2014年10月31日金曜日

[World News #119] 映画作家にとっての映画祭とは?  10月26日、東京はデジタルハリウッド大学において、東京国際映画祭の連携企画として、フィルム・ワークショップが開かれた。このワークショップでは、「シノプシス(あらすじ)コンテスト」が行われ、日本の映画作家、作田勇人が最優秀賞を獲得した。彼は、藤澤浩和監督の『砂を掴んで立ち上がれ』(2012)の脚本を務めている。今回は、「Virgin Mafia」という、どうにもヤクザになりきれないヤクザについての話だ。最優秀賞の賞品として、ハリウッド5日間の旅が贈られた。彼はこの5日間の旅で、たくさんのハリウッドの映画関係者と会うことになる。  また、もうひとりEriko Kyoso の「Exchange Mothers」は、2人の母親が人生に本当に求めることを探すために生活を交換するというもので、President’s Special Recognition Prize を受賞した。この賞の受賞をきっかけに、Kyosoは、12月にオーストラリアのブリスベンで行われるasia pacific screen awardsに参加し、また太平洋アジアから集まった映画作家たちとの会合にも出席するとのことだ。この二人は、どちらも映画祭がきっかけで世界に出ていくことができたのである。  「MPA(日本国際映画著作権協会)は、アジアの映画監督や映画人をつなぐための、重要な役割を担っています。そしてMPAは、今この会に参加している輝かしい才能をもつような映画監督個人個人に投資をしているわけではなくて、もっと国際的に開かれた、世界の映画産業の未来に対する投資なんだと思っています。」と、アカデミー賞受賞歴のあるプロデューサーで、今回このコンテストの審査員を務めたデヴィッド・パットナム氏は語っている。  映画祭やそれに付随するような国際的なイベントは、特に映画製作に携わる人にとっては、なかなか出会うことのない、国を越えた映画作家同士の出会いの場として、大きな意味をもつのだろう。今日取り上げたのは比較的小さなコンテストではあるが、ここで海外の人と出会い、さらに日本から出るきっかけを与えて、出会いがどんどん波及していくような、縮こまっていた個人個人のネットワークが開いていくことでいろんなものが生まれて一人ではできない色んなことが可能になっていくような、インディペンデント的に必要な仕組みだと私は思う。 則定彩香 横浜国立大 参考 http://ift.tt/1rL2X2H http://ift.tt/1p0QCfu 関連:大寺眞輔「World News#117 海外映画人と会おう」 http://ift.tt/1rGoQPZ



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2014年10月30日木曜日

特集:オーソン・ウェルズ - プラネットプラスワン - PlanetPlus1

[World News #118] オーソン・ウェルズについての2つの話題  今日は映画監督/俳優のオーソン・ウェルズについての記事を2つ紹介します。  オーソンウェルズの生涯とその製作活動を追った『Magician: The Astonishing Life and Work of Orson Welles』(『魔術師――オーソン・ウェルズの驚くべき人生とその作品』)(ChuckWorkman監督)が12月にロサンゼルスでプレミア公開されます。  作品はウェルズの生涯を忠実にドラマ化したもの。「1915-1941: The Boy Wonder」と題された第一章では、ウェルズの少年時代から20代までが描かれています。ウェルズの20代は――それはアメリカの大恐慌期とほぼ重なります――多くの事件で満ちています。初の舞台演出作品『マクベス』のヒットをはじめ、もちろん1938年10月30日の有名なエピソード――SF小説『宇宙戦争』のラジオ・ドラマバージョンを迫真の演技でこなしたウェルズの声に、リスナーは本当に火星人が攻めてきたと信じ込みパニックになった――も描かれています。※1  ウェルズ作品からの映像もふんだんに使われ、いかに彼が一作一作で自身のスタイルを向上させていったかを伝えるドキュメントとしても見ることができるようです。既に古典として名高いウェルズの生涯を描く本作はRKOをはじめとしたハリウッドの歴史とも関連して、アメリカ映画愛好者にとってきわめて関心度の高い、魅力的な作品なのではないでしょうか。スピルバーグ、スコセッシ、リンクレイターなどのインタビュー映像も作品には含まれているそうです。※2  2つ目の記事はウェルズの未完作品『The Other Side of the Wind(『風のあちら側』)』の話題です。Royal Road Entertainment社は4半世紀にわたる家族を含む権利保持者との交渉の末、とうとう本作を公開する権利を得ました。※3 ジョン・ヒューストンを主演に迎え、ハリウッド映画監督の映画製作を描いた本作は、同じく未完の『Don Quixote(ドン・キホーテ)』とともに、公開が待たれていた作品です。ウェルズの生誕100年にあたる来年2015年の公開が決定したと同社は発表しています。  本作を論じた著書を来年刊行するジョシュ・カープ(Josh Carp)氏は本作の公開は「オズ大陸、あるいは失われた墓標を見つけるほど」困難な状況だったといいます。※1 1985年に逝去したウェルズは、その最後の15年間の大半をこの作品に費やしました。彼の死後、権利関係のトラブルもあり、長らくフランスでお蔵入りになっていた本作の公開に尽力したのが、製作当時のプロデューサーもつとめていたフランク・マーシャル氏。スピルバーグのプロデューサーも経験した彼は、「これが最後のチャンスだ」と語り、「テクノロジーの利もあって、最終的な編集は滞り無く進めることができた」と語りました。(※3)  思えば、ここ数年ウェルズの特集はみなかったように思います(大阪ではこの夏特集がありました。※4) 生誕100周年の来年、東京でも特集上映がおこなわれることを期待します。 ※1 http://variety.com/2014/film/reviews/film-review-magician-the-astonishing-life-and-work-of-orson-welles-1201334973/ http://ift.tt/1FVy9pF ※2 http://moviepilot.com/posts/2014/10/27/stunning-trailer-for-orson-welles-documentary-is-an-oscar-contender-2384921?lt_source=external,manual ※3 http://ift.tt/1wKPTS1 ※4 http://www.planetplusone.com/special/post_191.php 文責:井上遊介(映画批評MIRAGE 編集委員)

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2014年10月28日火曜日

[World News #117] 海外映画人と会おう 今回は、いつものニュースとは少し趣きを変えて、エッセイ風に書いてみようと思います。そしてこれは、国内でインディペンデントに映画製作や上映などに関わる人たちをメイン読者として想定した文章です。勿論、それ以外の方を排除する訳ではありませんが、その前提を了解した上で読んでいただけると幸いです。 10月中旬、京都と大阪に行ってきました。直前にポルトガルの映画監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲス(彼の特集上映を2013年に私が日本で主催して以来の親しい友人関係です)(#1)からメールをもらい、いまフランスの若手映画監督で素晴らしい才能を持つダミアン・マニヴェル(#2)という人が日本にいるから会っておいた方がいいよ、と教えてもらったからです。 実は、海外の映画人も結構日本に来ています。自作の上映や映画祭ゲスト、海外映画祭のための作品セレクション、あるいはプライベートでの来日という形もしばしばあります。そして、彼らと話してみると、みな一様に日本の映画人と話したがっている。と言うことはつまり、わざわざ日本まで来てるのに、日本の映画人と交流する機会が彼らにはあまりないということです。ごく一部の同じ人たちばかりが、会って話したりすることになります。 しかし、それで良いのでしょうか?日本の映画人も国内や仲間内だけで自足していてはもう駄目だって、もはや明らかではないでしょうか。映画作家にとっては、自作を海外の観客に見せるチャンスとなるかも知れません。映画批評家にとっては、逆に取材するチャンスです。私は、もっと多くの国内映画人が海外の映画人とオープンに交流すべきだと考えています。私たちは、開かれるべきです。 とりわけ、大会社や公的機関に依存せずインディペンデントで活動する映画人にとって、これは死活問題でさえある。だって、お金の無い私たちの武器は、自分たちが作る作品、言葉、そして人間性や交友関係しかないのですから。そして、実のところ、映画の世界で何かを動かすのは、常にこうしたものだと私は考えています。私たちが思っている以上に、友達を作ることはこの世界でとても重要なのです。 海外の映画人と知り合いになるのに、海外に行く必要は必ずしもありません。いまでは、FacebookやTwitterなどがありますし、そこで知り合って個人的にメル友になる場合もあるでしょう。しかし、直接会って話す以上に友人関係を深める機会はやはりないと思います。さらに、マイクやカメラを間に挟んだ取材といった正式な場ではなく、プライベートな食事の席や飲み会では、メディア向けのパフォーマンスとは異なる、思いもかけない零れ話や映画への考えなどを聞くことができます。それは、とても楽しいものです。雑誌などに書くことはできなくても、絶対に私たちの生きる糧となります。 勿論、国内の映画人相手でもそれは同じことですが、生まれも育ちも背景とする文化も、見てきた映画も全く異なるような海外の映画人相手に話していて、思いもかけず映画観が一致したり、好きな映画が一緒だったとか、あるいは逆に新鮮な発想に驚かされたりとか、こうした体験は何にも変えがたいのではないかと私は思います。お金の問題ばかりに支配されがちなこの世界の中で、しかし、確かに映画の世界が存在すること、そしてそれが国境を越えて拡がっていることを感じることができます。 ダミアンは、これまで短編を数本、そして処女長編をこの7月に完成させたばかりの新人監督です。しかし、彼はそれらによって既にジャン・ヴィゴ賞やカンヌ国際映画祭批評家週間での賞、そしてロカルノ国際映画祭でスペシャル・メンションを受けています。いや、それ以上に、連絡を取って実際に作品を見せてもらったところ、これが本当に素晴らしかった。個人的には、もうずっと長い間見ることのなかった新たな才能であり大きな発見だと思いました。ものすごく輝きのある作品を作る監督さんだと思います。だからこそ、スケジュールを無理矢理空けて関西まで彼に会いに行ったのです。 ダミアンとは二日間一緒に過ごし、京都や大阪に住む映画人を紹介したり映画館を一緒に見に行ったりしました。彼にとっても過去最長だったという2時間のロング・インタビューもさせてもらいました。そして、今度は東京に来ることを決めたダミアン(彼は人混みが嫌いで、あまりこちらには来たがらなかったのです)と、今日このあとまた会ってくる予定です。 もちろん、海外の映画人と交流するには語学も必要です。とは言え、多少英語が喋れればそれで十分。映画という共通言語、共通の話題があり、映画についての自分の意見や考えがある。それは相手にとっても興味深いものなのですから。だから、自分の殻に閉じこもらず、仲間内で自足することを良しとせず、自分たちもまた相手への興味を持ち、それを言葉として相手に伝え、少しの勇気を持ってこうした交流の場所へと足を踏み出してみること。国境を越えた友人関係を作ろうと努力すること。それだけで、私たちの世界は大きく変わると私は思います。 そう。話は簡単。後は、実践してみるだけです。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://dotdashfilm.com/ #2 http://ift.tt/1oSEPzS

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2014年10月23日木曜日

Between the Lines: Inception

[World News #115]『インセプション』をシュルレアリスム的に見る いま、ある動画が話題になっています。 http://ift.tt/1omjeiW Brows Held Highというオンライン動画シリーズの中で『インセプション』(クリストファー・ノーラン,2010)を分析して見せる映像が公開されました。単体の作品分析を飛び超えて映画史あるいは美術史の中から関係を見出す分析は、映画とシュルレアリスムの関係を明らかにするだけでなく、『インセプション』という作品そのものの批評にもなっています。全く違う作品を結びつけることは一見奇怪にも見えますが、驚くほど映像同士がマッチすることも少なくないです。 『インセプション』という映画が他人の頭の中に入っていく映画、意識や無意識が題材になっているからではなく、映像が似ているというところから分析されます。ポイントはシュルレアリスムの考え方で、意識から忘れられた無意識の部分を露わにすることで、超現実に迫ることです。ブルトンの「シュルレアリスム宣言」の引用から始まり、『007』『パプリカ』からコクトーそして『カメラを持った男』のジガ・ヴェルトフまで遡ることで、映画を多層的に見ることを可能にします。いわゆる最新技術を用いてリアリティを映画に与えていようと、もっと複雑に映画が組み立てられていることを明らかにします。ヴェルトフの手法と現代のCGによる映像が何らかの相関関係を持つことは、フィルムとデジタルという問いを超えて我々のイメージの問題にも関わってきます。また、ラストの映画内の役を映画製作の役職に置き換えて、映画についての映画だ、という解釈やアイロニカルな決め文句も面白いです。 この映像は、先週公開されネットで話題になり、Indiewire誌でも取り上げられました。10分ほどの短い動画ですので是非、チェックしてみてはいかがでしょうか。 http://ift.tt/12f6iRK 三浦翔 http://ift.tt/1ofDLiA

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2014年10月22日水曜日

[World News #114] Politicalな映画はSocialへ イランでは2009年に勃発した反体制運動Green Movement以降、表現者と政府の間で緊張関係が続いています。特に政府の厳しいチェックの対象となっているのが、映画監督です。それは、映画が多くの人に素早く伝わる手段であり、他のメディアや表現媒体と比較して国民への影響力が大きいからでしょう。なかでも、反体制活動のため20年間の映画制作が禁止されたジャファール・パナヒ監督そして、その後の彼の映画による反抗作品『これは映画ではない』(http://ift.tt/1s7HkbW そして今回、新たに政府の的となっているのが前回もご紹介した第71回ヴェネツィア国際映画祭脚本賞を受賞した『Tales』です。(http://ift.tt/1w8XEkg Banietemadは、イラン映画界における女性監督の地位を確立させたパイオニアです。 今回この映画が政府の批判の的となっている要素をいくつかあげる事が出来ます。 1)インデペンデント映画であること 1979年の革命後のイラン映画は長きに渡り政府の管轄下そして政府の資金で制作されてきました。しかし近年、政府が制作する作品と国民のニーズに大きなギャップが生じ国民の映画離れが危ぶまれてきました。そこで急速的に成長しているのが政府に属さないインデペンデント映画です。それらは、イランでは珍しかった企業からの協賛や時には関係者のポケットマネーでその資金は補われています。そして何より重要なメリットは、政府の意向を直接的に受けないで制作、そして外国の映画祭に出品できる事です。今回『Tales』もインデペンデント映画プロダクションであるIran Novin Filmによる作品であること、さらには政府の反対を無視するかたちで第71回ヴェネツィア国際映画祭に出品そして脚本賞受賞という要素が政府の反感をかう一つの重要な要素であると思われます。 2)2009年の反体制運動後の日常を描く 監督のRakhshan Banietemadはいつも、多くの一般の人々との会話を通して作品のストーリーを考えます。そして今回の映画『Tales』の制作に先駆けて彼女は反体制運動後の人々との会話を通して彼らの日常を抽出し作品を完成させました。ですから監督の作品はいつもイラン国民の生な声が聞こえてくるのです。彼女は忠実に現在の国民、現政権に反発しそしてその戦いに敗れた国民の本音を描いているのです。そして、この要素がイラン政府にとって一番の問題なのです。 イラン政府は国民の映画離れを食い止めるためにもヴェネツィア国際映画祭で受賞を果たした『Tales』を国内で上映したいが、政治的なメッセージのある映画が国民を刺激しかねないことへの懸念をがあります。そしてイラン政府は、映画の政治的側面を社会問題に書き換えてイラン国内で上映しようとしています。 いまなお、イランでは映画への政府の介入が露骨に行われています。しかしそれは、1979年のイラン・イスラム革命後イランの現政権が革命後の国民を統制するためにプロパガンダ映画を起用しその影響力を知っているからゆえにの事なのでしょう。例えば革命直後に現イラン政権が起用したプロパガンダ映画監督には日本でも著名なモフセン・マフマルバフ監督もいました。しかし現在、国民のニーズと政府が制作する作品とのギャップから生じている国民の映画離れを解決するためには、インデペンデント映画プロダクションに頼るしか方法がないようです。その時、政府の意向と制作者との間の同意点をどこに求めるのか、どこまでの自由を制作者に与えるのかまた制作者が自由を獲得していくのか、今後のイラン映画の運命を左右するように思えます。また、こういった不自由な環境のなかイラン映画監督のイラン離れも相次いでいます。キアロスタミ監督やマフマルバフ監督のイラン離れから始まり『別離』で一躍有名になったアスガー・ファルハディ監督の最新作『ある過去の行方』がフランスで制作された事などから、イラン国内における制作活動の限界を目の当たりにします。 Sources: 記事(ペルシャ語):http://ift.tt/1s7HmR0 http://ift.tt/1w8XEkk Iran Novin Film: http://ift.tt/1s7Hkc2 『これは映画ではない』:http://ift.tt/1mOmRNN 『Tales』:http://ift.tt/1tg8rnr 『別離』:http://www.betsuri.com/ 『ある過去の行方』:http://ift.tt/1bpD5ox By Sevin アートな中東 http://ift.tt/1xsdDv7



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2014年10月21日火曜日

The Ethics of Documentary FIlmmaking

[World News #113] 近年、『アクトオブキリング』のオッペンハイマー監督がヴェネチア映画祭で審査員賞を受賞するなど、ドキュメンタリー映画が好調です。しかし、ドキュメンタリー映画には、どこまで被写体のプライベートに近づくべきなのか、という問題が常につきまといます。この問題について、Indiewireに、ドキュメンタリーを撮る際の心構えを、実例に基づいて示す記事が掲載されました。 以下、引用。 撮るか撮らないか?対象にどれぐらい接近すべきか、また離れるべきか? こうした疑問は、真実を記録するときにドキュメンタリー作家が自らに問いかけねばならない疑問です。被写体と監督との境界線は、越えられたり、またあらかじめ決められていたり、また監督と観客の間で境界線がどこにあるかの意見が一致しないこともあります。 映画監督のゴードン・クインは彼のドキュメンタリー映画『Hoop Dreams』の20周年記念の際に、ドキュメンタリーを撮る際の倫理についてプレゼンをしました。Indiewireは、クインや他のドキュメンタリー映画監督と彼らが倫理的に曖昧な境界線をどう定めているか、という問題について取材しました。 クインによると「ドキュメンタリーの監督は、彼らの作品に影響を与えうる倫理上の問題や疑いについての感覚を持つ必要がある」とのことです。これはジャーナリズムとはまた違ったもので、単純に、ドキュメンタリーの監督は対象にともすれば数年間接近することになるので、個人的に彼らの生活に深く関わりすぎることになるからです。「ドキュメンタリー作家は倫理に対する責任を持つべきです」クインは続けます。「映画監督は、観客に真実を伝える義務や、作品を発表する際正確を期す必要があります」。 彼は以前撮った映画で、ある被写体の女性に「もうこれ以上映画に関わりたくない」と言われたことがありました。彼はチームのメンバーと、被写体の女性とミーティングを開き、一般公開の前に、彼女に映画を見せることにする、と決めました。 「完成前に映画を観ていただきます。この映画にあなたが必要であること、この映画が社会に良い影響を及ぼすこと、そしてあなたがどれだけ映画の中で重要な位置を占めているかをお話します。それでも、あなたを説得できなければ、あなたを映画に出さないことにします」とクインは彼女を説得しました。 ジェームズ・キーチとトレヴァー・アルバートは有名人に焦点を合わせることで知られていますが、アルツハイマーと闘うミュージシャンを追ったドキュメンタリー映画、『Glen Campbell: I'll Be Me』を製作するにあたって、いくつかの制限を設けました。 「撮りたくないものなどありませんが、線引きをどこに設定するかが監督の才能であると考えています。私たちは、常にグレンの尊厳を守り、同時に病気の確実な進行から目を背けないようにすることを選択しました」とキーチは語ります。 「そうなると、次に『どこまで被写体に踏み込んでいいのか?』という疑問が生まれてきます。最初、どのような方向性にすればよいか分からなかったときに、私たちにアルツハイマーを患っている被写体についての疑問が生まれました。私たちはアルツハイマーがどのぐらい深刻に、どのぐらい早く進行するのかが判らず、私たちは自分達がそのことを追い始めていることに気がつきました。最終的に、私たちは、彼の家族と子供が何を望んでいるのかをさらなる制限として設ける必要があると判断しました。」 『Mugshot』の監督、デニス・モールは、被写体の多くが既に生存していないという難問に直面しました。 『Mugshot』では、犯罪者の顔写真の文化的な重要性が説かれ、古い顔写真が芸術品として考えられうるかどうかについて触れられています。誰もが想像しうるように、この映画製作の中で倫理的な問題が浮かび上がってきました。 「少年をレイプした犯罪者や、凶悪な殺人犯といった下劣な犯罪者を見ることに耐えられるか?という問題が浮かび上がってきました」とモールは語ります。 しかしながら、映画の中で、顔写真のコレクターを見つけ出し、彼らと話したときに、彼らのほとんどは、そうした犯罪者の顔写真を排して展示を行っていました。「そうした犯罪者の顔写真は彼らの望むものではありませんでした。私たちは、そのコレクションの中に凶悪犯罪者の顔写真もあることを隠す必要がありました」とモールは続けました。 それでは、被写体が自らを守ることも、映画を手助けすることも出来ないとき何が起こるでしょうか?それが、ヘンリー・コーラの、19歳にして亡くなったシネフィルの女性を追ったドキュメンタリー映画、『Farewell to Hollywood』で起きたことです。 コーラは映画祭で被写体のニコルソンに会い、彼女の病死の前の映画製作を手助けすることを約束しました。Indiewireは、以前の批評で、「課題は、誠実さだ。最終的に、断片的な要素が、ニコルソンの意図と監督の間のズレを生み、それが倫理的な問題につながっているのではないか。死者から遠いところにいる者の挑発や、生きている監督の、死者への優越となってしまっていないだろうか?」と述べました。 コーラは確実にそうした疑念に気づいていました。「私たちはセックスをしていません、いいですね?」彼は映画のプレミアで、自発的にそう述べました。 コーラは、映画が出品されたホットスプリング・ドキュメンタリー映画祭には出席しませんでしたが、メールでいくつかの質問に答えました。彼は、その映画を被写体と監督の間の、そして芸術と人生の間の境界線が崩壊するような、被写体と監督の共同の努力、すなわち「生きている映画」と呼ぶことを強調しました。 コーラはニコルソンとの肉体的な接触を否定しましたが、クインは、「彼が釈明しなければならなかったこと自体が、コーラが疑わしい行為に及んだかもしれない可能性を示唆している」と述べました。彼は、『Farewell to Hollywood』を観てはいませんが、映画監督と被写体は時々不道徳な関係になったり、監督が道徳的に宜しくない判断を下したりすることを強調しました。 ドキュメンタリーの監督は自らのルールを持ち、打ち立てられた境界を維持し、その境界を越えないように被写体ともども尽力しなくてはなりません。彼らは、作品が撮られるべきであったかどうか疑問に思ったり、倫理的ではないと考えたりする観客が必ずいることを認めなくてはなりません。 文責:近藤多聞 http://ift.tt/1Cz1zp9

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2014年10月19日日曜日



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[World News #112] Boyhoodの次はGirlhood? 昨年公開され、日本でも11月に公開されることが決まっている、リチャードリンクレイター監督の新作『6才のボクが、大人になるまで(原題:boyhood)』は、各地で高い評価を得ている。これに対して、こう言う人がいる。「ボーイフッドは良かったけど、ガールフッドはどうなの?」 それも、ボーイフッドに続き、ガールフッド的映画がごく近い時期にお披露目されたのである。今年のNew York Film Festivalでは、アーシア・アルジェントの『Misunderstood (原題: Incompresa)』、それからアリーチェ・ロルヴァケル『The Wonder(原題: Le Meraviglie)』という2本のイタリア人女性による映画が出品された。この2本はまさに、思春期か大人になりたての少女たちの成長を描いており、非常に魅力的な、まさにガールフッド的映画である。 アーシア・アルジェントの『Misunderstood』は、彼女が女優から映画監督になって3本目の長編。アルジェントはこの作品を「この作品は伝記的ではないが、子ども一般を現実的なものとして扱った妄想の産物で、むしろこれはフィクションなのだ」と主張しており、混とんとしたパンク・ロック・ミュージックとクレヨンパレットで彼女の作家性が刻み込まれている。この作品はどこか控えめで、長尺の作品ではないし、入念に作りこまれているということもないが、圧倒的とも堪えがたいともいえる姉妹の感情の描写が上手く、よくまとめられている。 もう一本の「The Wonder」カンヌでグランプリを獲得した。アリーチェ・ロルヴァケルの3本目の作品で、養蜂家に生まれた少女の家族との関係がどっしりと描かれている。それまで外から影響を受け、閉ざされていた彼女の世界が開かれていくのが、リアルに描写されている。派手な展開はないが、静かで考察のしがいのある作品である。 言うまでもなく、女性の視点が中核をなす作品は明らかに不足している。前述の2本の映画は映画祭に出品されたけれど、未だメインの賞レースに入ることは多くない。そこには多くのハードルが存在するが、足りないのは女性の視点や女性監督のオリジナリティを論じるということなのではないか。女性が映画を撮ることができないのは、ジェンダーに支配されているという理由だけではない。女性中心の視点で描かれた良質の映画が、われわれ観客の側から、もっと熱烈に求められるべきなのではないか。 則定彩香 http://ift.tt/1qUoTYP Misunderstood trailer http://ift.tt/1vP82xv The Wonder trailer http://ift.tt/1vP80Wp

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2014年10月16日木曜日

[World News #111] アダム・サンドラーの現在地 10月2日、オンラインDVDレンタル及び映像ストリーミング配信事業を行う最大手の会社Netflixが、アダム・サンドラー主演・プロデュースの4本の新作映画を製作し、独占配信することを発表しました。 アダム・サンドラーの近年の主演作はほぼDVDスルー、Netflixも事業展開していない日本の片隅に暮らす私たちにとっては「ふーん」で片づけてしまいそうになるニュースかもしれませんが、アメリカや欧州では大手通信社や新聞社もこぞって報道、翌日以降も複数のメディアで関連記事が続々出てきています。「Forbes」では経済アナリストがこの契約の肝はどこにあって、Netflixがどれだけの収益を見込めるかなどを分析(#1)、「The Guardian」には「アダム・サンドラーの後、Netflixの次なるニッチ(隙間市場)は?」と題されたNetflixの次の事業展開を予測する記事が掲載され(#2)、「Variety」はアダム・サンドラーが長年ファーストルック(優先交渉権)契約を結んでいるソニー・ピクチャーズとの提携がどうなるかに触れています(#3)。私が見た限り特に力を入れていたのが「Hollywood Reporter」で、3日付でNetflixのコンテンツ総責任者テッド・サランドス氏のインタヴューを掲載(#4)、7日にはワーナー・ブラザーズとサンドラーの製作会社ハッピーマディソンとの間で進められていた西部劇の企画“The Ridiculous Six”が白紙に戻ったことを、「彼がNetflixのために4本の映画を製作するという契約はハリウッドのスタジオを苦境に立たせている」という小見出しとともに報じました(#5)。 それらの記事に目を通していて意外だったのは、このアダム・サンドラーの決断をとても重大な契約、驚くべき出来事として受け取る論調が予想以上に多かったことです。たとえば「それ(Netflixとの契約)は長い間ハリウッドのスタジオシステム――家ではなくまず劇場で映画を上映することが前提としてあったシステム――の住人だったサンドラーにとって大きな変動だ」といった記述(#6)、それに類する意見がいくつかの記事で見られました。それも、今年5月に公開されたドリュー・バリモアとの三度の共演作“Blended”を含むアダム・サンドラーの近年の主演作の興行収入が低調にあることを踏まえた上で、です。現在Netflixの会員数は5000万人超(アメリカでは3500万人超)だといいますから、もっと当然の流れとして受け取る向きもあるかと思っていましたが、やはり彼はそれだけの影響力を持つ俳優であり、製作者であるということでしょうか。 Netflixのサランドス氏はサンドラーの作品をこう評価しています。「彼の映画は何度も繰り返し観られています。そしてアダムは最新作の“Blended”に至るまで立て続けに成功を収めてきました。あの映画は約4000万ドル(約42億円)のコストで全世界で1億4000万ドル(約148億円)の収益を上げています。そんな結果をのどから手が出るほど欲しがっている人がどれだけいるか。(中略)彼には私たちと一緒に成長していくようなところがあります。観客は彼が馬鹿な高校生から馬鹿な父親になっていくのを見て自分自身を見つめ直すのです」(#4) 果たしてサランドス氏の見込む通り、アダム・サンドラーはNetflixでも成功を収めることができるのか――。その答えは実際にNetflixで新作が配信されるまで待つことにして、最後にサンドラーの作品について書かれた興味深い批評を紹介したいと思います。それはコメディ作品の情報に特化した「SPLIT SIDER」というWEBサイトで1カ月前、つまりNetflixがサンドラーとの契約を発表する2週間前に公開された、「アダム・サンドラーの映画を監督するってどういうこと?」というタイトルの記事です(#7)。 ここではサンドラーが自身の会社ハッピーマディソンで製作してきた20本を超えるフィルモグラフィーについて、サンドラーが監督としてクレジットされた作品が1本もないにも関わらず、そのイメージや雰囲気に一貫性があり、「なんだかハッピーマディソンがサンドラーのキャリアを連続もののテレビ番組のように動かしていて、雇われた監督はその一貫性を維持するために招かれているように思えてならない」という視点から論じられています。その後の展開をざっと要約すると、サンドラーの作品には彼が演じる主人公を中心とした周りの登場人物の配置やその関係性にある定型があり、デニス・デューガンやフランク・コラチなど度々彼と組んでいる監督はその定型を踏まえ、作品を重ねるごとに彼の演じるキャラクターを育てているが、彼らのもとではサンドラーは俳優として何の挑戦もしていない。一方、ポール・トーマス・アンダーソンの『パンチドランク・ラブ』やジャド・アパトーの『素敵な人生の終わり方』ではサンドラーのキャラクターは事前に予見できず、彼の不安定かつ内省的な部分がむき出しにされている、といったことが書かれていきます。筆者のブラッド・ベッカー=パートンさんが結局、前者と後者どちらのアダム・サンドラーを観たいと思っているかは、今更記すまでもないでしょう。そして、Netflixがアダム・サンドラーと共に作る作品がどちらになる可能性が高いかも…… 黒岩幹子 ※某スポーツ新聞の会社に勤務しつつ、 boidマガジン(http://ift.tt/1yFL90E nobody(http://ift.tt/1yFL6BO #1 http://ift.tt/YY5A9b #2 http://ift.tt/Z0acft #3 http://ift.tt/1q4ZUk4 #4 http://ift.tt/ZAXeFZ #5 http://ift.tt/1vQL2ue #6 http://ift.tt/1rxs263 #7 http://ift.tt/1ueoC5m

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2014年10月15日水曜日

Melissa Anderson on Laura Poitras’s Citizenfour

[World News #110] ニューヨーク映画祭でエドワード・スノーデンを追った『Citizenfour』 が公開。  先日、今年度のノーベル平和賞にパキスタンのマララ・ユスフザイさん(17)が選出されたことが話題になりましたが、発表の数日前にGuardian誌の受賞者予想の記事(※1)ではエドワード・スノーデン氏が上位にランクインされていました。受賞には至らなかったものの、今年度のニューヨーク映画祭では彼の姿を記録したドキュメンタリー映画 『Citizenfour』が、10日金曜日に公開されました。本作はスノーデンがNSA(アメリカ国家安全保障局)の国民監視のシステムを暴露するまでの経緯と彼への香港でのインタビューを軸に展開しています。監督はローラ・ポイトラス(Laura Poitras)氏。これまでにも、バングラデシュの医師の活動を追った『My Country, My Country』(2006)がアカデミー賞のドキュメンタリー部門にノミネートされていますが、おそらく日本での知名度は非常に低い作家です。  スノーデン氏については日本でもある程度はすでによく知られていることと思います。2004年、彼は23歳にしてイラク戦争への兵役を志願し合衆国軍に入隊するも、同年訓練中の怪我が原因で除隊し、その後NSAにスカウトされ、関連企業の職務に従事しています。2006年から数年はCIA(中央情報局)の職員としても勤務し、20代にして国家の機密に極めて近い位置で働いていました。彼のキャリアをこうして概観するだけでも、アメリカの軍事産業のシステムがいかに我々の想像を超えるものであるか、呆然としてしまうのですが、その後スノーデンがとった行動は彼の名前を一躍世界に知らしめることとなりました。「内部告発者」( “Whistle Blower”)としての彼の名を。  本作品の要となっているのは、2013年6月に香港のホテルで記録された、スノーデン氏がNSAの機密書類をカメラの前に提示する場面でしょう。これが、監督とスノーデン氏との初の接見でもありました。興味深いのは接見の前に、氏は監督に「私の話は物語にはならないと思う」と述べていることです。(※2)  ロサンジェルス・タイムズ誌はこの作品を、ウォーターゲート事件を扱った『大統領の陰謀』(アラン・パクラ、1976)やAaron Swartz 監督の『The Internet’s Own Boy』(2014)に連なる作品だと評価しています。(※2)また、Artforum誌は本作がスノーデン氏の「繊細さ(あるいは「弱さ」)」("Vulnerability")を記録し、彼の知られざる、より人間的な側面をカメラに収めていることを評価しています(※3)。実際本作には、現在のモスクワでの彼の生活や、ガールフレンドの姿も収められているようです。(※2)  ポイトラス監督は今後も別のかたちで、ジャーナリストとして、この歴史的な事件に向き合い続けていくつもりだと表明しています。(※2) ニューヨーク映画祭でのQ&Aはこのサイトで見ることができます。 http://ift.tt/1qU1INf 本作の予告編はこのサイトに掲載されています。 http://ift.tt/1suYDcf  日本公開が待たれる作品のひとつです。 ※ 1 Guardian http://ift.tt/1s95p7i ※ 2 Los Angels Times http://ift.tt/1qHKuTe ※ 3 Art Forum http://ift.tt/1xKhwbg

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2014年10月11日土曜日

Les Inrocks - Xavier Dolan : "Je fais des films pour me venger"

[World News #108] グザヴィエ・ドラン、 新作"Mommy"の公開記念インタビューとティーチイン  20歳の頃に撮った処女作、『マイ・マザー』のカンヌ映画祭・第41回監督週間での鮮烈なデビューから既にはや5年。毎年に1本のペースで撮り続け、ついに今年のカンヌに選出された"Mommy"でゴダールの"Adieu au Langage"と共に審査員賞に輝いたドラン。近年の若手映画作家の中でも珍しいほど彼の作品は批評家、そして大衆からも大きな支持を得ており、「ケベックの神童」、「美しく、若き天才」というキャッチ・コピーと共に称される彼はなぜここまで多くの人々を熱狂させるのか。フランスでは今月の8日に"Mommy"が公開され、かなりの盛り上がりを見せており、今回の公開を記念して行われたインタビューとティーチインなどから、彼の映画に対するヴィジョンや姿勢を見ていこうと思う。 "Mommy"予告編 http://ift.tt/1yBkort - 君は自分の数々の成功を、批評家受けや大衆受けとに分類していたりするだろうか? グザヴィエ・ドラン(以下XD):全部同じくらいの重要性があるよ。だけど全く異なるものだね:批評には役目があって、大衆には欲求がある。楽しんで、感動するっていう。二つのコミュニティは全く別物なんだ。映画が双方に気に入られてほしいとは思うものだけど、それはごく稀にしか訪れない。もしかすると以前、僕は映画を生業とする人たちの後押しが自分には必要だと思って、批評的な支えを少し望んでいた節があったかもしれない。だけどその考えは自由に仕事をする妨げになるから止めたよ。今では、大衆に対してもっと気を使うようになった。自分の映画が上手くいってほしいんだ。僕は単に映画を自分の母親や父親、そしてごく少数の人たちだけに向けて作る気はないよ。分かってくれるかい?僕はただ、依然マイノリティーな、シネフィルのコミュニティだけに向けて作りたくはないんだ。*(1) - その欲求は君を大衆映画へと導いていくと思うかい? XD:そうだね。僕は大衆性が欲しいし、"Mommy"は明らかにそういう方向性だと思う。この映画は慣用的な物語の図式を守っているし、とてもアメリカ的だ。それにこの映画はアメリカン・ドリームについての作品だと言えるだろうしね。僕は大衆性に大きなはずみをつけたかった。そのうえ商業的にも。感動させ、希望を与え、大衆を活気づかせ、気に入られるために考案されたシーンによってね。扇動的な映画だって言ってるわけじゃないけど、ある意味ではそういう風にも考えられていたんだ。シネフィル的な方法からではなくて、大衆的な方法、つまりポップな方法で。もちろん自分の中に残っているシネフィル的なものはあって、そういった無意識な癖や、ある種の反応を防ぐことができずに、映画を少し知性的なものにしてしまっているかもしれない。だけど、この映画は僕の作品の中でも、最も自然で、シンプルかつ効率的だと思うんだ。*(1) また、ティーチインでは以下のようなことを語っている。 「自分の映画に対する批評はすべて読んでいるよ。人々が見ているものを見ることは知らなければならない。映画は単に自分や、母親と父親のために作るものじゃないのだから。映画は人々に見てもらうために作るんだ。もし、自分たちには白く見えているときにみんなには黒く見えていて、自分たちには少なく見えているときに、みんなには多すぎるように見えているのは、非常に興味深いものなんだ。」*(2)  こうしたドランのインタビューやティーチインにおける彼の発言には、些か誤解を招くような表現も見当たるが、それはあくまで質問に対して誠実に答えようとしているからであり、また彼の着飾らない言い回しによるものだと思われる。たまにインタビューなどで、まるで受け手を意識しているかのような、あらかじめ用意された発言といったものを感じさせることもあるが、ドランのインタビューは非常に即興的な印象を受ける。また、そうした即興的な発言のせいで、批判や誹謗中傷の攻撃対象となる場合も多いようだ。しかし、これらの発言のなかで伺うことができる彼の発想や考えは、常に自分の感覚や感情の上に基いている。そんな彼にとって映画とは具体的にどういったものなのか。 「ピナ・バウシュは「踊れ、踊れ、自分を見失わないように」と言った。僕にとっては「音楽を聞け、音楽を聞け、自分を見失わないように」なんだ。それは表現する術じゃなくて、生きるための術だ。僕の人生は音楽的で、映画もそうあるべきだ。映画とは、僕にとって楽譜のようなもので、会話やシーン、そして感情的な身震いは音符なんだ。」*(2)  彼の作品では多種多様な音楽によって、彩られており、音楽の使い方も彼の作品における大きな魅力の1つとなっている。そしてドランは音楽に限らず、映画の中にファッションや写真、そして音楽といった異なる様々な要素を混ぜ合わせて、独自の世界観を構築している。彼は良い意味でも、悪い意味でも、映画の考え方だけに囚われない姿勢を持って、独自の表現方法を見つけようとしているようだ。既存の考えに囚われず、自分の感覚や感情で映画の壁を、枠をやぶろうとする意気込みを感じさせる、グザヴィエ・ドラン。来年に向けて映画だけでなく、ドラマの企画もあるという彼は*(3)、一体今後どこへ向かっていくのだろうか。 「映画は、僕が愛するものであり、僕に活力を与え、夢中にさせる。自分が映画を作っていく工程の中で、1つでも手を抜くようなことは想像できない。だから学ぶ必要がある。良い疑問を持つこと。人々がどのように映画を見て、批判し、そして感じ取るのか。でも、それらの思惑は超える必要がある。」 楠 大史 参考資料: http://ift.tt/1tgNUy0 *(1) http://ift.tt/1EGZKKA *(2) http://ift.tt/1wgAEw8 *(3) http://ift.tt/1q91CRB

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2014年10月9日木曜日

Interview: David Fincher | FilmComment

[World News #108]デヴィッド・ フィンチャー監督インタビュー デヴィット・フィンチャー監督の最新作『ゴーン・ガール』、日本での公開が12月12日(金)に迫りました。以前、同監督のインタビューは取り上げられました(注)が、今回はfilmcomment誌に掲載された彼へのインタビューを紹介します。彼が、ど のように自身の映画製作を捉えているのか、以下内容に入ります。 原作の『ゴーン・ガール』(ギリア ン・フリン)を映画化したのか、という質問に対して「本というのは、多くの内容を持ちます。その中から映画化したい部分を選ばなければなりません」また「 原作と適切な関係を築くことのできた作品は多くありません。交響曲からポップスを作りさせる人は限られています。私はいつも書き手を喜ばせたいと考えています。それは原作者ばかりでなく、脚色した人も合わせてです。 (…)映画の語りは、それだけ早く進みま す。ですから、その分それを視覚化する必要があります、そのことは大体語りが少々大胆になることを意味するのですが」というように彼は本から脚本という映像化に正当なプロセスを踏んでいることが確認できます。 「原作をそのまま映画化することは出来ませんから、脚本家とともに内容を削り詰めていきます。そして、いったん豊かな意味合いを持つ結論に達すると、全ての役に人を割り振っていきます。そして、スカイプで全員に繋ぎ脚本を読み通します。これはとても面白くて、全て小さな画面での出来事でしかないのに、俳優がどういう人であるか、お互いをどう意識しているか、またどういった経歴を持つ人であるかが分かるのです。そして私は全てを記録 します。それは、まるで小さなハリ ウッドであるかのようです。」これまでにそうしたことはしましたか、という質問に対して「はじめての経験です。ですが、得るものはたくさんありました。シナリオの改訂も進みました。そして、3~4週間のリハーサルを経て10ページから15ページを削ることが出来ました。こうしたプロセスが終わりに近づくにつれて、私たちは第三幕に集中しました。そして全体のテーマが本来あるべきものに近づいていったのです。そしてミズーリに向かい6週間ほど撮影を行い、ロサンゼルスに戻り残り10週間撮影をしました」 映画のトーンが暗いという話が上がっていますが、それに対してどう思うか、という質問に対して「 クルーの中には私たちが『危険な情事』を作ってると思ってる人もいました。」それは違う、という記者に対して「しかし、テレビスポットが同じような仕事をしているのです。トレーラーは見ましたか?何も見せずに、観客を寄せ集める映画の正しい側 面を売り出しているように見えませんでしたか。6カ月もかかった取引で私 は、エイミー(ロザムンド・パイク)の過去に当たる4巻目の部分は宣伝で使えないようにしました。何故なら、もしそうしてしまったら映画が壊れてしまうからです。映画はなにかを発見しに行くものです。というのは、役者が見たことも無いような姿を見に行くのであるし、想像も出来ないような状 況にいる彼らを見に行くのです。何故 なら、自分がそのような状況にいることを想像できないからです。私たちはそうした発見への感覚が、映画を見るときには必要なのです」 デヴィット・フィンチャー監督は、映画の暗い雰囲気などが問題ではなく、明確なヴィジョンを持って仕事をして いることが分かります。ただし、そのヴィジョンとは入念な話し合いを経 て、洗練化されたものです。そのために、スカイプで会議をするというのは、興味深いところでもあります。 インタビュー元記事 http://ift.tt/1DJXq54 注 http://ift.tt/1CXm3Kh 『ゴーン・ガール』日本公式サイト http://ift.tt/1mf0xwt 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA

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2014年10月8日水曜日



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[World News #107] 第27回東京国際映画祭と中東映画 今年も10月23日(木)から10月31日(金)の9日間、東京国際映画祭が開催されます。開催に先駆けて今回は、見逃してしまった!!という事態を防ぐために一先ず中東地域の注目映画をざっくりとお知らせします!気になった作品がありましたら是非足をお運びくださいませ。 ★『セルフ・メイド』イスラエル 10/29 20:25- 10/30 16:00- http://ift.tt/1vUp9u1 http://ift.tt/10Pk5xD イスラエル人女性とパレスチナ人女性が暮らす場所がひょんな行き違いで入れ替わってしまうストーリー。本作監督のShira Geffenは『ジェリーフィッシュ』で2007年にカンヌ映画祭新人監督賞を受賞しています。 今年のイスラエル映画祭ではオープニングで上映された『セルフ・メイド』。監督にとって映画製作の重要な要素となっているのが、おとぎ話。前作『ジェリーフィッシュ』に続き、本作も現実と監督の妄想の世界を行き来するファンタジー溢れる作品です。しかし、このファンタジーが仇となりなかなか理解を得る事ができず、制作資金調達に苦労したと監督はインタビューで語っています。 また監督は、第三の鍵となるキャラクターはイスラエルとパレスチナの国境でミスを犯してしまうイスラエル少年兵士であると語りました。監督は一ヶ月間、イスラエルの女性平和運動団体と共に、イスラエルとパレスチナを隔てる壁をを管理するイスラエル軍の“チェックポイント”の問題、そしてイスラエルの徴兵制度問題に関する抗議活動に参加し、この経験が本作品の少年兵士を作り上げるにあたって大きな影響を与えたと語りました。 以前からInside Indie Tokyoでイスラエルとパレスチナを巡る映画を度々ご紹介してきました。それら多くの映画で鍵となるのが、“壁”ではないでしょうか?“壁”がなければ、本当は分かり合える両者、しかし物理的な壁が長い歴史を経て心理的な壁になってしまい人々を盲目にしてしまっているように感じます。 http://ift.tt/10Pk5xD ★『遺灰の顔』クルディスタン=イラク 10/25 18:25- 10/28 20:40- http://ift.tt/1vUp9u4 http://ift.tt/10Pk5xF イラン・イラク戦争中(1980〜1988)、戦死した息子だと思って開いた棺の中が違う人だった。一体この人は誰?そして自分の息子は? イランとイラクの国境の悲劇が国境から離れた小さな村で引き起こした大きな悲劇。Shakhawan監督の初長編作品となる『遺灰の顔』は戦争の日常と非日常、庶民と国家をコミカルにテンポ良く描かれています。 本作は、クルド人監督によるイラン・イラク戦争中のクルド系の小さな村の物語です。この時期のこの地域と言うと、思い出す事件があります。それは“ハラブジャ事件”です。イラン側にクルド人が協力したと疑ったサッダム・フセイン政権が化学兵器を使用してクルド系地域であるハラブジャに住む一般市民を殺害したのです。現在でも独立を求めている彼ら。こういった背景を知ると、『遺灰の顔』のユーモアの裏に隠されたクルド人の想いを感じる事ができるのではないでしょうか。 http://ift.tt/10Pk5xF ★『ゼロ地帯の子どもたち』イラン 10/29 10:30- 10/30 20:20- http://ift.tt/1vUp9Kr 国と国の間、つまり国境は、両国にとってゼロの地点なのでしょう。そして、そこに安らぎを求めて暮らす孤独な少年の物語。アミールフセイン・アシュガリ監督の初長編作品です。 孤独な少年映画といったら、アミール・ナデリ監督の『駆ける少年』(http://ift.tt/10Pk394 )を思い出します。 [World News #066] http://ift.tt/1vUp9KB ★『メルボルン』イラン 10/25 10:50- 10/30 18:10- 10/31 18:30- http://ift.tt/10Pk5xO こちらは、アスガー・ファルハディ監督の作品『別離』と『ある過去の記憶』で注目を集めたペイマン・モアディが主演です。『別離』ではイランから外国に移住することを拒む夫、『ある過去の記憶』ではフランスで暮らしていたがイランに戻った男、そして本作では、家族と“メルボルン”に移住するために荷造りをしている夫。 1979年に勃発した革命後、イランから外国に移住する人は少なくありません。革命直後に移住をした人々は革命前の暮らしを守る為に外国での生活を選ぶ人が多かったのでしょう、しかし、近年、革命後のイランしかしらない若い世代の移住が増加しています。それは、2009年の緑の革命(Green Movement)以降、加速しているように思えます。若者によるイランイスラム政権離れです。本作を通してイランの政府と市民の間に大きく横たわるギャップを目撃出来るのではないでしょうか。 ★『ナバット』アゼルバイジャン 10/24 11:15- 10/28 21:15- 10/30 14:00- http://ift.tt/1vUp9KE “最初に脚本を読んだとき、とても気に入りました。だってこの映画は戦争についての映画ではなくて、平和についての映画だからです”と語ったのは主演のイランを代表する女優ファテメ・モタメダリア。小さな村で夫と牛乳を売って暮らす女性Nabatは、やがて夫が亡くなり一人静かに戦場の息子を思いながら暮らす。戦争がもたらす小さな村での大きな悲劇を詩的に描いています。 Elchin Musaoglu監督自身、ソビエト連邦軍として2年間戦争を体験しています。監督は映画を通して母の愛と強さを描いたと語っています。 Sources: 『セルフ・メイド』: http://ift.tt/1vUp9u1 http://ift.tt/1vUp8Gt 『遺灰の顔』: http://ift.tt/1vUp9u4 『ゼロ地帯の子どもたち』: http://ift.tt/1vUp9Kr 『メルボルン』 http://ift.tt/10Pk5xO 『ナバット』: http://ift.tt/1vUp9KE by Sevin 中東現代アートの研究・ペルシャ文学の翻訳をしています。http://ift.tt/1mNyGBb 中東現代アートのキュレーションページ: http://ift.tt/1vUpa11

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2014年10月2日木曜日



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[World News #105] エマ・ワトソンの国連演説と匿名掲示板 インターネットに代表される現在の情報社会は、宣伝や戦略や偽造や悪意に溢れ、何が真実で何が正義であるか判断するのが極めて困難です。どんなに豊かな個人的経験に裏打ちされた心からの叫びであったにせよ、それがネットに情報として掲載された瞬間、全く逆の立場から反論されたり、揚げ足を取られたり、あるいはその「真実の言葉」がいかに虚偽のものであるか激しく糾弾されたりと、こうした終わりのないオセロゲームに巻き込まれてしまうのを避けることができません。 先日から話題となっていたエマ・ワトソンの国連演説に関連した話題もまた、残念ながら一部でこうした問題を典型的に示すものとなりました。 ワトソンは、国連の女性機関UN Women親善大使として、9月21日、男女平等と性差別の撤廃をアピールする演説をニューヨークの国連本部で行いました。これは、女性が女性のために闘うことを訴えるものではなく、男性もまた性差別に基づく固定観念に縛られており、男女ともに手を携えて人間性の解放を実現していかなくてはならないと主張するものであり、「VanityFair」誌で「ゲーム・チェンジャー」とも称されたように多くの賞賛を集めるものとなりました(#1)。 さらにワトソンは同機関と手を組み、「He for She」と名付けられた活動も立ち上げています(#2)。FacebookやTwitterなどを通じた連帯と共闘の署名運動(ハッシュタグは#HeForShe)も行われており、それによると、「ジェンダーの平等は女性だけの問題ではない。それは人権問題であり、私自身のコミットメントが必要となるものだ。私は、女性や少女に対して行われるあらゆる暴力と差別に反対して立ち上がる」という宣言への同意が男女に対して等しく求められています。これに対し、マット・デイモンやキーファー・サザーランド、ジョゼフ・ゴードン=レヴィット、アントニオ・バンデラス、サイモン・ペッグら数多くの著名人が賛同を示したことも話題となりました(#3)。 しかし、一方でワトソンに対する反感や憎悪の言葉もまたインターネットを中心に氾濫する事態となっています。とりわけ、「若い白人男性」がユーザー中心層と言われ、日常的に「ポルノとレイシズム、セクシズムに満ちあふれている」(#4)といわれるアメリカの「4chan」(さらにその中の「/b/」と呼ばれるランダム掲示板)がこうした騒動の発火点ともなっているのです。英米圏では珍しい匿名掲示板である「4chan」は、その名前から連想されるように、日本の匿名掲示板「2ちゃんねる」(より厳密には「ふたば☆ちゃんねる」)から影響を受けて2003年に創設されたものであり、ネットに於ける言論の自由の功罪両面を典型的に示した場所として有名になりました。 「4chan」から立ち上がった匿名集団「アノニマス」の「ハックティビズム」運動は、WikiLeaksやアラブの春とも連携し、巨大な権力に個人が抵抗する一つの可能性を示したと言えるでしょう。しかし一方で、「若い白人男性」というマジョリティに属する人々のあられもない本音や差別意識、人種偏見が日常的に噴出する場所としても知られ、国家や企業による中央集権的権力の抑圧とは異なる、新たな時代の新たなファシズムの温床であるという指摘も数多く為されています。 さらに、今回のワトソン演説に関連した騒動では、演説への報復として彼女のヌード写真を流出させるというサイトが立ち上げられ、大きな騒動となりました。しかし、これは後にジェニファー・ローレンスらセレブたちのヌード写真流出騒動(#5)を引き起こした「4chan」閉鎖を求める企業(政府や映画会社からの委託を受けたと称している)による巧妙なPR活動であったことが明らかとなっています(#6)。 匿名掲示板を中心とした差別と偏見に基づく暴力に抗議しようと拳を振りかざしたジャーナリストたちは、思わぬ形でばつの悪い思いをさせられたと言えるでしょう。このPR会社の本来の意図がいかなるものであったとは言え、それはむしろ逆効果にしかならなかった。つまり、高度に情報化が進み、あらゆる発言や議論がもはやネタとしてしか受け止めることが難しい社会の中で、「正義の側について悪と闘うこと」がいかに困難であるか、この一連の騒動は図らずも明らかにしてしまったと言えるのです。 「正義」を意気阻喪させるこうした混沌と曖昧さに基づくシニシズムは、しかし、マジョリティによる「本音主義」や「反知性主義」への開き直りを肯定することにしかつながりません。男女の格差が依然として大きい社会の中で、セクシャル・マイノリティへの差別や人種偏見が相変わらず横行する現状を批判するのは、そんなに難しいことであってはいけない筈なのです。間違っていることに対しては、間違っていると主張されるべきであり、気軽に行動へと結びつけられるべきだと思います。エマ・ワトソンの演説からはじまり、多くの映画俳優や著名人へと拡がって行った#HeForShe運動が、そうしたきっかけの一つとなることを願います。 一方、現在ネットでは、エマ・ワトソンの国連演説に感動して書かれたという15歳の少年の手紙もまた話題となっています。その中で、彼は次のように書いています。 「ジェンダーの平等やフェミニズムとは、男性への憎悪や女性の優越を示すものではありません。それは、その定義からして全く正反対のものなのです。フェミニズムとは、性別に関わらず人間の社会的、政治的、経済的な平等を信じることであり、それは本当にとてもシンプルな話なのです。もしあなたがこれを信じるのであれば、あなたは既にフェミニストなのです。」(#7) 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://ift.tt/1uW05DO #2 http://ift.tt/1ik4BsE #3 http://ift.tt/YdkLeT #4 http://ift.tt/1vd5khm #5 http://ift.tt/1lvHf5h #6 http://ift.tt/YzqyLo #7 http://ift.tt/1nszzCc

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[World News #104] カムデン国際映画祭が9月末に開催  今回はカムデン国際映画祭についての記事を紹介します。カムデン国際映画祭は2005年にニューイングランド地域のドキュメンタリー映画の文化に光を当てることを目的として創始された映画祭です。第1回には世界中から22組の作家が作品を出品しましたが、参加者の中にはローリング・ストーンズのドキュメンタリー(”GImme Shelter,” 1970)で知られるメイスルズ兄弟も含まれていました。  現在までに上映された作品は数百にのぼり、また近年ではQ&Aセッションや作品出品者とのコミュニケーションの機会の拡充、さらにライブパフォーマンスの開催などを通して、来訪者の体験の充実に重きを置くことも主眼とされています 。 HBO、BBC、American Public Televisionなど、産業を担う団体の代表者たちから作家たちが作品へのフィードバックを受けることができる機会として、ワークショップなどの形式でディスカッションの場を設ける試みも行なわれています。また、講義形式でのドキュメンタリーの座学、実践的な撮影の授業もこれらと平行して行なわれています。  映画祭のHP#1によれば、こうした映画祭に作家と観客が「集まる」ことによってドキュメンタリーに限らない文化の発展に貢献していきたいということです。山形ドキュメンタリー映画祭やチェコのイフラヴァドキュメンタリー映画祭に規模としては適わないものの、今後の展開がおおいに期待される映画祭のひとつではないでしょうか。  2014年度は9月25日から28日にかけて開催され、大賞にはロンドンを拠点とするOrlando Von Einsiedel監督の東コンゴの国立公園を撮影した作品 ”Virunga”(『ヴィルランガ』)#2 が選出されました。審査員特別賞を授与したのは、J. P. Sniadecki監督の”The Irony Mistery” という作品で、ニューヨーク映画祭のプレミアにも出品されています。他の受賞作は次のサイトで見ることができます。→http://ift.tt/1xBZieL...  また、カムデン映画祭で開催されているドキュメンタリーの講座で講師をつとめるMarshall Curry氏が自身のドキュメンタリー撮影の哲学を解説した記事はこちら。→http://ift.tt/1v5GYG3...  映画産業においてインターネット、データベース重視の傾向が進む一方で、作品を上映するに留まらない映画祭の意義について考えることがますます求められているように感じます。もちろん、それらと作品の質や意義が平行して語られていくのが理想です。これから大規模、小規模を問わず海外の映画祭を訪れた方々の日本語でのレポートなどが今よりさらに公開されて、広く共有されていくことを望んでいます。 文責:井上遊介(映画批評MIRAGE編集員) #1 http://ift.tt/1xBZgDI #2 http://ift.tt/1v5GZd2

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2014年10月1日水曜日

Quentin Tarantino is Shooting The Hateful Eight in Colorado This December - IGN

[World News #103] タランティーノ、新作映画撮影再開 「この数年間、大作映画はいくつかあったが、これは『勇気ある追跡』以来の大作だ、なぜならコロラドで、」フィルム・コミッショナーのドナルド・ザッカーマンは続けます。「西部劇で、タランティーノだからだ」(#1) クエンティン・タランティーノの新作西部劇『The Hateful eight』が12月から撮影を再開します。本作品は、今年の1月、脚本流出問題から撮影を中止していましたが、ユタ州やワイオミング州の誘致を抑えてコロラド州が500万ドルの融資を決定したことなどから、撮影再開が実現しました。 ネットメディア「ゴーカー」を通じて、ネット上に脚本が流出してからは企画の進行は断続的でしたが、4月に行われた公開本読みの評判が良かったことなどから、この度公式に撮影再開がアナウンスされました。 この話は、南北戦争後のワイオミング州を舞台としており、吹雪で立ち往生した駅馬車に乗り合わせた賞金稼ぎと、南部同盟のごろつきの間で次第に緊張が高まっていくという、どことなく彼の処女作『レザボア・ドッグス』を思わせるプロットとなっています。出演俳優として『デス・プルーフinグラインドハウス』で怪演したカート・ラッセル、『パルプ・フィクション』『ジャンゴ 繋がれざる者』などタランティーノ映画にはお馴染みサミュエル・L・ジャクソンなどが候補に挙げられていると噂されており、2015年秋の公開を予定しているそうです。 映画のデジタル化を「映画の死」と一蹴し、フィルムをこよなく愛するタランティーノ監督は、本作品を65mmフィルムで撮影します。ワインステイン社はすでに「20年間で最も大規模な70mm映画になる」と発表しており(#2)、(近年だと70mmフィルムで公開された映画はポール・トーマス・アンダーソン監督の『ザ・マスター』などごく一部に限られる)脚本以外のテクニカルな面にも期待が高まります。 文責:近藤多聞 #1 http://ift.tt/1Bt1eUr #2 http://ift.tt/1CqLjJt http://ift.tt/1xur2Sp

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