングで使われている音楽は、さざ波のようなキーボードの主旋律。この旋律はその後にかかる曲でも、違うテイストで引用されるのだが、これがなんともほろ苦い雰囲気を演出している。  デスプラは、『ファウンテン 永遠に続く愛』や『ブラック・スワン』の劇中音楽を手掛けたクリント・マンセルに代わって『The Imitation Game』の音楽を作曲した。3週間だけで作曲したデスプラは、チューリングのエニグマ理論を実践した。彼は監督のモーテン・ティルダムとは会ったことがなく、代表作『ヘッド・ハンター』も見たことがなかった。しかしすぐにティルダムの人間性や彼のユーモラスな映画を、そしてカンバーバッチの演技と、物語にフラッシュバックを挟む演出法を気に入って、すぐに引き受けることを決めたのだった。  「すぐに、ピアノでファンクとアコースティックを混ぜたような音楽がいいんじゃないかと提案したんだ。電子ピアノと、ベースと、いろんなものを、コンピューターで編集したものをね。人がピアノを演奏すると、ロマンチックとかクラシカルになりすぎることがあるんだけど、抽出したピアノの音をつかってコンピューターで作曲した『The Imitation Game』のピアノの主旋律は美しくて独特。だけどシンプルさと従順さが同時にある。まさにこの映画みたいな音楽だよ。それからアランとクリストファーのシーンではできるだけ情熱的に、悲劇的な雰囲気がでるようにした。アランがクリストファーの死を理解するこのシーンがとっても感動的で、僕の好きなシーンの内の一つなんだ。このアランのシーンにはあえて、クリストファーのテーマを使ったよ。まるで長い旅をしてきたような感じがする。この映画の冒頭からの長い旅を経て、ようやくここにたどり着いた。」  もちろん脚本や演出、カンバーバッチや彼の脇を固める俳優たちの演技など注目すべき点はさまざまだが、映画の重要な要素として特にこの作品では、音楽が関わっていることは注目すべきである。ほかの部門と合わせて、『The Imitation Game』はアカデミー賞争いにどう食い込んでいくだろうか。日本での公開は2015年3月を予定している。 則定彩香 横浜国立大 参考 http://blogs.indiewire.com/thompsononhollywood/how-composer-alexandre-desplat-captures-different-wwii-vibes-for-imitation-game-and-unbroken-20141126 公式HP http://theimitationgamemovie.com/ IMDb『The Imitation Game』 http://www.imdb.com/title/tt2084970/

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2014年11月29日土曜日

Frederick Wiseman Turns to National Gallery in London for His Latest Documentary

[World News #133] フレデリック・ワイズマンの新作 『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』  米国のドキュメンタリー映画作家フレデリック・ワイズマンの新作『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』が来年1月、Bunkamuraル・シネマで公開されます。筆者は未見ですが、東京でも試写はすでにおこなわれており、その評判もちらほらと耳に入ってきています。  ワイズマンはこれまでに40本を超える数の作品を作ってきましたが、彼の仕事の多くは、ある種の公共性を問題にしていると、まずは言うことができると思います。競馬場、ボクシングジム、聴覚障害者の学校、軍事演習施設、病院…ワイズマンが被写体として選ぶ施設や空間に共通する特徴のひとつは、だれもが同じ名前で呼ぶ場所であるということです。公共性とはそのような意味です。こうした施設や空間に、少数のスタッフとともに長時間留まり、その場所が持つ名前の下でうごめいている微細な運動や所作を冷徹に記録することで、その場所の実態を明らかにしていくこと、これがワイズマンの作品に一貫するひとつの態度です。  これらのことから、ワイズマンが「 美術館」を撮影することは、ある意味でとても頷けることであると思います。映画好きな人々にとっても馴染みのある場所であろう、美術館という空間において、ワイズマンがどのような運動を記録し編集したのか、いまからとても楽しみです。たくさんのレビューが海外メディアで報じられていますが、その一部をここに抜粋します。 ーーMinnesota Public Radio News 11月26日(※1)ーー ...ワイズマン監督がこの美術館を被写体として選んだのは、次のような、とてもシンプルな動機だ。氏はこう語った。「ナショナル・ギャラリーが世界で最高の美術館のひとつであること。そして、許可を得ることができたということだ」  ワイズマンは12週間をギャラリーを徘徊して過ごした。同時に事務室やワークショップ、そして施設の外においても、カメラを備えて動き回り、美術品とそれを見る人々を撮影することに、170時間を費やした。 「気が付くと、より注意深く見るようになっていました」と氏は語る。80歳半ばのワイズマン氏は生涯を「注意深く見ること」に捧げてきたのだ。  「今回の撮影を通して学ぼうとしたことのひとつは、絵画というものを見ること、そして、読むということでした。」とワイズマン。これは単に色彩や形態を理解するということではなく、歴史的な文脈も関係するだろう。映画のなかのある場面では、ガイドが観客を引き連れて、聖書のイメージで、鮮麗な装飾の施された中世風の仕切りを前にし、次のように語るのだ。「さて。私たちはナショナル・ギャラリーにいて、粛然と作品を見ている訳ですが−−ただし、覚えておいてください。もっとも重要なのは“これらがどう見られることを意図して描かれたのか?”ということなのです。」 『ナショナル・ギャラリー』は徹底して、見ることに関する映画だ。美術家が対象をどう見るか。観客が絵画をどう見るか。そして映画作家は観客をどう描くのか――。 ーーNY Times 11月17日(※2)ーー 『ナショナル・ギャラリー』はロンドンの美術館についてのドキュメンタリーだ。今月ニューヨークでプレミアを迎え、ロンドンでは1月7日より公開される。映画は早朝の(ロンドンの)トラファルガー広場のシーンで始まる。冒頭のショットは美術館のファサードをじっと眺めている獅子像――。3秒後に映し出されるのは、近世から20世紀にかけての2300点余りの絵画を収蔵する建築物の内部だ。磨きこまれた床には、長く鮮やかな色の回廊と、鑑賞されるのを待つ絵画たちが、写り込んでいる。別の部屋へ、そのまた別の部屋へ――どれも人気が無く、しんと静まり返っている。それから、一分間の間、絵画の映像の連なりが画面を埋め、その細部を映し出す。そこで、何か雑音が入り、思惑的で神秘的な時間をストップさせーー次のショットは、輝く床面にさらなる磨きをかける、掃除機である。 「ナショナル・ギャラリー」におけるこの最初の90秒のショットは、ワイズマンが明らかにしようとするものを――つまり、いかにして神聖さとありきたりのものが分ちがたく結びついているのかということをーー端的に現しているものだ。  氏はこう語る。「私がショットを編集し、そしてそれらを結びつけるときに初めて意味が生まれるのです。私は、自分を納得させるためにも、その編集に説明を与えなければなりません。そして、合理的な意味合いでなくとも、言葉にしていかなければならないのです。」  そしてこう続ける。「私のであれ、別の人のであれ、作品は二つのレベルで人に影響を与えます。人々の語りや行動、そして見ているものが示唆することが、実質的にーーつまり「誰が」「誰に」「何を」言っているのか、というーー伝わる事態と、抽象的に伝わるという事態、このふたつのレベルにおいて。そして私は思うのですが、真の映画とはこの二つのレベルの狭間において、立ち現れるのではないでしょうか。」 ※1  http://ift.tt/12de9i9 ※2 http://ift.tt/1EUUKRH   文責:井上遊介

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2014年11月27日木曜日



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[World News #132] 歴史上はじめてのイラン風モノクロ吸血鬼ウェスタン 「歴史上はじめてのイラン風モノクロ吸血鬼ウェスタン」と銘打たれた「無国籍映画」が現在アメリカで公開され大きな話題を呼んでいる。そのエキセントリックな風貌とあけすけな言動で知られたアンナ・リリー・アミールプールの長編処女作『ア・ガール・ウォークス・ホーム・アローン・アット・ナイト(A Girl Walks Home Alone at Night)』(以下『ガール』)だ。サンダンスでプレミア上映されて以降、様々な映画祭で上映されてきた同作は、既に海外の映画批評家から数多くの絶賛の言葉を受けている。たとえば「次世代のタランティーノ」と呼ばれ、「『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』が現在のジャームッシュなら、『ガール』はデビュー時のジャームッシュが撮ったようなヴァンパイア映画だ」といった賛辞が並んでいる。 また、ニューヨーク・タイムズのA. O.スコットは、次のように評価している。 「彼女の造形したヴァンパイアは、悲しい世界の孤独な歩行者だ。ロサンゼルスを撮影地に白黒で描かれたその街(バッド・シティ)は、まるでチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグの背教者によって夢見られた異世界のようである。アミールプールは、ロックなペルシャ風フェミニズムストーリーをそこで語るが、主人公は女性的弱さと復讐者の強靱さの両方を象徴している。この作品に込められた怒りは、ジャームッシュ的クールさと無邪気なまでにイノセントな無法者のロマンチシズムによってバランスが取られている。」(#1) 著名な映画評論家デイビッド・トムソンはさらに熱狂的な評論を寄せ、『ガール』が今年ベストの1本であるとまで断言している。(#2) 「『ガール』は、『インターステラー』や『ゴーン・ガール』より優れていると言うだけでは全く十分でない。そんな比較はメジャー映画を喜ばせるだけの話であり、アンナ・リリー・アミールプールによるこのダーティな輝きを放つ処女作の光を鈍らせるだけの話だ。それは、彼女の先行者であるデヴィッド・リンチの最高の作品と比較するだけでもまだ足りない。『ガール』は、ジャン・ヴィゴやジャン・コクトー、ルイス・ブニュエルらとの比較に於いて語られるべき作品であるのだ。」 『ガール』の監督アンナ・リリー・アミールプールの言葉は、既にIndieTokyoのこちらの記事(#3)で一度紹介してあるが、公開を機に様々なメディアに掲載されたインタビューから、さらに幾つかの発言を拾っておこう。(#4)(#5) ■デヴィッド・リンチやタランティーノからの影響を問われて 「そう言われるのは嬉しいことよ。だって、彼らはすごい人たちだから。リンチのことを考えると私の胸は高鳴るの。彼はものすごいクリエイターで、ある意味で私のヒーローでもある。でも、彼にはすごく影響されてるけど、それは彼の映画や仕事ぶりを真似してるって意味じゃない。彼の映画は彼の脳味噌そのもので、とても固有のものなの。だから、彼の作ったものに影響されたと言うよりは、彼が自らに対してとてもオープンであることに影響されたと言うべきね。リンチは自分の脳の最も暗い部分を探求するような人で、私も自分の脳に対して同じことをしたいと思ってる。」 「『ガール』の準備を始めた時に考えていたのは3本の映画で、それは『ランブルフィッシュ』と『ワイルド・アット・ハート』と『ウェスタン』だった。いや、もっと多かったわね。『続・夕陽のガンマン』とか。とにかく西部劇が大好きなの。あと、『ガンモ』もそう。あれは私の人生で最も重要な作品の1本だわ。」 ■ハリウッドでのキャリアを求めるか聞かれて 「有名な会社からエージェントとマネージャーを付けられたことがあるの。1年以上に渡ってクリエイティブな面で去勢され続けたわ。スクリプトの変更ばかり求められて。クソみたいな案だったけど、それが彼らのベストの案なのよ。結局、私は自分が知ってることをやることに決めた。安っぽく聞こえるかも知れないけど、それが本当なの。もちろん、人によって違うことね。私は誰かにどうやって恋に落ちるかなんて教えられない。同じように、どうやってクリエイティブなモチベーションを得るかなんて教えられないわ。」 「結局、こういうのはその場になってみないと分からないことなんだけど、数ヶ月前、私は『悪魔のいけにえ4』を撮らないかってもちかけられたの。もちろん大きなスタジオの仕事になるわよね。断ったんだけど、その提案は嬉しかった。あんたらの考えは最高だよ、って思ったわ。私が引き受ける仕事じゃないけど、彼らがそう思ってくれたのは嬉しかった。ああ、素敵ね、ありがとう、でもやんない、って感じかな。」 「(『ガール』の前にオファーされていた2つの長編映画企画について)脚本を弄ってばかりで、あの俳優のためだとか、この助成金のためだとか、ああいうのは本当に間抜けで馬鹿げた映画の作り方だと思う。だって、目的のために何かを作ろうとしている訳で、クリエイティブであることとは真逆だから。クリエイティブとは、自分自身に問うことであり、そこに何かを見つけることなのよ。もし最初からゴールとか目的地が見えていたとしたら、私たちは何も見つけることなんてできない。」 ■映画学校について聞かれて 「(UCLAには)映画の作り方を学びに行った訳じゃないの。映画の撮り方を教えるなんて、誰かにファックの仕方を教えるようなもの。できるわけない。ファックの仕方を学びたければ、自分でファックするしかないのよ。決まってるじゃない。」 「フィルムメイカーは自分の冒険的な側面を守らなければいけないの。私は探検家であり、発明家でもある。(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の)ドク・ブラウンは私が一番親近感を持つキャラクターだけど、彼は狂人よ。彼は自分のアイディアに閉じ込められた狂人で、でも自分がやりたいと思ったことは成し遂げる。デロリアンは、彼が目的を持った狂人であり続けるためにこそ動かなくちゃいけない。そして、誰もが自分自身のデロリアン見つけるべきなのよ。」 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ 12/19(金)19:30『自分に見合った顔』 12/26(金)19:00『私たちの好きな八月』 ミゲル・ゴメス特集@新文芸坐シネマテークにて上映! http://ift.tt/1uR44n5 #1 http://ift.tt/1nBPvRL #2 http://ift.tt/1F1MFLh #3 http://ift.tt/1HIDbXp #4 http://ift.tt/1HID9ia #5 http://ift.tt/1HIDbXu

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2014年11月22日土曜日

Steve McQueen's Next Project to Feature Four Great Female Leads

[World News #131]スティーヴ・マックイーン新作 スティーヴ・マックイーンは映画だけでなく、ドクメンタ11・12やヴェネツィア・ビエンナーレなど現代美術の大規模国際展でも活躍しているアーティストです。そうした経験の中から長編映画を撮り始め、昨年、自由黒人でありながらも奴隷にされてしまったひとが12年間に渡り奴隷労働を強いられた姿を描いた“12 Years A Slave”(邦題:『それでも夜は明ける』)で、アカデミー賞、作品賞を受賞しました。 そのスティーヴ・マックイーン監督の新作情報が少しずつ伝わってきていますので紹介します。彼はどうやら6月ごろからHBO(ケーブルテレビ局)による新しい企画に着手していたようで、名立たるプロデュサーがその企画に名を連ねています。そのとき監督は「外見からはそう見えないような過去を抱えた若いアフリカ系アメリカ人が、ニューヨークの高級社会のなかに入っていく冒険」のようなもの、と企画についてほのめかしていました。同時に、俳優を募集しており「民俗的に曖昧なアフリカ系アメリカ人、つまり様々な人種の血が混ざったひとであること」が重要な条件である、と資料から読み取れます。 そして今月、同じくタイム・ワーナー傘下のリージェンシー・エンタープライズ(映画製作会社)企画で「イギリスのテレビシリーズ“Widows”(日本語で“未亡人”の意味)をリメイクした脚本を書いてる」ことが明らかになりました。年内にプリプロも予定されているようです。こちらの企画は上のものと違ったものなのか、同じ企画の変化したものなのかは分かりませんが、「強盗を題材にしたスリラー」もののようで「その強盗が原因で親を無くす」話ということまで分かっています。「エンターテイメントでありかつ活動的な仕事」「スティーヴ・マックイーン監督の新境地となる試み」といった期待の声も上がっています。 昨年のアカデミー賞、受賞作家とだけあって注目が集まる監督ですが、“12 Years A Slave”から分かるのは、自由黒人でありながら奴隷労働を強いられる、つまり曖昧な理由で暴力的に奴隷にされていく、その過程に潜む人間の問題を描きだそうとしているように見えます。それだけに、新作では、アフリカ系アメリカ人という既に民俗的に曖昧な存在が全く違う社会に入っていくことや、強盗という社会の中では明確にされずにしかも帰るべき親を亡くしている存在、といった側面が重要に見えてきます。彼の問題体系はハリウッドを相手にして今後どのように展開していくのか、注目していきたいです。 http://ift.tt/1zH6lB1 http://ift.tt/11GKBu6 http://ift.tt/1wdN8W6 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA

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[World News #130] 11月22日から第15回東京フィルメックスが開催されます。 (Nov. 22 ~ Nov. 30) そこで、今年の東京フィルメックスのコンペティション部門で上映されるイラン映画『数立法メートルの愛』をご紹介します。 東京フィルメックスは今年で15年目を迎えるわけですが、今まで貴重な掘り出し映画を世に紹介してきました。なかでも日本では見落とされてしまう中東映画を勢力的に紹介することで、日本における中東映画の地位を確立してきました。ですから、東京フィルメックスにて、さらにはコンペティション部門にて上映される映画はアジア映画ファンにとって見逃せないのです。そして15年目を迎える今年、東京フィルメックスは初の単行本を出版します!(『この映画を観れば世界がわかる〜現在を刺激する監督たちのワールドワイドな見取り図』、¥1800)本書は、2008年〜2014年まで雑誌『SAPIO』にて連載された記事が元となっています。本書は、様々な国の映画を隔てなく上映してきた東京フィルメックスだからこそ編成できる映画の世界地図なのです。 さて今年、東京フィルメックス・コンペティション部門で上映されるイラン映画は、『数立法メートルの愛』と『プリンス』ですが、両作ともイランにおけるアフガン難民の現状をリアルに描いています。イランはアフガニスタンと国境を接している、そして言葉が通じるといった理由からイランへの合法/違法アフガン難民の移住は後をたちません。一方で、彼らは多くの場合、イラン政府の援助から見落とされ正当な教育を受けられず安い賃金で労働を強いられています。ですから、イランにおけるアフガン難民問題はとても深刻であり、多くの監督の作品でも度々取り上げてこられました。例えば、第二回東京フィルメックス(2001年)でも上映されたモフセン・マフマルバフ監督の『カンダハール』は、カンヌ映画祭でも話題をよんだ、アフガン難民の問題を真正面から描いた印象的な作品です。そして今年の東京フィルメックスのコンペティション部門で選ばれたイラン映画が2作ともアフガン難民を題材にしていることから、この問題がいまだにイランそしてアフガニスタンを悩ませていることが映画を通してうかがえます。イランへのアフガン難民の流出が増加する背景には当然、アフガニスタン国内の情勢不安が見え隠れしている訳でありまして、マスメディアでは流行のごとく騒がれそして忘れ去られた2001年のアフガン紛争やタリバンは、現実ではまだ過去の話ではないことを痛感します。 『数立法メートルの愛』は、テヘラン郊外で働くアフガン難民の恋愛を描いたストーリーです。自身もアフガン難民である監督による作品であることから、緊張感そして監督の想いを感じることができるでしょう。先ほども触れましたように、イランではアフガン難民の権利や地位が保証されないことが少なくありません、その結果、彼らがイラン社会で一定の地位を築くことはやはり並大抵の努力では達成されないでしょう。このような環境下でアフガン難民としてアフガン難民を題材とした作品を世界に発信した監督Jamshid Mahmoudiの熱意が感じられます。また、本作はイランでは珍しいが近年増加してきているインデペンデント映画、すなわちイラン政府から援助を受けていない作品であることも注目すべき点です。イランでは従来、政府の支援を受ける代わりに政府の意向を大いに受け入れるかたちで国内映画は製作されてきましたが、近年インデペンデント映画製作の増加に伴い、イラン政府の関与をできる限り最小限に抑えた比較的自由度の高い映画製作が可能になってきました。 『数立法メートルの愛』:http://ift.tt/1ujtOmL 『プリンス』:http://ift.tt/1AtetZ7 『この映画を観れば世界がわかる〜現在を刺激する監督たちのワールドワイドな見取り図』:http://ift.tt/1ujtQL8 『カンダハール』: http://ift.tt/1AtetrX Jamshid Mahmoudi: http://ift.tt/1Atets3 by Sevin http://ift.tt/1jB6EEk

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2014年11月20日木曜日

Here's What's Wrong With the American Film Market — and Hollywood, Too

[World News #129] 皆様、「AFM」はご存知ですか?AFMはAmerica Film Marketの略で、今年で35周年を迎えた映画の見本市です。フランスの「カンヌ」、イタリアの「MIFED」と並んで世界三大映画見本市と呼ばれ、多くのバイヤーが訪れます。今日はそんなAFMが抱えている問題についての記事を紹介します。 私は今年、AFMに赴きました。サンタモニカで食べた22ドルのサラダや、ホテルの窓からの景色はそんなに悪くありませんでした。 しかし、映画に関してはどうでしょうか。AFMは、映画の質に関して全く考慮していません。それどころか、時には嘘をついたりします。AFI(*1)では、多くのタイトルが45分間流されます。AFIでは、何百もの映画か400本だけを慎重に抽出します。しかし、AFMでは、エントリーの条件は小切手のみであり、多くの出展社がマーケットで雑多に映画を流しています。 二つのイベントには、元は関係性がありました。AFIは質を、AFMはビジネスを追い求めていました。しかし、サンタモニカとハリウッドを結ぶといった困難以前の問題で、二つのイベントの関係性はなくなってしまいました。 世界各地から配給会社の代理人が殺到する中で、重要なものは質ではなくなってしまったのです。 確かにAFMは「ウェインステイン映画配給会社」や「ボルテージ」のような、良い映画をアメリカの映画館に配給しなくてはならない映画会社にとってありがたいものです。彼らはホテルでビジネスを行います。映画製作者から見たら、AFMは異世界です。しかし、バイヤーにとっては、映画を購入する過程で誰の感情も害することなく取引を遂行することができるようになります。しかしながら、こうした理にかなった側面がすべてではありません。 会社は、派手なポスターを使って宣伝しますが、その映画はまだ存在していないし、もしかしたら今後も存在しません。時々、オーソン・ウェルズの『The other Side of the Wind』や三池崇史監督の侍映画のティーザー(*2)などもありますが、AFMでの基本状態は、いんちき商品の売買となってしまっています。 私は、あてもなくAFMの会場の廊下をふらふら歩いていました。その中で私は、『Too Many Cooks』で下品なポップカルチャー特有の言葉のあやが大量に出てきたときと似たような気持ちを感じました。すなわち-「誰がこんな『クソ』に金を払うんだ?」 その答えは「多くの人」です。AFMは毎年世界中から8,000人の代理人を呼び込みます。企業にとっては、ローコスト/ハイリターンの仕事で、AFMにとっても安泰な仕事なのです。AFMはもはや、「質の不在」によって定義づけられます。本質的には、そのことが、制作会社が質の低い映画を生み出す要因となってしまいました。 AFMでは、海外のバイヤーのために「面白いインディーズ映画の発掘」も行われます。国内の配給会社では、海外のバイヤーたちの反応を見て、売れるかどうかを判断することが出来ます。そしてもちろん、AFMは売買の機会を必要としている会社同士を結び付けます。映画産業の発展によって経済活動を活発にさせようとしている国、例えばマレーシアやタイから、南米の多くの国のためにもなります。 しかしながら、その過程には映画の製作サイドが一切介在せず、製作者と配給会社の、未来に良い映画が作られるような直接的なつながりがありません。 ここには、世界的な映画産業が、商業を活発化させる芸術活動へのモチベーションを製作側に持たせることに失敗し続けている小世界が見られます。 もちろん、こうした問題は何も新しいものではありません。『Electric Boogaloo: The Wild, Untold History of Canon Films』でば30年間がらくたのような映画を売り続けてきた会社のやりくりを追っています。スタジオ・システムでない製作方法で作り、解放感を感じる一方で彼らは創造力を貧困にさせていきます。問題の一因は、AFMのようなイベントにあります。AFMは、表面上は経済活動の維持に主眼を置いているものの、ビーチでぶらぶらしたり、人々が大物であるかのように振舞うための言い訳となっています。真の映画文化を涵養するための見本市のはずが、その逆の結果を招いてしまっているのです。 あるAFMの出席者は「AFMはビジネスなんかじゃないよ。バカンスにお金を払っているだけだ」と述べました。彼は続けます。「AFMの会場で出来ることは、スカイプやEメールでだって出来るよ。全くばかげている」 記事:近藤多聞 *1 北米最大の国際映画祭。ハリウッドで開催されている。 *2 商品を隠したり小出しにしたりして興味をあおる広告など 引用: Indiewire: http://ift.tt/1A3Bem4

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[World News #128] フィルムは時代錯誤?『インターステラー』フィルム上映にみる限界と可能性 11月7日よりアメリカで公開され、今月22日より日本でも公開されるクリストファー・ノーラン監督最新作『インターステラー』。人類滅亡を防ぐべく、地球に変わる第二の惑星を探す宇宙の旅に出る…というノーラン監督のSF超大作だ。本公開に先駆けた11月5日、本国アメリカの映画館で35mm・70mmフィルムによる先行上映が行われたが、フィルム上映に関して劇場主たちから批判の声を受けていたという(*1)。 『インターステラー』の配給パラマウント映画とワーナー・ブラザーズは、先行上映に参加するアメリカ国内240館もの劇場が、10月頭の時点で未だ上映用のフィルムプロジェクターを準備していると発表。それもそのはず、アメリカ国内の映画事情も日本国内と同じように、殆どの劇場がフィルム上映では興行面で予算回収できないために、デジタル移行してしまったからである。 本作の監督、クリストファー・ノーランがフィルム映画の熱狂的な支持者であることは業界でもよく知られている。以前のInside IndieTokyoでも、クエンティン・タランティーノ、マーティン・スコセッシらが映画配給会社と協働し、フィルム生産打ち切りのため閉鎖寸前だったコダック社の工場と契約を交わした件に触れた(*2)。フィルムに惹かれる作り手にとって“フィルムかデジタルか”は映画製作において譲れない拘りであろう。 しかし、今回の『インターステラー』フィルム上映に関しては、さすがの劇場側も難色を見せた。ハリウッドのスタジオがフィルム手配を中止したことを契機に、現在世界各国の映画館は殆どすべてデジタル移行されている。皮肉にも『インターステラー』の配給であるパラマウント映画は、今年初めにフィルム配給を取り止めた最初の映画スタジオでもある。 全デジタル上映を行うジョージア州の映画館系列、スポットライト・シアターズのCEOであるジョー・パレッタ氏は「この試みは、確実に我々の行ってきたことを格下げしている」と述べる。「たった2日間のこの上映のためにフィルムを用意する予算はない。それだけでなく、フィルムを扱う映写技師すら用意できない」と苦いコメントを残した。パレッタ氏と共にフットヒルズ・シネマを経営するバイロン・バークリー氏も「時代錯誤で、無意味」と批判の声を露わにした。ハリウッドのスタジオからの資金援助はあるといえども、彼らのような小規模映画館チェーンの経営者にとっては金銭的ダメージを食らうのは当然だ。 しかし、35mm・70mm・DCP・IMAXと様々な方式で上映される『インターステラー』に対し、それぞれ絶賛の声もあがっている。「デジタルこそ暗さを活かして撮影できると聞いていたが、映写となると、やはり宇宙の暗さはフィルムのほうが美しく出る」、「確実にIMAXで観るべき映画。普通の劇場で観ていたらこれほど圧倒されていない」、「35mmにすることで、この世の他のものに全く類を見ない作品になった」…などの意見が殺到している(*3)。デジタル上映時代にあらゆる映画上映の可能性も示唆している、新しい映画ともいえるだろう。 記事・内山ありさ(早稲田大学) *1 Why Theater Owners Aren't Happy About Christopher Nolan's 'Interstellar' Film Initiative http://ift.tt/1tl4UTK *2 [World News #069]絶滅寸前なフィルム映画のため立ち上がる!タランティーノ、ノーラン、スコセッシら奮闘(内山ありさ) http://ift.tt/14MkcMz *3 70mm? IMAX? DCP? How Format Affected Our Theatrical Experiences With Christopher Nolan's 'Interstellar' http://ift.tt/14MkcMC



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2014年11月16日日曜日



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[World News #127] アメリカン・インディペンデント in Progress  U.S. in Progressという映画祭のプログラムをご存じだろうか。現在のアメリカのインディペンデント映画ばかりを上映するプログラムである。現在はポーランドのウォルクロー映画祭と、フランスのシャンゼリゼ映画祭の2か所で、映画祭の1プログラムとして組み込まれており、2011年から毎年開催されている。このプログラムが特徴的なのは、アメリカのインディペンデント映画作家たちが自分の作品をそこで上映し、知識のある観客たちと一緒に考え、場合によってはこれからまた手直しをしてもっと良くしていって、のちに上映するときには援助しましょう、というwork in progressの方法で映画を作っていくのが目的のひとつであるということだ。  work in progressの方法で映画を撮って、「自分の映画をいいと思うのは作った本人だけだ。しかし、なぜそれが良いのかという根拠を、自分で説明できなければならない」と、『God Bless the Child』の共同監督であるRobert Machoianは語っている。自分の作品を他人に説明し、自分では気が付かなかったが無意識のうちに作品に付与していた意味を他人に発見されるという経験は、特に若い映画作家にとって重要なものになるだろう。  『God Bless the Child』では、演技経験のない子供を登用して、母親に見捨てられた子供たちをリアルにとらえている。脚本はあるけれど、子供たちが自発的に生み出すめちゃくちゃなエネルギーは、さながらドキュメンタリーのようである。共同監督のもう一人Ojeda-Beckが言うには、このストーリーはRobertの父がかつて実の母親に「兄弟の面倒を見るように」との書置きを残して出ていかれてしまったという話にインスピレーションを得て、そしてRobertの息子を使って撮るという方法をとったのだそうだ。  この映画は、音響デザイン、色彩、作曲、など多岐にわたって優れていると高い評価を獲得し、ヨーロッパの配給会社の目に留まることになる。2015年のサンダンス映画祭に出品されることも決まった。しかしそれに加えて、監督の側は、このプログラムで人間関係が広がることに価値を見出していた。「表彰式がおわったらみんなで飲みに行こう。もっと深い話をするためにさ。」  2012年にU.S. in Progressで注目を集め、ヨーロッパの配給会社からプリント代と宣伝費を獲得した『I Used To Be Darker』のプロデューサーは以下のように語る。「インディペンデント映画は一般受けするようなジャンル映画でないことが多いし、特にインターナショナルな配給会社から注目されるものでもない。それでも上映に集まった映画人同士で関係を築くこと、作品を完成させるまでにいろんな人に見せて、様々な意見をもらって作品を良くしていくことが、インディペンデント映画がごみごみと混在する中から頭一つ抜けるためにずっと重要なことだ。」  また、映画祭で審査員を務めたアーティスティックディレクターによると、AFFが称賛するのはこの手の野心だという。「編集やストーリーテリングの上手いアメリカ的な映画作りと、作家主義のヨーロッパ的な映画作りの間のギャップを埋めること、つまりアメリカの映画をヨーロッパで流行らせるための何か特別な工夫なんかは、必要ないと思っている。一風変わったコンセプトと、彼ら自身のかなり個人的な物語、それでいいのだと思う。彼らの勇敢で新鮮なアプローチは、ハリウッドでは生まれない。そういう国籍も慣習も乗り越えた面白い作品がインディペンデントの作家から生まれるのが、私たちの希望です。フランスのヌーヴェル・ヴァーグだって、その頃のフランスの観客に感銘を与えたのはアメリカ映画だったのですから。」 則定彩香 横浜国立大学 教育人間科学部 http://ift.tt/14t0QvO http://ift.tt/10LQW66 http://ift.tt/14t0TaW

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2014年11月14日金曜日

[World News #126] ポール・トーマス・アンダーソンが紹介する“Mondo Hollywood” 11月8日~13日、ロサンゼルスのチャイニーズ・シアターおよびエジプシャン・シアターで、アメリカン・フィルム・インスティチュート主催の映画祭「AFIフェスト」が開催されました。新作映画の見本市というよりも、アカデミー賞を始めとする今年度のアメリカの映画賞レースに参加する作品のお披露目の場として知られる映画祭で、11日にはクリント・イーストウッドの最新作“American Sniper”が初上映され話題になりました。 さて、先月のニューヨーク映画祭でお披露目されたポール・トーマス・アンダーソンがトマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』を映画化した作品 “Inherent Vice”も同映画祭で8日に上映されたのですが、その上映前に「ポール・トーマス・アンダーソン・プレゼンツ」という名目で “Mondo Hollywood”(#1)という作品の上映、ならびに同作の監督であるロバート・カール・コーエンとアンダーソンの対談が行われました。今日はその模様をレポートしたIndieWireの記事(#2)とともに“Mondo Hollywood”について触れたいと思います。 “Mondo Hollywood”(67)は1965~67年に撮影されたドキュメンタリー映画で、ロサンゼルスに暮らす有名無名の人々の姿が彼ら自身による(ただし時に誰の独白であるかわからなくなる)ナレーションとともに映し出されます。登場するのは、ストリッパー、役者、歌手、ヘアスタイリスト、サーフ映画の製作者、サイコロジスト、彫刻家、ハウスキーパー、スカイダイバーなどなど多彩な人たち。そして商工会議所の懇談会やイギリス王室のマーガレット王女がユニバーサルスタジオを訪問した際の記録映像、さらに反共主義やベトナム戦争への反対デモ、ワッツ暴動で廃墟と化した場所なども撮影されています。 ちなみに1968年のアヴィニヨン映画祭に招待されながらも「視覚的攻撃性や編集による心理操作が国民の心の健康にとって有害である」という理由でフランスで上映禁止にされた過去を持つ曰く付きの作品でもあります。 アンダーソンがこの作品を観たのは近年のことで、1970年のロスを舞台にしたトマス・ピンチョンの小説『LAヴァイス』が原作である“Inherent Vice”を準備していた時に、ロスにあるラルゴというクラブのオーナーからこの作品を勧められたのだそうです。最初はこの作品に対して懐疑的だったというアンダーソンですが、観た途端に「こんなものは今まで見たことがない」と思ったと言います。「変わり者、厳格な人、人情深い人などなど多様な人々に接近し、彼ら個人を映し出したこの映像に心を動かされ、“Inherent Vice”を作る上でとても参考になりました。僕らの作品は1970年が舞台ですが、その数年前に作られた作品であることがより一層貴重だったんです。なぜならこのフィルムはコミュニズムやベトナム戦争という時限爆弾がカチカチと時を刻んでいるのを捉えているからです」 当時、アリフレックスの35mmカメラを自ら肩に担ぎ、ロス中を歩き回っていたコーエンは「私はただその時間が“ある”ことをとらえようとしました」と言います。「何かにカメラを向けることは、その時間を記録しているということです。47年後にここに座って、ポールを含めた当時はまだ生まれていなかった大勢の人たちと一緒に同じ映画を見ることになるとは想像もしていませんでした。もし1955年、私が25歳だったころに、50年前の1900年あたりに撮られた風景を見ていたら唖然としたと思いますよ。完全に違う世界ですからね」 この対談をリポートしたチャーリー・シュミードリン氏によれば、“Inherent Vice”には“Mondo Hollywood”からの影響が具体的にわかる場面がいくつかある(たとえば“Mondo Hollywood”に登場する、マリブの山頂に10ドルでガレージを借りて猿とともに遊んでくらす百万長者の青年のキャラクターがホアキン・フェニックス演じる主人公に投影されていると思われるシーンなど)とのことだが、アンダーソンとコーエンの発言を読む限りでは、やはり“Inherent Vice”が受けた影響は、“Mondo Hollywood”の細部に宿った時代の空気のようなものにこそあるように思えます。 コーエンもアンダーソンの作品のそういった点を高く評価しているようで、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』については自身の体験を交えて以下のように褒めたそうです。 「私は1950年に中央カリフォルニアにディアブロ山脈にある採鉱場で鉱業アナリストをしていたんです。その鉱山のオーナーはジョン・ウェインでした――もちろん彼がそこに来たことはありませんが。私は夏の間そこで時給1ドル25セント、食事つきで働き、4人の同僚とひとつのテントで寝泊まりしていました。あなたの映画(『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』)を観た時、そこには私が知っている正真正銘の鉱山での娯楽が描かれていると思いました」 さらに“Inherent Vice”に関しても、「私たちは物理的にはここ(ハリウッド)にいますが、一方でここにはいないんです。ハリウッドは記憶の中にある…。ここは幻想をつくり、それを世界中の人々に売るビジネスマンによって舗装された砂漠です。人々の記憶の中にあるハリウッドの人々やイメージはテレビや映画というフィルターを通したものです。 “Inherent Vice”を観ましたが――ポールはそういった感覚をも表現できる達人ですね」と述べています。 “Inherent Vice”は12月12日より北米の一部で公開、日本での公開は2015年に予定されているそうです。同作を観る前に、ぜひ“Mondo Hollywood”もご覧になってはいかがでしょうか。(#3) 黒岩幹子 #1 http://ift.tt/1zo3JYy #2 http://ift.tt/1pXUcHy #3 “Mondo Hollywood” (Youtube) http://ift.tt/1zo3JYA

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2014年11月13日木曜日

[World News #125] 「非営利」(Non-Profit)を巡って  今日は「非営利(Non-Profit)」に関わる記事を紹介します。映画製作と配給、上映活動における新たな動きを巡る話題です。著者の Nick Toti 氏はこれまでインディペンデントの映画監督、俳優として活動し、これまでに蓄積した経験と知識を携えて、非営利団体である「Interesting Production」を設立したといいます。  日本国内と米国では寄付金や営利/非営利の考え方がおそらく異なるので、単純に参考になるものではないかもしれませんが、記事の前半で語られる非営利活動の歴史、現在を考察した分析はなかなか示唆に富んでいるように思います。また映画に限らず、文化活動の運営者が「何から独立するべきなのか?」といった問題を考えるにあたっても、一読の価値があるかもしれません。 (※1) 「過去二年間、私は様々な文献や人々の意見から、映画という産業の未来について考えてきた。たとえば、テッド・ホープは持続的な産業システムの形成が急務だと語っていたし、ティム・リーグは配給の新しい経路を模索している。海賊版の普及については賛否両論があり、あるいは、クラウド・ファウンディングによる出資の是非をめぐる議論も依然として不明瞭なままだ。  しかし、私と、映画製作のパートナーであるマット・ラサムの考えでは、これらのいまとなっては聞きなれた議論のほかにも、いくつか重要なことが見落とされている。まず、こうした意見はすべて映画産業の内部にいる人々のものだ。かれらの多くが、海賊版の流通に否定的な姿勢をとっているのは、沈みゆく船の甲板に空いた穴をふさごうとしているかのようだ。しかし、映画製作はこれまでになく盛んなものになっている。高性能の機材はますます安価になり、クラウドファウンディングの普及、オンラインで配給される作品へのアクセスのしやすさなど、いくつかの要因が状況を変化させてきたのだ。産業の既存の体系はそういった流れに遅れまいとするけれども、我々真にインディペンデント(ここでいう「インディペンデント」とは、注目を集めているわけでもなく資金があるわけでもない、しかし自身の内側からの想いを原動力に映画を撮り続けている若者のことだ)の作家こそは、これらの方法をフルに活用することができる」 「これまで非営利的な製作体制は、主に劇場を運営する企業によって採用されてきた。これらは文化としての映画の存続を目的とし、理解のある観客の直接的な支援に支えられてきた。現代のインディペンデント映画は、ごく自然にこうした非営利の方法論に向かっているのではないだろうか。予算が少なかったり、個人的な作品であったり、あるいは何か非常に偏った趣味の映画は、寄付金によって資金が集まってはいても、採算をあげることは稀である。しかし、情熱のある観客と作家たちの新たなコミュニティの形成によって、こうした作品に横のつながりを生み出すとともに、経済的な面でも、口コミなども利用しながら製作を支援することが可能になる。」 「例えば「Nobudge」(※2)のようなウェブサイトは、20世紀半ば「Little Journal」が詩の文化にたいして果たした役割を、映画産業にたいして果たそうとしている。「Simple Machine」(※3)は未公開の映画を観客に(註:例えばプロデューサー、映画祭ディレクターに)届ける役割を果たしているし、「Micro-Wave Cinema Series」(※4)は作家と情熱的な観客をつなげようとする試みである。こういった事柄は、市場の枠組みの中でのアメリカの映画産業の在り方を超えていく、その始まりのメディアであるように思える。」 「現在まで、非営利の団体にとっての最大の障壁は「文化への寄与」にかかわる問題だった。非営利団体は、ことさらにその活動が「文化的に意義がある」ことをしめさなければならない。たとえば「教育的なプログラム」であることや、地域文化や社会的問題と関わるものであることを強調する必要がでてくるのだ。こういった側面のために、非営利の映画製作団体の上映活動は教育目的重視のドキュメンタリーや、時事的な政治問題を直截的に扱ったフィクションに限定されることが多かった」 「こうしたことを視野に入れて、私とマットは従来とは異なる方向性を模索していた。我々が作ろうとしている映画は一般的に広い支持を受ける類のものではないかもしれない。けれど私は映画を通してでしか伝えられない何かを表現するために作品をつくるべきだと思っていた。そして現在、インターネットを通してそういった映画を、そうした関心を持つ人々と共有することもできる。そうした流れで我々は『Interesting Production』という名前の非営利の映画会社を設立したのだ。新たな映画製作と配給の体系の一端となればと思っている」 「Interesting Productionではすべての作品を無料で公開する予定だ。配給経路に作品をゆだねることは視野に入れない。我々がやろうとしていることはある種の極北で、あまり他の人たちはマネしたがらないかもしれない。けれども、新たな開拓を試みるときには、大胆さが必要な場合もあるはず。すべては寄付によっておこなわれる。それはつまり、この事業が継続するか否かは、私たちも属している共同体の善意に依っているということだ。...時間と労力を要することは間違いない。  現代はアメリカ映画産業にとって、刺激的な時代だと思う。我々の理想とする映画を支える経済のシステムは未だ明確なかたちをとっていないが、資本のみが猛威を振るった時代は終わろうとしている。大いなる理想とヴィジョンを持ち、未来のシステムを想像する人々にとっての、新しい時代が到来しつつあるのではないか」  著者はこの記事で、IndependentであることとNon-profitであることを延長線上に捉え、それらふたつの性格を包括できるようなシステムの構築を目指しています。  日本でもクラウドファウンディングはかなり定着し、Load Showなどの活動に、新たな配給活動の一端を見ることができます。冒頭でも書いたように、米国と日本ではかなり文脈が異なるとはいえ、様々な形式の製作・配給・上映の方法が実践されているという状況には、今後も注目したいところです。 (※1)http://ift.tt/1up17Jy... (※2)http://nobudge.com/ (※3)http://ift.tt/1ovGkwn (※4)http://ift.tt/1xQ71Tk 文責:井上遊介(映画批評MIRAGE 編集委員) 11月15日は七里圭さんのイベントがあります。 (http://ift.tt/1up17JD パンフレットの編集などお手伝いしました。ご興味あればぜひ。

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2014年11月11日火曜日

[World News #124] 映画監督への道は一つではない あなたが映画監督への道を志したとします。では、どうやってその夢を実現すれば良いでしょう?かつてスタジオシステムが存在した時代であれば、映画会社に入社し、脚本を書いたり助監督を経験した後、映画監督へと進出するコースが存在しました。しかし、それはもう過去の話です。今なら、映画学校に入って映画作りを学ぶのが最短コース?しかし、学校に入学して一本か二本の作品をそこで作り、やがて卒業したあなたは気づくかもしれません。自分は映画監督という仕事の「形」を学んだだけであって、本当に監督になった訳ではないのだ、と。では、映画監督になるのはどうすれば良いのでしょう?あるいは、映画監督という仕事は現在に於いて何を意味するのでしょう?映画監督になるとは、どういうことであるのでしょう? 90年代以降の米インディペンデント映画を代表する一人にホイット・スティルマン(#1)という監督がいます。残念ながら日本では正当に紹介されていませんが、ロメール的とも評される会話を主体としたユーモア溢れる群像劇で、世界的にファンの多い映画作家です。しかし、彼の映画監督としての道は決して平坦ではありませんでした。 1952年生まれのスティルマンは、ハーバード大学を卒業後、はじめジャーナリストとして職を得ます。しかしその職を失った彼は、スペイン人である妻の紹介からスペイン映画をアメリカTV局に売るセールスエージェントの仕事に就きます。その傍ら脚本を書き続けた彼は、自らのアパートを売却し友人たちからの援助も加えて集めた500万円ほどの資金を元に処女長編『メトロポリタン』(90)を監督します。この作品で高い評価を得たスティルマンは、続いて『バルセロナの恋人たち』(94)『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』(98)を発表し、いずれも現在では90年代米インディペンデント映画のクラシックとも呼ばれる名声を確立しました。 ところが、その後プロデューサーと共にイギリスのスタジオで様々な企画を手がけたスティルマンはいずれも実現することができないまま13年間の時を過ごしてしまいます。その意図せざる沈黙の後に発表した『ダムゼル・イン・ディストレス』(2011)では、インディペンデント映画の女王グレタ・ガーウィグを主演に迎え、再び現役へと復帰。現在は、Amazonオリジナルシリーズの『The Cosmopolitans』を撮影しています。 ポーランドで開催中のアメリカ映画祭でレトロスペクティヴが開催されたスティルマンは、自らの波乱に満ちた人生を振り返りつつ、映画監督への道について次のように語っています。(#2) ■映画監督への道について できるなら今すぐビジネスに飛び込んだ方が良いよ。でも、それが上手く行かなかったとしても別の道がある。早熟なタイプもいれば晩成型もいる訳で、僕は後者だと思うね。大抵の場合、物事が上手く行く瞬間というのがあるわけで、たとえば、君がたまたま会うべき人の隣に座っていて、話すべき事を話したとか、そういうタイミングが必要なんだ。 小説家には、すぐに物書きで成功しなかった作家を羨む人たちがいる。成功するまでに別の仕事をして別の世界で生きてきたからね。例えば、フィッツジェラルドはジョゼフ・コンラッドが船乗りだった事実をすごく羨ましがっていた。僕の場合もコンラッドほど魅力的でもロマンチックでもないけど、幾つかの異なった世界で働くチャンスはあった。 (フェルナンド・トルエバやフェルナンド・コロモといったスペイン人監督のセールスエージェントとして働いていた時)僕はトルエバに頼まれてアメリカ人の奇妙な精神分析医の役を演じたことがある。そこで、映画がどのように作られるのか見ることができたわけだ。後に『バルセロナの恋人たち』となるスクリプトもそこで書いていたんだけど、外国で映画を作ることはとても難しく、とてもお金のかかることであり、とりわけ処女作で選ぶべき選択肢ではないと気づいた。だから合衆国に戻って、可能な限り最もシンプルな方法で映画を作る道を探ることにしたんだ。 ■フィクションか脚本か はじめ、僕はフィクションを書きたかった。フィッツジェラルドや僕の尊敬する小説家のコピーをしたかったんだ。でも、ある時壁にぶつかった。そして脚本を書くのが怖くなった。僕はただ映画を監督したかっただけなのに、そのために脚本を書かなくちゃいけなかったんだ。でも、やがて学んだんだけど、映画脚本の素晴らしいところは、どの登場人物も自分自身の語り手であるということなんだ。そしてその語り手は、君以外の誰か役者が演じてくれる。『メトロポリタン』の製作中、ある瞬間から役者たちが自ら自分自身の役を作り上げていくことに気づいた。自分自身の事実を語り始めたんだ。 たいていの場合、僕は最近起こったことをそのまま脚本に書くことができない。それは過去から少しねじ曲げられなくちゃいけないんだ。自伝的な内容を直接書くべきじゃないと思う。本当に創造的なのは、自伝的内容をスクリーンにそのままのせることではなく、ボンヤリした記憶の膜を通じて物事を改めて作り上げることだと思うんだ。こうした作業によって、アイディアは結合し形を為していく。現実に起きた出来事から変化していくことになるんだ。 ■主題を見つけること 君が最初に脚本を書き始める時に最も大切なことの一つは、君が長い間魅了され続けていて、しかも他人も魅了されると思う主題を探し出すことだ。そこには、なにかセクシーな側面がある筈なんだ。かつて映画監督のエイブラハム・ポロンスキーは、あらゆる映画にはポルノ的要素があると話していた。僕はポルノは嫌いだけど、ある種の主題にはそうした身震いするような興奮があることは間違いないね。 僕が(13年もの)長い間映画を撮ることができなかったのは、原作ものの脚色に取り組んでいて、物事を伝統的なやり方で進めようとしていたからなんだ。つまり、プロデューサーと相談しながら、様々なオプションを前に選択し続けていた。その結果、できあがった脚本は、もはやその映画化権を自分が所持していないなんて事実に突き当たる訳だ。 僕の映画授業のクラスとか、あるいは映画祭に作品が出品された25才くらいの若い映画監督の作品を見ていると、たいてい10才くらいの少年を主人公に描いた悲しい物語であることが多い。でも、世の中に10才の少年の悲しい映画を見たいと思う観客はそんなに沢山いるわけじゃない。君は何が観客の興味を引くか、そしてそれが同時に自分にとって興味深いものであるかについて、もっと注意深く考える必要があると思う。 ■バジェットの問題 『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』は予算が大きすぎた。たとえ君がこの映画にはこれだけの予算があってこれだけの事ができると言われたとしても、それが作品にとって本当に良いことか改めて考えるべきだと思う。あの作品はワーナーから資金が出ていたが、そのためスタジオのやり方で物事を進めなくちゃいけなかった。組合の規定とか、そういうのだ。そして僕たちは彼らに喜んでもらう必要もあった。だから大きなナイトクラブで撮影しようなんて考えた訳だ。でも、それが良い選択とは限らない。小さな場所で撮影した方が良いことだって多いんだ。この結果、広大なナイトクラブと膨大な組合規定と、それにナイトクラブを人で埋めるためだけの桁外れの予算ばかり手にすることになってしまった。あれは完全な間違いだった。今や大きなディスコを見るだけで恐怖を感じる程だよ。20人ほどの友人たちが踊る小さなディスコこそが、僕の考える楽しい空間だ。 ■低予算の代替案を持つこと 僕の最大の失敗は、こんなにも長い間映画を撮らなかったことであり、そしてその事実に向き合わなかったことだ。この失敗から学んだ教訓はこういうものだ。つまり、常に低予算の代替案を持つこと。自分の脚本を他人に売ってしまわないこと。あるいはその必要があったとしても、いつでも買い戻せるようにしておくこと。そしてその脚本をお金なしで撮る方法を見つけることだ。低予算で『戦争と平和』を撮る方法だって世の中にはある筈なんだ。失敗を解決するには、起こり得る事態をコントロールするしかない。自分自身で道を切り開いて、その責任を引き受けるんだ。僕の場合、スタジオとプロデューサーに責任を委ねてしまった。全ての幻滅がそこに始まった。それはプロデューサーの世界なんだ。彼は良い奴だったけど、結局はビジネスマンなんだよ。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://ift.tt/Xd9OKd #2 http://ift.tt/1tTmwdI

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Les Inrocks - À Lisbonne, le cinéma d’auteur portugais s’unit contre les dérives libérales

[World News #122] ポルトガルのインディペンデント映画作家たちの奮闘 Others Will Love the Things I Loved  今年で第12回目を向かえるリスボンの国際ドキュメンタリー映画祭、Doclisboa*(1)が10月16日~26日のあいだに開催された。lesinrocksによると、今回の映画祭はかつてないほど、ポルトガルのインディペンデント映画作家のコミュニティによる活動が反響を呼ぶものとなったことを示唆している。  今回の映画祭で上映が最も待ち望まれていたManuel Mozos監督による、" João Bénard da Costa – Others Will Love the Things I Loved" *(3)(2009年に亡くなった批評家、映画監督でもあり、シネマテッカ・ポルトゲーザ(ポルトガルのフィルムセンター)の館長を18年に渡って務めた人物、João Bénard da Costaについてのドキュメンタリー)の上映を期に、ポルトガルのインディペンデント映画作家たちの大半が資金援助委員会から身を引くことを発表し、拍手をもって受け入れられたという。  2013年に設けられた新しい法律により、ポルトガル映画・映像院(ICA)の役目の一端として、映画やテレビの企画に関する資金援助を担当する特別な部署(資金援助委員会)が設けられたそうだが、ポルトガル監督協会やインディペンデント・プロデューサー、また映画祭の責任者たちが、それらの資金が個人的な経済的問題の解決と利益のために利用されているということを告発した。  ポルトガルが抱える経済危機の現状に加え、このような問題が浮かび上がることは多くの映画作家たちによる映画の企画が頓挫する可能性を大きく孕んでいる。この現状を打破するため、インディペンデント映画作家のコミュニティは共同文書に「資金援助の決定プロセスにおいて、己の利益を探そうとしない者に与えること」*(2)という要求を文章にしたため、政府に提案する方針を示した。  ただでさえ、ポルトガルで作られる映画の予算が人々の出費の減少と平行線を辿っているというのに、政府の計らいなどによって公的資金に依存して援助され続ける芸術作品もあるという事実を踏まえると、そういった一存とは一線を画す、映画作家や観客の要望に応えるような映画の必要性をポルトガルのインディペンデント映画作家たちは切に訴えている。  今回の一連の流れが" João Bénard da Costa – Others Will Love the Things I Loved"の上映を期に行われたのは、João Bénard da Costaの意志を継ぐ者たちとしての意志表明だったと思われる。João Bénard da Costaは自分が触れた絵画や文学、そして映画の作品から培ったものを、後世に伝えようと、自分の人生をかけて取り組んでいた。そして、本ドキュメンタリーではまるで彼の魂が、自分の愛していた映画や文学作品によってできていたかのように、彼の愛した映画の断片(カール・テオドア・ドライヤーの『奇跡』やニコラス・レイの『大砂塵』)と彼が執筆した批評の言葉と共に、彼の抱いていた情熱を我々(観客)が引き継いでいくかのような構成となっているらしい。*(4)   「その夜に上映された映画のサブタイトルは、商業的でもなく、エリート主義的でもない、一部のポルトガル映画の欲求を主張していた。「自分が愛したものをきっと他者も愛してくれるだろう」と信じて・・・」*(2) 楠 大史 http://ift.tt/1AVcLRn http://ift.tt/1slEnVj *(2) http://ift.tt/1tUNiBk http://ift.tt/1tUNiBm

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2014年11月9日日曜日

Why Stephen King Is Utterly Wrong About 'Room 237'

[World News #124]スティーブン・キングと『シャイニング』と『Room 237』 スティーブン・キングが、キューブリックが監督した『シャイニング』を毛嫌いしていることは有名ですが、2013年に公開された、『シャイニング』の熱狂的なファンについてのドキュメンタリー『Room 237』にも苦言を呈しました。しかしながら、『Room 237』はある意味で特殊なドキュメンタリーであり、今回はこの映画に関してのレビューをお届けいたします。 以下、引用。 ------------------------------------------------------------------------------------------ 偉大な作家でもあるスティーブン・キングはある種馬鹿者でもある。彼が最も馬鹿になる話題の一つは、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』であり、『シャイニング』の、キングが書いた原作への尊重のなさが彼を35年間も蝕み続けている。しかしながら、ロドニー・アッシャーの、『シャイニング』に関するドキュメンタリー『Room 237』が公開されて、彼が馬鹿になる話題はこの映画にまで拡張した。今回は、ローリングストーンとキングののQ&Aを見ながら、「何が真実か」を御覧いただこう。 ――あなたは、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』の熱狂的なファンのドキュメンタリーを観ましたか? うん。だけど耐えられなくて途中でやめちゃった。 ――それは何故? 彼らの「学術的なでたらめ」に耐えられなかったんだ。「人々にナイフとフォークを与えたら、彼らは何かを切ってしまった」とボブ・ディランは言ったけど、それがあの映画で行われていることだったんだ。 キングは、キューブリックの以前のアシスタントであるレオン・ヴ ィタリや、「『Room 237』はただひどいだけじゃない。耐えられな いんだ。ニューヨーク大学芸術学部の新入生の方がまだ映画らしいものを作れる」と書いたへサー・ドッグレイと同じように、『Room 237』を見当違いに批判する人の一人となってしまった。 『Room 237』は『シャイニング』の過大解釈の危険があることを考慮に入れると、多くの人々は『Room 237』を、もっともらしい理論、例えば『シャイニング』は、月の着陸のフェイク映像製作に加担したというキューブリックの告白であるという仮定などの単なる紹介にすぎない、と過小解釈しているという皮肉が生まれる。 アッシャーは、ABCニュースのベテラン特派員である、ビル・ブレイクモアが、『シャイニング』が密かなるネイティブアメリカンの虐殺の記録であると考えている(本人はそれを隠しているが)ことを明かし、被写体の信頼性を保証している。 キングの発言で最も苛立ちを感じることは、激昂する前に理解しよ うとしていないことだ。ディランの発言の引用に関してははまさにその通りであり、『ルーム237』は実際、見境ない分析の適用であり、それは映画が自己批判を経ていない時に起こることだ(初期のレビューは、『Room 237』が映画の批評家の話であると解釈しており、私は「それが悪い批評家である」という一点に基づき、それに賛成する)。しかし、それを「学術的なでたらめ」と切り捨てることは、『Room 237』についてというより、キング個人の問題だ。『Room 237』が本当は何なのかを議論する際、人々は、まさしく映画の被写体のように、ひどく危険なリスクを背負わねばならないが、そのリスクを背負うことは、繰り返すロールシャッハテストの一種として、最も機能的なやり方なのだ。 『Room 237』の被写体のうち何人かは、大学教育を受けているが、 彼らの理論は学術的なものというよりは、キューブリックが『シャイニング』を製作した時には、不可能ではないにせよ、非常に難しかったであろう、ある特定の側面への熱心な鑑賞と、インターネットに依拠しており、映画の中に出てくる、「ミノタウロスの絵」のようなイメージを観ていく中で、それが彼ら自身の理論を成り立たせるための、なんら意味づけのない、強迫観念的なテキストであることを無視しながら、効率的に映画の流れというものを無視している(ニセモノの月面着陸が、映画の主人公である、自分の才能のなさによって狂った作家と何の関係があるのか?)。これは、『ソプラノ』のファンのやり口と似ている。どっちの場合も、作者は自分の映画を全てコントロールしていると考えられており、どんな些細なディテールも目的があるのだと考えられている。 『Room 237』をパワフルにしているものは、この「無作為から関連性を生み出す近くの働き」は、狂気を生み出しうることをほのめかし、批評家と観客に、それらは悪魔的であることを分からせた、そのやり方なのである。 文:近藤多聞 引用:http://ift.tt/1tzsWNR

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2014年11月7日金曜日

Why Theaters Are Refusing to Book Godard's Moneymaking 3D 'Goodbye to Language'

[World News #123] 米にて3Dゴダール公開、その影響と現状 あのゴダールが3Dで新作を撮った、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した、などと話題になりながら多くの人たちがゴダールの新作を待ち望んでいます。『Adieu au Langage 3D』(英題:Goodbye to Language 3D)邦題『さらば、愛の言葉よ』はフランスではカンヌ国際映画祭の直後に公開され、アメリカでは先週公開されました。尚、日本では2015年1月に公開されます。 しかし、アメリカでの公開はかなり制限されたかたちで行われている。ゴダールの新作はカンヌ国際映画祭で正当に評価され、批評家からも様々な絶賛の声が上がり、その封切りはとても好調だったようです。「ニューヨークのふたつの映画館で上映され、たったの二日間で総利益は11,448ドルを上げ、その評判が次々に他の劇場との契約を結びつける」に及んでもいるが、ロサンゼルス・シカゴ・ボストンそしてワシントンなどアートマーケットの中心となる重要な大都市で公開されるに至っていないのが現状のようです。 Indiewireではふたつの原因が分析されています。ひとつめは、それがゴダールの映画だから、ということです。「彼の実験的な作品は、他の一般的な作品と同様に扱われない。」「実験的な映画が重大な欠陥となる」ことはアメリカの市場ではよくあることのようです。 今回、特に問題となるふたつめの理由はそうしたゴダールのいわば特殊な映画が3Dの映画である、という点です。「3D映画の主な市場とは異なり、ゴダール映画の核となるアートマーケットでは、映画館にデジタル技術のなかで最も高価な3Dの技術を取り入れるための理由がありません。結果として、そうした(主にインディペンデントな)アートマーケットの劇場では上映することが出来ないのです。」 また「近年での似たような3D作品、ヴィム・ヴェンダース監督の『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』は350万ドルの利益を上げました。しかし、それは興行主のIFCが様々な賞を宣伝として用いたためであり、しかもその主な収入源は昔からのファンの間で見られた2D上映によるのです。一方、ゴダールは正当に3Dのみで上映するべきだと主張しています。」 ロサンゼルスは二番目に重要な特殊なマーケットなのですが、上映のリクエストが殺到する状態が続いています。「ロサンゼルスには、他の主要都市と同様にゴダールを重視する映画愛好者がたくさんいます。そして彼の3Dによる新作は中でもとりわけ熱い注目を集めています。その特殊な技術のおかげで、この注目作を本来の形式で見ることができるのは映画館の観客にほぼ限られるでしょう。この事実は、ニューヨークと同様、この地でも劇場に大きな成功をもたらす可能性があると思います。」 3Dゴダールの公開は、このようにアメリカ市場に大きな、しかし複雑な影響を与えています。そして、恐らく日本でも何かしらの影響を与えることは間違いないです。これから、市場がどう動いていくかは分かりませんが、ゴダールの映画が映画作品の外で及ぼす影響について注目することは、重要となるはずです。 http://ift.tt/1uh1Qi0 http://ift.tt/1tIelC9 三浦 翔 横浜国立大学 人間文化課程 http://ift.tt/1ofDLiA

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2014年11月5日水曜日

美しい人工知能を描いた映画『EX MACHINA – エクス・マキナ』(2015)ビジュアル&予告編が公開

[World News #121] アレックス・ガーランド監督、『Ex Machina』の予告編公開  『ザ・ビーチ』(2000)や『28日後…』(2002)など、ダニー・ボイル監督作品の原作者として名高いアレックス・ガーランド。独創性の高い作品で読者と観客の心を惹き付けてきた彼がメガホンを取った初監督作品が、来年から全米で公開されることが報じられています。 今回はそのデビュー作である『エクス・マキナ(原題:Ex Machina)』の予告編とともに、鍵となる人物を演じるオスカー・アイザックのコメントをご紹介したいと思います。 (以下引用)  ドーナル・グリーソンは、彼がリラックスできるよい休暇を勝ち取ったと確信している。オスカー・アイザックにはまた違う考えがあるようだ。  『28日後…』や『サンシャイン2057』の原作者であるアレックス・ガーランドが、人工知能SFスリラーの『Ex Machina』で監督デビューを果たす。その初の予告編が、配給元のA24フィルムによって解禁された。(#1)  『Ex Machina』の主演は『スター・ウォーズ7』新キャストとしても知られるドーナル・グリーソンだ。彼は巨大IT企業に勤めるプログラマーであり、会社の(オスカー・アイザック演じる)CEOが所有する山奥の私有地で一週間を過ごせる権利つきのコンペティションで優勝する。続く展開は以下の通りだ。  「到着と同時に、カレブ(グリーソン)は、ネイサン(アイザック)から自分自身がネイサンの最新の人工知能実験におけるチューリングテストの、人間の構成要素の部分として選ばれたことを教えられる。カレブに任せられたのは、人工知能が種々の能力、そして究極的には「意識」を持つかどうかを評価すること―。そして、この実験の末誕生するのが(アリシア・ヴィキャンデル演じる)AVA、美しく目を見張るようなA.I.であった。彼女は、自身が二人の男の想像を超えて感情的知性を持つ洗練され―かつ人を欺きもする―存在であることを示していく。」  また別の記事では、人工知能の開発者を演じたオスカー・アイザックがこの作品を以下のように語っています。  「これはそう遠くない―実際にありえそうな、けれど不確定の―未来が舞台で、すべては家、少なくとも何らかの施設の中で起こる。私は億万長者のプログラマー役で、彼は世界一有名な検索エンジンのアルゴリズムを開発している。もう長い間、彼の姿を見たものや声を聞いたものはいない。そんな中、彼の従業員の内の一人が、アラスカにいる彼のもとへ行き、最新の発明を試す権利を勝ち取る。そこに待ち受けているのが、意識を持つかもしれない女性型ロボットとの出会いというわけだ。」アイザックはこう話す。「だからこれは、人間の経験にとってはとても寓話のような話で、君は自分自身の世界の見方や他人がそうする仕方について知ることは不可能だ。私たちはそれをお互いに表現しようと懸命に努力するけども、真に知ることは出来ない。だからこそ、とてもすばらしいんだよ。」(#2)  『Ex Machina』は、2015年4月10日に全米の劇場で公開される予定です。(#3)日本での公開は未定ですが、”trippy”(=トリップするような、幻覚を見るような)と謳われている予告編を見て、この作品の世界観に思いを馳せてみましょう。 早稲田大学文化構想学部4年 西山 晴菜 #1 http://ift.tt/1zuQdFj #2 http://ift.tt/1p3xqg7 #3 http://japa.la/?p=44372

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