2014年7月30日水曜日



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[World News #067] 2014年6月26日ワルシャワで、ポーランドの伝説的映画監督イェジー・スコリモフスキの新作映画『11 Minutes』の撮影が開始されました。(1) イェジー・スコリモフスキといえば長らく「知る人ぞ知る」存在でしたが、長い沈黙を破り2008年にメガホンをとった『アンナと過ごした4日間』で映画界へのカムバックを果たしました。2008年の東京国際映画祭以後、毎年来日しており、近年の日本では、スコリモフスキ映画は熱狂的な支持を受けています。 スコリモフスキ映画は、簡潔ながら強烈な映像と予想を裏切る独創的なストーリーが特徴です。 『アンナと過ごした4日間』は、サスペンス映画と恋愛映画を混淆させた不思議な作品、ヴィンセント・ギャロ主演『エッセンシャル・キリング』は、監督いわく「『ランボー』とタルコフスキーをミックスさせた映画」でした。 現在のところ、『11 Minutes』については、そのタイトルとシリアスなスリラーであるということしか伝わってきていませんが、昨年末の来日の時にスコリモフスキと話をした人によると、本作においても、極めて芸術的野心に満ちた挑戦が行われているそう。 そんなスコリモフスキ監督の、特集上映「『亡命』作家43年の軌跡」が、8月16日(土)よりシネマート新宿で行われます。(2) 前述の『アンナと過ごした4日間』『エッセンシャル・キリング』とともに、初期の青春映画の傑作『出発』(1968)、異色ホラー『ザ・シャウト』(1978)、ポーランドの戒厳令をテーマにした寓話『ムーンライティング』(1982)が上映されるとのこと。 この中で『ムーンライティング』はおそらく日本では初めてスクリーンにかかる作品であり、私見を述べるならば、これこそ現時点でのスコリモフスキの最高傑作でしょう。 ポーランドの民主化運動が盛り上がった1981年の12月に突如として戒厳令が布告され、当時ロンドンに居を構えていたスコリモフスキは異郷の地から祖国の動乱を描くことを決意します。ジェレミー・アイアインズ扮するポーランドの不法労働者たちのドラマで、極めて深刻で痛切な映画ですが、同時に、実はかなり笑えるシーンも盛り込まれています。 76歳にしてなお先鋭的な作品を世に送り続ける映画作家、スコリモフスキ。その新作を心待ちにしつつ、まずは8月の特集上映で盛り上がりまし ょう! 蜂谷智子 編集者・ライター Facebook( http://ift.tt/1nGCiFL ) (1)http://ift.tt/1lb2dB3 http://ift.tt/1uEW7T4 (2)http://ift.tt/1lb2dB5

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2014年7月29日火曜日

[World News #066] ★イラン 平和と友好の映画祭★ 8月9日(土曜日) 上映作品&QA 『報われた沈黙』17:45-19:20 『季節の記憶』19:30-20:45



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[World News #066] ★イラン 平和と友好の映画祭★ 1979年2月、ホメイニー率いるイスラム教法学者と国民によるイラン革命が勃発しました。革命間もないイランが直面したのは、1980年9月22日から1988年8月20日まで8年間続いたイランイラク戦争でした。 そしていまだに落ち着きを見せないイラン国内外情勢ですが、近年のイラン国際問題といったら原子力発電所問題を思い浮かべる方は多いのではないでしょうか。イラン南西部郊外ブーシェフルに位置するブーシェフル原子力発電所はイラン革命前パフラヴィー政権により1974年にドイツ企業シーメンスの協力で建設が進みましたが、革命後の現在、ロシア政府の協力のもと建設が行われています。 ここではイランの原子力発電所問題に関しては深入りせずに、ブーシェフルそして原子力発電所周辺が舞台の日本未公開イラン映画を紹介します。 エッサン・アブディープール監督による2014年最新作『独りぼっち』はブーシェフル原子力発電所周辺の村に住む現地の少年とロシア人の少年の友情とその背景で刻々と変化する政治的状況が描かれています。現地の少年は家庭を支えるため魚を売って生活をしている一方で、ロシアの少年は比較的裕福で恵まれた生活を送っています。この二人の少年が、ブーシェフルが抱える貧富の差そして文化差を見事に表していると共に、大人が忘れてしまったロマンによってつながった少年の友情は、大人が立ち戻らなければならない本質を教えてくれます。 “国連の目の前に駄菓子屋を開くんだ、”プレジデント”って名前のね。お得な値段で駄菓子を売るんだ、そしたら大統領たちは喜んで僕から買うよ。・・・もし世界中の大統領が僕たちと一緒に三日間過ごしたら、、、、熱いなか氷売りをしたら、30年前の戦争の傷を負った僕たちをみたら、、、、雨漏りに困る僕たちの家を見たら、もう彼らは爆弾で僕たちの屋根に穴を空けることはないよね”(ブーシェフルの少年のセリフ一部) 『独りぼっち』は、8月8日(Fri.)イラン大使館主催の“イラン 平和と友好の映画祭”にて上映されます。映画祭は金曜日と土曜日(8月8日・9日)二日間に渡り開催され、他にも日本未公開作品が4作上映されます。また全5作品の内4作品の監督そして1作品の主演俳優が来日、登壇されますのでこの貴重な機会、お時間のあるかたは是非ご参加ください。 5作品全て、近年制作された比較的新しい作品ですが、多くがイランイラク戦争の兵士やその家族を描いた作品です。革命から35年経った現在も革命そして戦争の記憶が忘れられることはないのでしょう。中東情勢が刻々と悪化する中、戦争そして平和について考える良い機会ではないでしょうか。 『独りぼっち』をご覧になる前に、イラン革命直後公開のアミール・ナデリ監督『駆ける少年』をご覧になることをお勧めします。 『駆ける少年』は1970年代初頭のイラン南部郊外に住む孤児が生活のために靴磨きや水売りを通して直面する外国人との貧富・文化差、そして少年の成長への奮闘を描いてます。『駆ける少年』そして『独りぼっち』を通して、革命前後で変わらないイラン国民が抱える根本的な問題とは何であるのか気づかされる様に思います。 ★日本では西島秀俊さん主演映画『CUT』で知られるアミール・ナデリ監督ですが、また西島・ナデリコンビで新作を撮る予定があるそうです! “イラン 平和と友好の映画祭”参加ご希望の方はcultural@iranembassyjp.orgにメールしてください。 スケジュールに関しては写真を参照してください。 参加費は、無料です。 開催場所:東京都港区赤坂区民ホール 『独りぼっち』:http://ift.tt/1l8GB8v ※URLはペルシャ語による本編です。 『駆ける少年』:http://ift.tt/1oDIIWw by Sevin 中東現代アート情報発信ページ: http://ift.tt/1l8GB8z

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2014年7月28日月曜日



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【World News #065】 リチャード・リンクレイター「Boyhood」 7月11日、リチャード・リンクレイターの新作、「Boyhood(邦題未定)」がアメリカで公開されました。実に美しく、映画的に傑作であり、そしていままで観たことのないような、注目すべき作品だと高く評価されています。とりわけ注目されるのはその撮影方法。少年の6歳から18歳までを描いたこの作品では、なんと役者たちが「本当に成長している」のです。 撮影期間は12年間。この作品は、2002年から2013年までの12年間、一貫して同じ登場人物を使って撮影されました。主人公Masonには Ellar Coltrane、姉の Samantha にはリチャード・リンクレイターの娘、Lorelei Linklater を起用。2002年に6歳だったColtraneは、撮影終了時には18歳になりました。実際と同じ年齢の設定で撮影されています。彼らはまさに、観客の目の前で成長していくのです。 また、この映画を取り巻く背景においても、音楽、技術、ポップカルチャー、ファッションまで、時代考証なんかするまでもなく、すべて「その時」のものです。この映画は12年間を詰め込んだタイムカプセルであると言えます。 この映画が、彼らが生きたその時間の記録、そしてその当時の雰囲気の記録である、その時その時の現在を映している、という点ではまさに記録映像、ドキュメンタリーであると言いたい。なのに、それは紛れもなく映画である、という点で非常に新しいのです。 この映画は、断章の形式になっています。その間隔は1日だったり、数日だったり、もっとずっと長く、直前とは全く違う状況にジャンプすることもあります。それは、プロの撮ったホームビデオ12年分のハイライトのようにも思えます。 いつも見ている映画とは時間の流れ方が違うので、変な、不快な感じがするかもしれない。しかし考えてみれば私たちの記憶とはまさに、この映画のように非常に断片的で、覚えていることをくっつけたものなのではないでしょうか。この映画は現在の連続であり、記憶です。記憶を映像化するならば、必然的にこの形式になるでしょう。 この作品は、2014年のサンダンス映画祭で初めて上映されました。変わった撮り方をしているということばかりに注目が集まってしまって、実験映画だと色眼鏡でみられるのでは、と制作側は危惧していたのですが、そんな心配も上映後には必要なかったことがわかりました。家族というものが、どう作られて、どう変わっていくかという描写の細やかさが評価され、受け入れられたのです。既に公開されたアメリカや欧米各地でとても高く評価され、盛り上がりを見せています。 2時間40分の上映時間も気にならない、むしろ、終わってほしくない。見た人はそう思うと言いますが、果たしてこの物語は本当に終わってしまうのでしょうか。リンクレイターの『ビフォア・サンライズ』(1995)、『ビフォア・サンセット』(2004)、『ビフォア・ミッドナイト』(2013)のBeforeシリーズのように、もう少し年齢を重ねた彼らがまたスクリーンに戻ってきてくれることを、私たちは期待せざるを得ません。 日本での公開は未定ですが、この評判からして期待していて良いのでは。待ちきれない人は、外国に飛ぶか、Beforeシリーズを復習しながら待ちましょう。 則定彩香 http://ift.tt/1ozAcYA 参考 http://ift.tt/1puWbfQ http://ift.tt/LxlxNa Boyhood 公式HP http://ift.tt/VAnPkk

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2014年7月25日金曜日



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[World News #064] ポール・トーマス・アンダーソン&トマス・ピンチョン『LAヴァイス』  監督ポール・トーマス・アンダーソンがトマス・ピンチョンの原作に挑んだ『LAヴァイス』(原題はInherent Viceで、「内在する欠陥」や「生まれつきのワル」といった意味)が、今年のニューヨーク・フィルム・フェスティバル(NYFF)でワールド・プレミア上映されることになった。NYFFでは、他にデヴィッド・フィンチャー『Gone Girl』プレミア上映も決まっており、今年最も期待されているアメリカ映画2本を独占する形となった。『LAヴァイス』の上映は10月4日であり、フェスティバル自体は9月26日から10月12日まで続く。(#1)  『マグノリア』『パンチドランク・ラブ』『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』『ザ・マスター』などで知られるアンダーソンは、映画評論家から評価の高いアーティスティックで作家性の強い監督でありながら、同時に比較的大規模な予算で作品を撮る自由をハリウッドにおいて獲得している。新作が発表されるごとに、どの映画祭でプレミア上映されるか争奪戦が話題となり、すでにカンヌ、ヴェネチア、ベルリンという世界三大映画祭全ての監督賞に輝いている。ただし、本国アカデミー賞ではむしろこれまで正当に評価されていないと言える。極端な秘密主義者としても知られ、製作中の作品情報などは殆ど外部に漏れないが、『LAヴァイス』について現在までのところ確認された情報を以下にまとめておこう。  小説『LAヴァイス』の作者は、トマス・ピンチョンである。現代アメリカ文学を代表する偉大なる小説家であり、自らの素性を殆ど明かさない覆面作家としても知られている。このため、別の有名作家の変名ではないかと疑われたこともしばしばあった。2009年に発表されたこのピンチョンの長編第6作は、『重力の虹』の作家にしては比較的読みやすいことで知られている。1970年前後のカリフォルニアを舞台とし、チャールズ・マンソン事件やマリファナ文化を背景としている。主人公であるポットヘッド(マリファナ常用者)の探偵スポーテッロが元恋人の訪問を受けるところから物語は始まる。彼女から個人的な調査を依頼された探偵は、やがてその背後にある大きな陰謀に巻き込まれていくというもの。映画ファンであれば、アンダーソンが敬愛するロバート・アルトマン『ロング・グッドバイ』を想起するだろう。ピンチョンは、自作の映画化をこれまで認めてこなかったが、今回はそれを許したばかりか、噂ではアンダーソンによる映画化を喜んでいると伝えられている。さらに噂では、アンダーソンはピンチョンと直接会って映画化の件を話したとも言われている。(#2)  アンダーソンは数年に渡って『LAヴァイス』の脚色を進めてきた。2012年に行われたインタビューで、彼はこう述べている。(#3) 「一番難しいのは、400ページもある偉大な小説を110か120ページのスクリプトにするってことなんだ。どの段落にも、どのページにも偉大なものが詰まってる。こんな恵まれた悩みもないけどね。」 「僕はずっとピンチョンのファンだった。彼の小説は僕にとってまさにダイナマイトなんだ。すごく影響を受けてる。彼の本にはユーモアや狂ったもの、そして思慮深さがいっぱいだ。下らないジョークや奇妙なセックスと同様に、人間らしさや繊細さが一緒くたに投げ込まれてるんだ。」  『LAヴァイス』の音楽を担当するのは、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッド。アンダーソン作品を担当するのはこれで三作連続となる。撮影は『ハードエイト』から『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』までアンダーソンと組んだロバート・エルスウィットが再び担当している。主人公の探偵に扮するのは『マスター』に続いての出演となるホアキン・フェニックス。製作開始前には、ロバート・ダウニー・Jrが強くこの役を望んでいたことでも知られている。(#4)共演は、ジョシュ・ブローリン、オーウェン・ウィルソン、リーズ・ウィザースプーン、ベニチオ・デル・トロなど。ウィザースプーンの役は、当初シャリーズ・セロンが想定されていたようだ。  主要キャストの一人ジョシュ・ブローリンは、『LAヴァイス』の撮影をこう振り返っている。(#5) 「ポール・トーマス・アンダーソンと仕事するってのは、まったく特別な体験なんだ。(ある場面を演出していて)よし、ここはこうやってみよう、いや、この台詞は囁くべきかな?やっぱり全体を一気に撮ってみようか?いや、その男を肩にもたせかけて、それで全部やり直してみるか?とか、そんなのばかり。現場のあらゆる場所に顔を出してくるんだ。もう毎日が完全にクソったれなカオスだったよ。良い意味でね。だって、何か仕事してるんだって気になるじゃないか。でも、それがどういう作品になるか。楽しみにしていよう。」 大寺眞輔 http://blog.ecri.biz/ http://ift.tt/1knGQPv http://ift.tt/NSy3rx #1 http://ift.tt/1k17JLA #2 http://ift.tt/RdD48n #3 http://ift.tt/1t306XB #4 http://ift.tt/1mMdWWh #5 http://ift.tt/1t306XF

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2014年7月24日木曜日

Here's How They Brought 'A Hard Day's Night' Back to Life

[World News #062]『A Hard Day’s Night』復刻  50年の時を経てビートルズの映画『A Hard Day’s Night』がアメリカで最新のデジタル技術により5.1chサラウンド、オリジナルの1.75:1サイズで復元された。アメリカの100の街で劇場公開したのち、DVDとBlu-Rayでリリースされる。この作品は、フランスのヌーウ゛ェル・ウ゛ァーグに影響を受けて、リチャード・レスター監督によりビートルズの姿をドキュメンタリー風に撮影された。多くの大ヒットナンバーをフューチャリングしたこの映画は、ミュージックビデオの走りにもなっている。  デジタルリマスター復刻版はDCPによってのみ可能なのが現状である。従来のフィルムによるリリースでは、120もの映画館で一斉に上映することは出来なかった。膨大なお金のかかる白と黒のフィルムで上映をするには、莫大な資金がかかる。現実には、上映は何世代にも渡る複数のコピーで行われており、それらは必ずしも良い状態ではなかった。だが、現在ではオリジナルネガを4Kスキャンすることが出来る。その技術ではオリジナルのネガから写し取るときに一切歪みなどを生じさせない。このことによって、映画が受け取る価値のある鮮明なものへとなるのである。こうしたデジタル技術の目指すところは、オリジナルに如何に近づけるかということである。そのために複数の素材からベストの状態の部分を抜き出すことが出来る。ただし、そのときの作業は困難が付きまとう。機械では、汚れやフィルムの痛みを眼の光などと判別出来ないため、オートで処理してしまうと映像の乱れを間を補うことによりソフトでスムーズなものにするということしか出来ないのだ。  映画というメディアは生き生きとしているが故に、ビートルズの活力あふれる日常を捉えたフィルムは力に溢れている。そして、この映画は驚くほど素早く撮られた。このことは、映画の撮られ方が如何に自由であるかを現す。映画は物事を調和させるわけではない、むしろそれは断片的であり、不連続なものである。が、そうであるがゆえに映画はビートルズのエネルギーを捉え、文字通りに映像と音を現前させることが出来る。この『A Hard Day’s Night』で面白いのは、ジョンがいなくて画面には三人しか映っていないのにジョンをそこに感じるときである。それは、監督がジョンの靴を履いてビートルズのメンバーと一緒に走り回ることで生みだしたジョンの視点である。我々は、そうした視点からある親密さを感じるのだ。  海外情報サイトIndieWireのPaura Bernsteinは、上記のようなことを述べている。私自身が付け加えて置くべきは、復刻のことを考えるなら尚更フィルムの重要性が高まってくるということである。DCPといえども、結局はフィルムからスキャンするものである限り、もとのフィルムが失われては元も子もない。フィルムが腐敗しやすいと言うならば、尚更フィルムを保護せねばならない。何故なら、デジタルリマスターによる復刻という試みは『これから』行われることであり、いまはまだ多くの発見されるべきフィルムが残っている現状だからである。綺麗な映像がいいから『デジタル』なのではなく、綺麗な映像が良いから『フィルム』が大切ということを強調しておきたい。そして、DCPにより、現実的に可能なより広範囲の映画体験が出来ることとなることを私は願う。 http://ift.tt/1zIMWkx 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA

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2014年7月22日火曜日

VidCon

[World News #062] みなさん、こんにちは!仕事の合間の息抜きにと、Youtubeで好きな猫の動画から動画へ飛んでいるうちに、気づけばすっかり10分経ち、20分経ち、30分経ち・・・、ハッとしては眼前の締め切りに頭を抱えて、落ち込んでいるコキマ・ダエウです。 今日は、Youtube上にアップされているビデオの作り手たちとそのファンたちの世界をのぞいてみたいと思います。そこには、Youtubeスターの輝きだけでなく、ビデオ・ブロガー、Vloggerたちの、映像制作と観客を結びつける新しい技術の可能性にかける情熱があります。 マルチ・ジャンルのオンライン・ビデオの世界では最大規模のVidConの本年度大会が、先月26~28日、カルフォルニアで、行われました。クリエーターと十代を含む多くのファンが詰めかけた大会の熱気に満ちた様子を、FILMMAKERに連載中のLance Weilerの最新記事が紹介しています。 VidConは、YouYoutube上のビデオ・ブログチャンネルの先駆的存在、VlogBrothersを始めたジョンとハンクのグリーン兄弟を中心に2010年に立ち上げられ、今年で5回目を迎えました。 ジョンとハンクが週に二回、それぞれ火曜日と金曜日にビデオを更新している教育チャンネルは “オタク戦士(nerdfighters)” と呼ばれるティーン(ヤング・アダルト)世代の支持を受けています。歴史や文学、そして生物学に心理学など多岐に亘って行われる彼らの講義は、ポップなアニメーションもクールだし、好きなことを好きに語る “オタク” で “ヤング・アダルト” な心を忘れないジョンとハンクは、周りの大人とはちょっと違う。自分たちが生きている世界について、自分たちと同じ言語で話していて、学校の先生みたいに偉そうじゃないし、話は面白くって長くないー彼らはジョンとハンクの講義をお金を払うことなく、Youtubeを開くだけでいつでも受けることができます。 親が介在しなくても、教育と子どもをつなげることができる意味は重大です。なんらかの理由で学校に行けない子どもたちの教育へのアクセスを可能にすることもできるでしょう。また、VlogBrotersでは、ジョンとハンクの講義チャンネルの他にも、さまざまなチャンネルがあります。十代の子どもたちが親や教師には直接聞きにくいこと、性やいじめの問題なども扱っています。十代の多感な時期に親や学校以外で、世界のこと、自分の身体のこと、人間関係について、より自分たちに身近な言語で様々な意見に触れることのできるスペース、nerdfighteriaに自分の居場所を見つける子どもたちもいます。 Weilerの記事でも指摘されているように、Youtubeなどの映像制作、作品公開では評価は再生回数や購読者数で測れますが、観客から直接、お金を集めるシステムがありません。寄附の機能が普及し始めていますが、それもあくまでも任意によるもので、収入は原則、広告料によるものが中心です。しかし、とりわけ教育という領域では、この仕組みこそ意味を持つと言えるかもしれません。 社会におけるテクノロジーの可能性から、映像制作のビジネスのこれからを考えてみたいです。 (記事:コキマ・ダエウ) VidCon公式サイト:http://vidcon.com/ VidCon Youtubeチャンネル:http://ift.tt/1rwYPrv VlogBrothers Youtubeチャンネル:http://ift.tt/11yNGHA Lance Weiler, Culture Hacker:Bridgeing the gap between stroytelling and thechnology, Youtube, We’re Watching You: http://ift.tt/1rwYPrx...

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2014年7月19日土曜日



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[World News #061]23年振りの新作を発表したホドロフスキー、次回作はアクション映画『フアン・ソロ』! 1970年代に発表した『エル・トポ』、『ホーリー・マウンテン』で一世を風靡し、“カルト的映画の開祖”とされ今や世界中に熱狂的ファンを持つ85歳のチリ映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキー。ホドロフスキーによって企画されるも、撮影を前に頓挫した『DUNE』についてのドキュメンタリー『ホドロフスキーのDUNE』(フランク・パヴィッチ監督、*1)が今年6月に公開され、その壮大さと無邪気さに観客は爆笑、涙した。そして、このドキュメンタリー映画をきっかけに35年振りに再会したプロデューサーのミシェル・セドゥと、再びタッグを組み完成させた新作『リアリティのダンス』(*2)も先週公開され、日本の“ホドラー”たちをまたしても熱狂させた。そんなホドロフスキーの次回作『フアン・ソロ』についてのトークショーが今週14日アップリンクで行われ(*3)、早くも話題となっている。 原作となる漫画『フアン・ソロ』は、フランスではバンド・デシネの老舗出版社ユマノイド(*4)から既に発刊されている作品。ベルギー、フランスを中心とした地域の漫画のことを指す“バンド・デシネ”は、漫画が「9番目の芸術」として批評・研究対象となっているフランス語圏を中心に派生し、その高い芸術性で宮崎駿や大友克洋、浦沢直樹らにも多大な影響を与えたことで知られている。映画『フアン・ソロ』は尻尾を持って生まれた男の数奇な物語。現在フランス・メキシコ・日本の合作として国際共同製作の準備中であり、メキシコ撮影が決定。血と暴力と権力を描いたバイオレンス作品を予定している(*トークイベントより)。 映画『リアリティのダンス』で、生まれ故郷チリの田舎町を舞台に若き日の自分と両親との関係を描いたホドロフスキーは、今年4月の来日時「『リアリティのダンス』は非常に個人的な物語になった。今回は自分の人生を語ろうと思ったのだ。だからこそ、次回はパーソナルではないアクション映画を作りたい」と『フアン・ソロ』への意気込みを力説(*5)。さらには「『フアン・ソロ』は人間が生き残るための本能を描くアンチ・ヒーローの映画になる」とも発言し、「観客が今までみたことのない“何か”や希望を発見し、一緒に映画館を出てくる、そういう生きる感情が湧いてくる映画を作り続けたい」と、強い意欲を見せていたそうだ。85歳とは思えぬ製作意欲とパワー溢れるアレハンドロ・ホドロフスキーに、これからも我々は度肝を抜かれ続けることだろう。 (記事・内山ありさ) *1 映画『ホドロフスキーのDUNE』 http://ift.tt/1c1bpZ6 *2 映画『リアリティのダンス』 http://ift.tt/N7YTeT *3 映画『リアリティのダンス』上映&トーク:【ゲスト】原正人、浅井隆—ホドロフスキーの次回作『フアン・ソロ』を語る! http://ift.tt/1qDlf8i *4 ユマノイド http://ift.tt/1mX7f8L *5 CDJournal http://ift.tt/1mX7fp0

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2014年7月17日木曜日

[World News #060] 「金正恩暗殺」を題材にしたコメディ映画 北朝鮮の最高権力者、金正恩第1書記の暗殺をテーマにした作品が米国で制作され、10月に公開が予定されている。これに対して、北朝鮮の外務省報道官が「最高指導者の尊厳が傷つく」として強い反発を見せている。(*1) 問題となった映画は、「ザ・インタビュー」(=The Interview)。トーク番組で司会を務める2人の主人公が、CIAから金正恩の暗殺を依頼されるというコメディ映画で、予告編を見た限りでも、金正恩が「イルカと話せる」と信じる部下が登場するなど、北朝鮮を強烈に皮肉る内容となっている様子。また、金正日役の俳優は髪型や体つきなどが本人にそっくりで、予告編が公開されるやいなや、北朝鮮は国営メディアを通じて、アメリカに対する非難を見せた。 その内容としては、「これは明らかな戦争行為だ」「もし米政府が上映を黙認するなら、冷酷な対応措置がとられることになるだろう」といったもので、実際に朝鮮国内では反米集会が開かれるなど、さまざまな抗議運動が巻き起こった。また軍隊の射撃訓練では、米兵の人型を標的にするなど、アメリカに対する嫌悪感が丸出しにされることとなった。 北朝鮮の反発声明に対して制作会社はノーコメントだったが、主演・監督・脚本の3役をこなしたセス・ローゲンは、「代金を払って映画を見た後で、俺を殺したいなどと思う奴はいないだろう」とtwitter(*2)で表明している。実際、今は情報だけが独り歩きしている感が否めないため、私たちは映画を鑑賞後、改めて判断をする必要性があるだろう。 これと同様の事例として、私たちはチャップリンの『独裁者』を思い浮かべるかもしれない。本作もまた、ヒトラーという独裁者を強烈に皮肉った作品であり、全体的にはコメディでありながらも、監督の平和への祈りがひしひしと感じられる、映画史上に残る傑作となっている。もちろん歴史的な名作と一概には比較できないだろうが、『ザ・インタビュー』が「独裁者」という存在を同時代的な感覚としてどう捉えたか、個人的には興味が尽きないところだ。 ちなみに、ヒトラーは『独裁者』を2回鑑賞しているが、英紙テレグラフによると、北朝鮮情勢に詳しい人の話として、金正恩もまた、『ザ・インタビュー』を観る可能性が高いとのこと。彼がどのような感想を述べるのか、こちらもまた興味は尽きない。 若林良 『ザ・インタビュー』予告編 http://ift.tt/SARBTD (*1) http://ift.tt/1nzPxmT (*2) http://ift.tt/1o48UYR facebookページ http://ift.tt/1miJEtG



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2014年7月16日水曜日

[World News #059] コンテンツ産業の危機を語る際に、「○○が××を殺す」というレトリックが多用されます。××に入る言葉は音楽、本など多岐に渡りますが、○○に入る言葉に関しては近ごろはただひとつ、<インターネット>です。インターネット配信による視聴スタイルの多様化によって、昔ながらのコンテンツ産業は大きな変化を迫られています。もちろん映画産業も、例外ではありません。 ビデオ・オン・デマンド(インターネット回線によりユーザーが好みの映像の視聴を行えるシステム)の普及により、多くの人が映画を自宅で視聴できるようになっています。なかでも最近争点となっているのはビデオ・オン・デマンドの公開即日配信(day-and-date)です。 公開即日に新作がビデオ・オン・デマンドで配信されれば、当然映画館に足を運ぶ人が減ることが予想されますが、一方で最初から普段映画館に足を運ぶ習慣のない人に新作映画を視聴してもらうことで、公開時の口コミの広がりを期待することができます。また、ビデオ・オン・デマンドのコンテンツごとに課金するシステム(pay-per-view)を使って新作映画にある程度高額な(映画館で映画を見るのと同程度の)金額設定を課すことで、コンテンツ産業が得られる収入のアップも望めるでしょう。「映画館で映画を見ることにはこだわりがないけれど、映画が新鮮なうちに視聴したい」という層を掘り起こすのです。 IndieWireのパウラ・バースタインは、映画館に通う層とビデオ・オン・デマンドで全てを済まそうとする層との重なるところは僅かで、深刻なカニバリズムは起こらないと分析します。そして大規模なプロモーションを打つ事ができないインディペンデントな映画にとって、むしろビデオ・オン・デマンドは福音であるかもしれないとも。(1) 実際映画というのも全てが一様でなく、どうしても映画館で見たい映画もあれば、とにかく早くチェックして話題に乗りたいという映画もあるでしょう。例えば「『ゼロ・グラビティ』は時間を調整して映画館で体験したいけれど、『As I Lay Dying』は視聴環境はどうあれいち早くチェックして、SNSのジェームス・フランコ祭りに加わりたい」というような……(ジェームス・フランコに関しては inside IndieTokyoの大寺氏の記事 http://on.fb.me/1mzde3p に詳しく書かれているのでご参照ください!)。そしてニッチではあるけれど、全国的に一定の需要が見込めるような映画に関してはビデオ・オン・デマンドの活用が視聴率のアップにダイレクトに影響するでしょう。実際、ドキュメンタリー映画の分野はビデオ・オン・デマンド活用で視聴者数が増えているというデータもあります。(2) インターネットは今や我々の生活の隅々まで行き渡っており、最新のニールセンのリポートによれば、既にビデオ・オン・デマンドのアメリカ家庭での普及率は60%にものぼるそう。(1) 結局のところコンテンツ産業はインターネット配信を敵視せずに、活用するより他ないのです。そして最も直接的に打撃を受ける映画館は、家庭での視聴では得られない<体験>をどれだけ提供できるかに、今後の存亡がかかってきているといえるかもしれません。 蜂谷智子 編集者・ライター Facebook( http://ift.tt/1nGCiFL ) (1) http://ift.tt/1oGvFzy? (2) http://ift.tt/1nGCiFN



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2014年7月15日火曜日

BELLE Movie Trailer

[ World News #058 ] イギリスの映画製作支援宝くじ、「多様性」が条件に   先日、英国政府の映画産業振興機関であるBFI (British Film Institute) が、インディペンデンス映画への抽選による製作資金援助* の申し込みに関して「スリー・チェック・システム」という新たな条件を設定しました。(#1) チェック項目は、 その映画が ① 映画の内容が多様性に富んでいるか ② 映画のスタッフが多様な人々で構成されているか ③ 若手クリエイターが自分の実力を示す機会となっており、社会的の変化をうながすものであるか の3つです。(#2)  ① に関してBFIはこの「多様性」を、「その映画が、民族性または国籍に関するアイデンティティ、女性の社会進出に関する問題、身体障害者、性的アイデンティティ、多様な年齢層、社会的に不利な条件に置かれたマイノリティの問題、または様々な宗教や信条に関して価値をおいていること」と定義しています。実際に映画では、少なくともメインキャラクターのうちの一人を含む3割のキャラクターが多様性をポジティブに反映したものでなくてはなりません。  ② については、製作に多様な民族や性的アイデンティティ、身体障害者、社会的に不利な背景をもつ人々が参加していることが奨励されており、監督や脚本家などの主要製作陣はもちろん、少なくとも各部門のリーダーが二人以上は多様なバックグラウンドをもっていること、と定められています。  ③は、報酬ありのインターン生の雇用や若手クリエイターへの仕事の提供に貢献しているかが問われるものです。  宝くじにエントリーするためには、少なくともこのうちの2つの条件が満たされていることが求められます。このシステムは、すでに多くの映画制作者から支持されており、今年の9月から施行される予定です。  この条件を満たしている例としてBFIがあげたのが、先月から欧米で公開がはじまった『Belle』(2013年) です。この映画は、リンカーンよりも100年近く早い18世紀後半からイギリスで奴隷解放運動をおこなっていた判事マンスフィールド卿と、その思想に影響をあたえたアフリカ系イギリス人の養女、ベルの物語です。奴隷制度が当たり前であった時代に、 黒人奴隷の母親と上流階級出身のイギリス人の父親との間に生まれ、貴族の家で英国人として育てられたベルの存在は、長いあいだ隠されていました。しかし2005年、一枚の絵画をきっかけに歴史家が研究を進め、養女となった経緯やイギリスの奴隷解放運動への貢献が明らかになります。それをドラマ映画化したのがこの作品です。  監督兼脚本は、ロンドン生まれのアフリカ系イギリス人、45歳の女性クリエイター、アサン・アマ。人種、階級、ジェンダーの問題を美しく、感動的なラブストーリーに織り交ぜ、穏やかでありつつもパワフルで挑戦的・破壊的なこの映画は、批評家やオーディエンスから賞賛されました。(#3)  近年、『英国王のスピーチ』(2010年) や『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』(2011年) などの伝記もので成功している英国映画ですが、これからさらに変化を続ける多様な現代イギリス社会を反映した作品が多く生まれることでしょう。また、このような多様性を奨励するシステムは、日本を含める世界中の多くの映画関係者にもチャンスを与えてくれるのではないでしょうか。 "Belle" Movie Trailer http://ift.tt/1i08zEv  お読みいただき、ありがとうございました。今月から、英国のLeicester大学に留学にいってきます。現地から映画産業、文化などについて、レポートさせていただく予定です。またぜひ、よろしくお願いいたします。 Posted by 北島さつき *このBFIの抽選による資金援助からは、毎年約2700万ポンドが映画製作に提供されている。 #1 The Guardian "BFI sets diversity rules for access to lottery funding" http://ift.tt/1rMOzuT #2 Mail Online "Films must 'tick boxes' on diversity to win funds: BFI sets targets for number of female, gay and ethnic minority actors and crew" http://ift.tt/1ks8Gap #3 The Guardian "Belle review – a ripe costume drama with teeth” http://ift.tt/1px52T7

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2014年7月14日月曜日

[World News #057] ★日本初公開イラン映画『金曜日の午後に』★ 先週の火曜日(7月8日)第12回中東映画研究会にてイラン人女性監督モナ・ザンディの初長編映画で日本未公開作品の『金曜日の午後に』が上映された。 『金曜日の午後に』は、近親相姦そして婚外出産といったタブーに大胆に踏み込んだ作品でありイランでは論争を巻き起こした。 この上映に合わせて来日されていたイラン人女性監督モナ・ザンディ監督は、映画上映後に登壇されイラン人女性監督のイラン社会における役割について語った。 イランでは文化・芸術活動を行う時に必ずMinistry of Culture and Islamic Guidance (ペルシャ語ではErshad)から活動許可を得る必要がある。Ershadはその文化・芸術活動がイスラム教的であるか、またどのような影響を社会に及ぼすか検討し活動範囲や条件を定める。Ershadの基準は政権交代に合わせて多少変動する。さて、『金曜日の午後に』は2005年ハタミ大統領政権時に撮影許可を得て2006年2月第24回ファジル映画祭にて上映そして受賞した。しかし、『金曜日の午後に』がイランの映画館で公開されたのは5年後だった。2006年に穏健派でしられていたハタミ政権からアフマディネジャド政権に政権交代がなされ映画上映の許可が得られなかった。2006年の2月にファジル映画祭での上映が許されたのは大統領の交代に遅れてErshadのトップが交代されていなかったからだ。 監督は1979年イラン革命後のイラン人女性監督を政権交代そして文化的成長に応じて三つの世代に分ける事が出来ると語った。第一世代のイラン人女性監督は革命後のイラン社会において女性の芸術活動がタブーであった環境下で勇敢に家族そして社会の批判と戦い女性の活動の可能性を広げたパイオニアである。第二世代は、第一世代が築き上げた環境を活かしイラン国内で触れられることのなかった問題にクローズアップし女性監督のイラン社会への影響力を高めた。そして第三世代である今は、イラン国内に限定せずに世界的に普遍的な問題を取り上げる事で、イラン人女性監督への国外からの注目が高まりつつある。 モナ・ザンディ監督が指摘したように、現代のイラン人女性監督は精力的に活動している。 また、同じ第三世代のイラン人女性監督プーラン・デラフシャンデ監督(Pouran Derakhshandeh)の日本未公開作品『Hush! Girls don't scream!』は強姦そして声を上げる事の出来ない被害者女性の長年にわたる苦しみを題材とし、第31回ファジル映画祭の受賞作品である。プーラン・デラフシャンデ監督は記者会見で次のように述べている。 「この映画は、2001年、クルディスタン地方のある男性から自分宛てに送られてきた2冊のノートから始まりました。ノートはある男性の過去について書かれたものであり、その内容が強烈すぎて私はノートを封印しました。後の2007年に、ある少女が私のもとにやってきて、彼女の人生について打ち明けてくれました。その内容もまた強烈で、私はとても心を動かされ映画を作ることに決意しました。映画を制作するにあたり700人の少女のインタビューをして、より一層この映画製作への責任を感じました。社会的タブーの題材を扱ったテーマの映画制作の資金調達は厳しいものでしたが、インタビューをしてきた少女らの話を思い出し、借金を抱えてでもこの映画は完成させなくてはならないと強く思いました。・・・私が作った映画はイラン社会のみの問題ではなく多くの社会が抱える問題で、早急に明らかにし解決をする必要のある問題なのです。」 インタビューのソース:http://ift.tt/1yfDR0Q Hush! Girls don't scream! : http://ift.tt/1mNyEsR By Sevin 中東現代アートの研究・ペルシャ文学の翻訳をしています。http://ift.tt/1mNyGBb 中東現代アートのキュレーションページ: http://ift.tt/1yfDR0U

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2014年7月12日土曜日

Holy Motors - Accordion Scene

[World News #056] 映画を支えるそれぞれのメソッド  現代では映画の情報が人々の目に止まり、関心を惹くきっかけとなる要因は実に多くの手段で溢れている。映画雑誌、映画サイトはもちろん、ツイッターやフェイスブックなどのソーシャル・メディア、個人のブログなどでも情報を手に入れることができるようになった。いわば多くの人々が様々なかたちで映画の情報を発信しているわけだが、そんな現代において映画批評の立ち位置はどうなっているのだろうか。  近年のフランスにおける映画批評の現状を「レ・フィッシュ・デュ・シネマ」(「Les fiches du cinéma」1934年から続いている月2回刊の映画雑誌)*(1) のフランソワ・バルジュ=プリオールは非常に厳しい状態にあると指摘する。かつてラングロワの時代にあった古き良き批評の時代は過ぎ去り、今では文章を寄せる場所や機会なども無くなりつつ、広告目的などで映画に対する異なる視点がすべて同じような視点に統一されてしまい、読者にとって新たな発見がますます少なくなっているという。  「批評家は映画を愛すが、話すことは好まなくなった。批評は無気力なものとなってしまった:点数を付け、順位と作品リストを作るが、伝達することはなくなった。発信することをやめてしまったのだ。」*(2) こういった傾向が顕著に見られるということをフランソワ・バルジュ=プリオールは明らかにした後に、「私は毎日、無名の人が書いた素晴らしい文章を読む。私は毎日、有名な人が書いた面白みのない文章も読む」*(2) と述べる。それは、映画に対するアプローチが通常の批評とは別に形成されつつあるということを示唆している。  しかし、その一方で本当に現代の批評に望みはなくなってしまったのか。同誌では現カイエ・デュ・シネマの編集長、ステファヌ・ドゥロームへインタビューを行っており、*(3) そのことについても少し触れておきたい。「カイエ・デュ・シネマ」は2013年の4月号に、無名の若い映画監督たちを支持する特集号を出版した。それは「カイエ」という映画雑誌が映画を作るための手助けとなり、また新しい映画監督の出現の支えとなる意思表明でもあった。  その背景には、実はその若い映画監督たちの年齢にもあるらしい。カイエで取り上げた監督たちは平均35歳から40歳であり、その年齢に達するまではずっと短編を作り続けるしかなかったようだ。そしてFEMIS(フランスの国立映画学校)の校長、マーク・二コラでさえもオープンキャンパスで19歳の若者候補者たちを前にして「今日において、フランスの若い映画監督が最初の映画を撮れるのは40歳からだ」*(3) と言い放つ。それはステファヌ・ドゥロームにとって、それは気が狂いそうになることなのである。何故なら、新しい映画が誕生するまで、長いあいだ待たなければならないということがまかり通っている現状を示しているからだ。また、この現状を招いてしまったのは、「今までわたしたちが何もしてこなかった結果」だと述べる。だからこそ、「カイエ・デュ・シネマ」は行動を起こした。彼らなりの批評で現代の映画と若い映画監督たちを支えるために。しかし、批評だけに、これからの映画の未来を支えさせるのは無責任ではないだろうか。たとえ批評でなくとも、わたしたちにだって苦しい映画の現状を支えることは可能なはずだ。  映画が光の粒子の集まりで生きるように、わたしたちも自分なりの方法で映画を象る光の一つとなればいい。記事、日記、寄付金、口伝え・・・どんな方法だっていい。その光は最初、微小で散り散りなものかもしれない。しかしその光が微弱ながらも集約すれば、夜空に浮かぶ星のような光にだって成り得るはずで、いっそ他の呼応する星々を繋いで、新たな星座さえ作ってしまってもいい。そうすれば新たな星座が我々の時代をこれからも示してくれるに違いない。そして時代が過ぎ去っても、来るべき世代の指針として輝き続けるよう、支え続けていれば、いつか次の世代にこう言える日がきっと来る:あの映画たちと同じ時代を生きたのだと。  世界を魅了した映画監督たちはそれぞれが生きた時代を自分たちなりに掴んでいた。「カイエ」が今でも現代のフランス映画に影響を与えられているのは、映画の批評が時代の批評に繋がると確信しているからだ。そして今では、若い世代をサポートするべき時代だという批判を行っている。  だからこれからも、かつてそうだったように、皆で映画というムーヴメントを作っていく際には、せめて自分たちが生きている時代を改めて反芻しながら語り合い、親身に支え合いながらも、新しい時代を共に作っていければと思うのである。でなければ、結局のところ映画は一時的な気晴らしに過ぎなくなってしまう。カイエのステファヌ・ドゥロームは誰もが映画の現状に対して「こうなってほしい」と待つばかりで、それが実際に起こるための行動を取らないと痛烈に批判している。*(3) それはフランスだけで起こっていることではないはずだ。映画の現状は、世界の現状に他ならない。その逆もまた然りで、良い映画が見られないのは自分たちの責任でもある。  レオス・カラックスの『ホーリー・モーターズ』ではドニ・ラヴァンが一人でアコーディオンを弾きながら教会の中を彷徨っていると、どこからともなく音楽隊が集まり始め、彼の奏でる演奏に参加していく。その音楽隊の人たちとは、つまりわたしたちでなければならない。 『ホーリー・モーターズ』間奏曲シーン http://ift.tt/1mkHMk0 楠 大史 「レ・フィッシュ・デュ・シネマ」公式ホームページ http://ift.tt/1y7ra8l *(1) http://ift.tt/1r5IBFu *(2) http://ift.tt/1y7ra8m *(3)

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2014年7月10日木曜日

[World News #055] 映画の未来は女性にあり? 先日の投稿で、映画業界は非常に男性中心の社会であるということを書きました(Word News #026 *1)。本日は特に女性の側から、この問題について考えたいと思います。 まずは、驚きのデータをひとつ。2009年から2013年までの5年間で、6大ハリウッドメジャー(Warner Bros. , Universal, Walt Disney, Sony, 20th Century Fox, Paramount)から世に出た作品は466本です。ではこの466本のうち、女性が監督した作品は何本でしょう?答えはなんと、22本です。もう一度言います。5年間で、22本です。比率にすると、全体のわずか4.2%ということになります。(*2) これは女である私にとって、ものすごくショッキングな数字でした。あまりにも少ないとおもいませんか?また、この5年の間に映画を2本撮った女性監督は、Anne Fetcher 1人だそうです。女性の監督がやっとメジャーで作品を撮れたとしても、なかなか次回作に結びつかず、監督としてそこに根付くことは非常に難しかった、ということになります。女性にとって極めて映画を撮りづらい状況であると言えます。 また、こんなデータもあります。2013年の興収ランキング100本において、女性が主人公の映画はわずか16本です。(*3) 女性の映画は観客ウケが悪いのでしょうか? いえ、興収に関しては、男性主人公の映画よりも女性主人公の映画の方が、平均すると20%も高いのです。 『マン・オブ・スティール』や『ホビット 竜に奪われた王国』のように、莫大な予算をかけて撮り、爆発的にヒットした作品と照らし合わせて見ても、平均して悪くない数字です。女性の映画は、かかった製作費から考えるとコスト・パフォーマンスがいいと言えます。 女性を主人公に据えた女性の映画を撮るのは、撮る側からしても決して悪いことでないのだけど、単にハリウッドの96%を占める男性監督ら(または、確実に大半を男性が占めている脚本家ら)の想像の及ぶのが男性の事ばかりである、ということがあって、習慣的にずっと女性についての映画を撮ってこなかった、撮れなかったのだと思います。 近年の日本では、『ニシノユキヒコの恋と冒険』で注目を浴びた井口奈己さん、有望な若手監督として評価の高い瀬田なつきさん、カンヌに出品した『二つ目の窓』で話題になった河瀨直美さんなどの女性監督の活躍がみられます。ですが、やはりメジャーというよりは、インディペンデント系の監督に分類されるでしょう。ハリウッドほどではないかもしれないけれど、同じ問題を抱えていると言えるでしょう。 ハリウッドや日本がこのような状況である一方で、女性による女性の映画が注目を集めている国もあります。フランスです。日本でも近年のフランス女性映画監督が「フレンチ・フィーメイル・ニューウェーブ」として紹介されました。 フランスは、女性の社会進出が進んでいます。フランス内閣には「女の権利省」という機関が存在。また、国会議員を男女同数にしましょう、という動きがあって、法律で規定しています。さらにこの法律は企業の管理職にも影響していて、実際、徐々に増えているそうです。子育てをしながらバリバリ仕事をするのも、フランスではふつうのこと。(*4) この雰囲気はここ最近のものではなく、かつ映画界にも影響しています。これが60年代のアニエス・ヴァルダに映画を撮らせ、そして現在ミア・ハンセンラヴまで受け継がれているのです。確かにフランスが生んだ女性監督は、非常に生き生きと映画を撮っていますよね。 現在相当数の才能が埋もれていると思われる女性監督たち。アメリカや日本やいろんな国で、もし映画界が停滞を見せているとすれば、ここを見直す必要があるのではないでしょうか。 映画の未来は、女性にあり。今後の発展に期待します。 則定彩香 *1 http://ift.tt/1xWHvwp *2 http://ift.tt/1v1vORS *3 http://ift.tt/1dmnbfr *4 http://ift.tt/1qYc1p7 桃まつり 公式HP http://ift.tt/1xWHybv



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2014年7月9日水曜日

[World News #054] デジタル時代の映画脚本術  アメリカ人はフォーマット作りが得意です。ベースとなるフォーマットをまず作り、その上で個人が自由に想像力を羽ばたかすことができる、そうした環境作りを進めるのが、アメリカ的なものの考え方の基本にあるように思います。  もちろん、フォーマットというものは時にフォーマルでありすぎます。堅苦しく感じる。映画を見る人間/作る人間は直感的な把握を好む場合が多く、こうしたフォーマット作りはしたがってあまりウケが良くありません。とりわけ日本では、むしろ積極的に嫌われたり馬鹿にされる場合も多いように感じます。しかし、そればかりではありません。長年にわたってルーカス・フィルムやピクサーなどで脚本コースの教師を務め、「Screentakes」(#1)というサイト主催者でもあるジェニーヌ・ラヌエットは、映画業界が長年使用してきたフォーマットが酷く退屈であることにも理由があると述べています。(#2)  因習的ドラマ構成が多く、コミックの映画化や実話ものばかりが横行するハリウッドに対して、インディペンデント映画の製作者は、本来コマーシャリズムから離れた様々な実験が可能な場所である筈です。ところが、そうした場所でこそ映画脚本の問題があまり語られない、脚本で実験することの意義が正当に受け止められていないと彼女は言います。これは、シド・フィールドの脚本術(#3)であれ何であれ、つまりは従来の映画脚本コースが三幕構成を基本にした古き良きお馴染みの枠組みでしかなく、それ以外はノイズとして自らの責任と感性のもと勝手に冒険するか、あるいは何も考えないという選択肢しか存在しないのが原因であるとのことです。  原稿を書くための装置がペンとノートのアナログからパソコンなどのデジタルに移行したように、また、文章を読む媒体が活字からインターネット上のハイパーテクストに移行したように、映画脚本の創造術もデジタル時代のツールや想像力を活用すべきではないか、こうした提案こそがラヌエットの主張の本質であるように思われます。  結局の所、物語とはAからBへの移行なのだ、と彼女は語ります。それをプロット構成の中で分析したのが古典的な三幕構成の脚本術である、と。しかし、実際には映画にはプロット以外にも重要な物語展開がある。それは、キャラクターと世界観だ、と彼女は言います。キャラクターもまた、映画の展開の中でAからBへと変容していく。そして私たちの世界観、あるいは映画作家が私たちに見せようとする世界の姿も、AからBへと映画の展開の中で変化していく。そして、これらはいずれも等しく重要であり、他の二つと密接に関わり合いながら一つのストーリーを編み上げて行くのです。  私たちは、この三つのいずれから出発しても良い。そしてその他二つの要素とどのように連関していくか、どのように刺激し合い、どのポイントで変化を遂げ、具体的な場面を作り上げるかによって、創造的な脚本が無数のバリエーションとして生み出されていくのだと彼女は主張します。ここで、とりわけ世界観の変容を脚本構成の大きな要素として彼女が指摘しているのは、大変興味深いと思います。アメリカ的な脚本創作術とは無縁に作られたように見える、ある種の日本映画を分析する際にも、これは非常に有効な考え方ではないでしょうか。  この三つのプロセスのダイナミックな連関は、アナログ的・単線的な思考ではとらえにくいものです。したがって、実際のところ、真にオリジナルな脚本創造では無意識的な作業こそが重要になると彼女は指摘します。しかし、その無意識的な作業もまた、デジタル的アプローチによってより深く開拓できるのではないか。単に感性の飛躍に任せるのではなく、ある種のデジタルな、あるいはハイパーテクスト的なフォーマットやツールをそこに導入することができるのではないかと彼女は主張します。その目的のため、ラヌエットは「Meditation on Character, Action and Theme(キャラクター、アクション、テーマのためのメディテーション)」と名付けた立体的でインタラクティブなチャート(#4)を発案し、それを映画脚本の創作に活用することを勧めています。  現在、ラヌエットは映画脚本術を解説したeブック作りを進めており、そのためのキックスターターキャンペーンを行っています(#5)。上記チャートのインタラクティブバージョンは、そのキャンペーンのキックバックとして資金提供者に対し配布されるとのこと。興味を持たれた方は、チェックして見るのも良いのではないでしょうか。経験が重要であり、感覚的に全体を把握するしかないとされてきた複雑な創作の世界でも、こうしたデジタル時代の新たなフォーマット作りを進めようとする試みは、とても興味深いものだと思われます。 大寺眞輔 http://blog.ecri.biz/ http://ift.tt/1knGQPv http://ift.tt/NSy3rx #1 http://ift.tt/1l65OmG #2 http://ift.tt/RXCQtT #3 http://ift.tt/1mylWhB #4 http://ift.tt/1swhotb #5 http://ift.tt/1nQx6kv



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2014年7月8日火曜日

Bernardo Bertolucci on Returning to the Director’s Chair and Why He’s Excited About the Digital...

[World News #053]ベルトルッチ監督インタビュー紹介  海外情報サイトIndie WireとFilm Commentに掲載された、ベルナルド・ベルトルッチ監督のインタビューを受けて、インタビュー記事内容に触れながら映画を考えてみようと思う。  イタリアの巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督はこれまでに『殺し』、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』や『ラストエンペラー』など数々の名作を生み出してきた。彼は病に倒れ車椅子生活を余儀なくされ引退も考えたが、最新作『孤独な天使たち』において見事に復活する。この新作の撮影中も彼は車椅子で活動する。にもかかわらず、映画からは何の苦も感じさせずに、これまでと違う「新しさ」さえもが伺える。  彼にとって、もう一度映画を撮れることは奇跡であった。若い世代の視点という点を除けば、映画を撮ることは普通の出来事であり撮影はスムーズに進んだという。撮影に際してベルトルッチ監督は、知らない世代のことについて役者に質問を繰り返していた。そのことが、ベルトルッチ監督の映画のなかで見られるある種のバラバラながらも生まれる一体感、お互いを認め合い愛し合う関係、がこの映画の中で若さとともに現れる要因になった。驚くべきは、撮影中に役者たちの身長が2cmも伸びたということだ。撮影は時系列に沿って撮られていたので、まさしく映画はストーリーテリングを超えて、ある生活、次の世代のドキュメントとなったのである。そう語る、ベルトルッチ監督にとって若い世代との撮影は「新しさ」への喜ばしき挑戦なのである。  生々しいセックス描写も見られず、『暗殺の森』のような政治性も見られないがゆえに、これまでと比べれば取るに足らないものであるかのように思える。が、部屋の中に自ら引きこもるというテーマはあらためて問い直される。また、結末に関して彼は、原作の投げやりな死を気に入らず映画では変更した、と語る。彼は、このことを歳を取るにつれて楽観的になったせいだと語るが、私にはあのラストの新しい日の光を浴びる描写が、次なる世代との関わりによって生まれたある種の肯定の身振りに思えてならない。このことが私が感じた「新しさ」なのかもしれない。  最後に新しい世代に向けられた監督の言葉をインタビュー中から訳出させてもらいます。  「(自作と若い観客との関係について聞かれて)とても興味があります。確実に言えるのは、若い観客は私の昔の作品を我々とは違った方法で見れるということです。私は若い人が何を考えているのかを知りたい。何故なら、彼らが何を好きで嫌いかということが、映画が何か違うものへと変わることに繋がっていくからです。」  「(テレビシリーズのブレイキング・バッドについて聞かれて)最近、これらのアメリカのテレビシリーズを見ています。私は、それらが映画とは違う新しい自由を持っていることを発見しました。ウォルター・ホワイトは電話を置いて、たっぷり10秒は時間をかけてものを考える。こういう時間の流れは編集でもたらされるものとは違います。映画においてはすごくアグレッシブな試みなのです。風景の中をただ横切るような登場人物を作る事なんてできないからね。時間をかける自由があるというのは素晴らしいことだよ。」  ベルトルッチ監督は、断念したもののデジタル3D撮影にも否定的ではない。確かに彼は楽観的のかもしれない。しかし、ここは単にそう捉えるのではなく、視野を広げ続ける巨匠の言葉として解釈しようと私は思う。なにより、その言葉の重要性は更新され続ける彼の作品が示している。映画館が無くなり否定的な面ばかりが語られるが、相次ぐソフト化に伴い手軽に彼の作品が見れるようになったことは逆に映画の細部を発見することを助ける。また、溢れた映像の中から新しい映像表現を見出していくことの重要性は、映像とともに育ってきた我々にとって(ベルトルッチ監督がそうであったように)これからも課題なのだ。我々が次なる世代として映画を更新していくために重要なのは、どこか遠くを見ようとするのではなく、近いところに多様な広がりを見出して行くことなのではないだろうか。私にはベルトルッチ監督の言葉がそう響いて来るのである。 Indie Wireでのインタビュー http://ift.tt/1mu14YJ Film Commentでのインタビュー http://ift.tt/1ofDNHl 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA

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2014年7月7日月曜日

Subway Cinema | NYC's Source for Asian Film since 2000

[World News #052] みなさん、こんにちは!今月の10日から27日にかけて、ニューヨークで、サブウェイ・シネマ(Subway Cinema)主宰のアジア映画祭(New York Asian Film Festival/NY AFF)が開催されます。同映画祭は2000年に始まり、今年で14年目を迎えます。 日本映画も複数の作品の上映が予定されていますが、本日はその中から落合賢監督『太秦ライムライト』(2014年6月公開)を取り上げたいと思います。本作は、東映時代劇を長年支え、京都の太秦撮影所で活躍して来た71歳の斬られ役の名優、福本清三さんを主役に迎えて、その視点から時代劇の名作を生み出した、かつての「日本のハリウッド」、太秦の物語を描いています。本作は日本外国特派員協会(FCCJ)、ジャパン・ソサティの紹介もあり、日本のサムライ映画を題材とした作品として、海外でも注目を集めようとしています。 1950年代、映画の花形は時代劇でした。京都の太秦には多くの映画会社の撮影所が設けられ、賑わいました。戦前からの時代劇スター、片岡千恵蔵、市川右太衛門に、中村錦之助や東千代之助の大型新人が加わり、市川の息子の北大路欣也も子役として活躍した時代でした。1956年には配給収入が松竹を越え、東映は時代劇人気を背景に黄金期を迎えます。それでも60年代に入ると映画の中心は現代劇へ、撮影所も京都から東京へ、主力が移り、娯楽時代劇は斜陽期に入りましまた。 エンターテイメントとしての時代劇の要はなんといっても殺陣でした。「5万回斬られた男」(ご本人談では、それは大げさで、実際には2万回くらいだろうとのこと)、福本さんは「大部屋俳優」としてのキャリアを貫き、斬られ方も探究し続け、「えび反り斬られ」の開発でも知られています。映画の中では、若い女優と師弟関係を結び、その技術を継承させます。スター俳優を輝かせる多数の中で一人として散る美学が光ります。 FCCJで、本作は落合監督がアメリカ、南カリフォルニア大学で映画制作を学んだ時に、時代劇の世界的認知の必要性を確信したところから始まったと紹介されています。アメリカでロサンゼルスを基盤に活動するプロデューサー、コウ・モリ、そしてその友人のアメリカ人撮影監督の協力を得て、「日本の伝統」と「世界の感性」が見事に出会った作品となったと評価されています。 太秦の「サムライ映画」はハリウッドの西部劇とも重なるかもしれませんが、タイトルから先ず、チャップリンの『ライムライト』を思い起こす人は多いでしょう。落ちぶれたかつての人気道化師、カルヴェロ(チャーリー・チャップリン)が、若く才能触れるバレリーナ、テリー(クレア・ブルーム)を助け、彼女をスターダンサーに押し上げます。年老いた道化師は、美しい踊り子の手助けも得て、奇跡的なカムバックを果たすも、彼女の愛を拒絶し、彼女がスポットライトで輝く姿を見届けて、生涯と閉じます。かつて舞台照明に使われた石炭製の強烈な白光を出すライムライト(灰白灯)は、電球にとって代わられることになりますが、脚光を浴びる名声やスターダムの意味も持ちます。『ライムライト』は、チャップリンの米国での最後の作品であり、それまでライバル言われてきたものの、当時人気の衰退にあったバスター・キートンの配役も話題になりました。 今も日々生み出される映画が、映画の大きな歴史の中にあることが思い出されます。2012年のクエンティン・タランティーノ監督の『ジャンゴ』も記憶に新しいですが、アメリカでも西部劇は伝統のパターンを受け継ぎながら、新しいエッセンスも加えられ、一つのジャンルとして生き続けています。日本の時代劇というジャンルにも希望を込めた『太秦ライムライト』が日米の観客にどう受け入れられるか、楽しみです。 なお、『太秦ライムライト』では、東映テレビで映像化された司馬遼太郎原作『新撰組血風録』の土方歳三役で、人気を博した栗原旭、かつての主役スターが脇をしっかりと支えています。 (記事 コキマダエウ) Subway Cinema:http://ift.tt/18T0GLa 『太秦ライムライト』 HP:http://ift.tt/1oPPhou 予告編:http://ift.tt/1skH0Jl ジャパン・ソサエティ: http://ift.tt/1skH0Jp The Foreign Correspondents' Club of Japan / FCCJ: ://www.fccj.or.jp/.../item/397-uzumasa/397-uzumasa.html Subway Cinema | NYC's Source for Asian Film since 2000 www.subwaycinema.com Subway Cinema (New York Asian Film Festival, Ltd.) is America’s leading non-profit organization dedicated to increasing exposure and appreciation for asian popular film culture in all its forms. July 3 at 11:34pm · Edited · Like · 1 · Remove Preview

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2014年7月5日土曜日

[World News #051] スコセッシを「凄まじいほど不快」と唸らせた幻のオーストラリア映画、40年以上の時を経て今秋初公開 「オーストラリアを描いた、史上最高で最恐の映画」(ニック・ケイヴ)、「言葉を失った」(マーティン・スコセッシ)、「パワフル、ショッキング、でも凄い」(ロジャー・エバート/CHICAGO SUN TIMES)…1971年のカンヌ国際映画祭上映時、猛烈な反響を呼んだ幻の作品『Wake In Fright』。製作から40年以上を経たこの秋、新宿シネマカリテで行われる日本未公開の驚愕映画特集「初公開!世界のどす黒い危険な闇映画」第1弾として、『荒野の千鳥足』との邦題で9月27日からレイトショーにて初上映される(*1)。 本作は、『ランボー』でお馴染みのテッド・コッチェフが監督、『ハロウィン』シリーズの故ドナルド・プレザンスが主演した1971年のオーストラリア映画。オーストラリアの灼熱の砂漠地帯を舞台に、ビール、乱闘、博打、狩猟といった誘惑により、若い男性教師が破滅へ向かう姿を描いた作品である。 http://ift.tt/PbpREp 長年にわたり、『荒野の千鳥足』は“オーストラリアの失われた素晴らしい映画”としての定評を維持し続けていた。それもそのはず、1971年のカンヌ国際映画祭で出品された本作は、その後欧州、北米、豪州などで立て続けに公開されながらも、以後長年にわたりネガ、プリントが行方不明となっていたためである(*2)。もちろんオーストラリア本国でさえもテレビ上映はおろか、VHSやDVD化もされていなかったため、「幻の映画」と揶揄されていた。しかし、2004年に米国ピッツバーグにて良好なプリントが遂に発見され、待望のデジタル化。2009年にオーストラリアの映画館で上映されると、瞬く間に反響を呼び起こした。また、1971年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門出品時に「凄まじいほどに不快。視覚、物語、空気感、そして精神的にも素晴らしく、観る度に皮膚の裏側に衝撃が走る…」とまるで酷評のような絶賛をしていたマーティン・スコセッシだが、彼の推薦により、2009年カンヌ映画祭クラシックス部門でも上映された。 欧米ではリバイバル公開が大きな話題となり、特にアメリカでは「世界最高の映画館」とも言われるALAMO DRAFT HOUSEの配給によって公開、圧倒的な支持を集めた。いまや『荒野の千鳥足』は“オーストラリア・ニューウェイヴ(1970年代初期から80年後期にわたるオーストラリア映画の世界的流行)”の流れに大きく影響を与えた一作品として評価されている。日本では一度も公開されることなく終わっていた衝撃作がこの度、奇跡の映画館上映である。70年代独特の凄絶なバイオレンス描写と後味の悪さを期待できるだろう。 『荒野の千鳥足』は、9月27日(土)より新宿シネマカリテにてレイトショー上映。 (記事・内山ありさ) *1 映画.com http://ift.tt/1ndLNYD *2 Rooftop http://ift.tt/1kmxdgC *3 The Guardian http://ift.tt/O7ws1n



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2014年7月3日木曜日

[World News #050] 上映時間4時間!「過激な性表現」が持ち味のトリアー監督の新作 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』といった作品で知られ、近年は『アンチクライスト』『メランコリア』など「極限下における愛」を描いた、数々の問題作を発表してきたデンマークの巨匠ラース・フォン・トリアー。その1部・2部合わせて合計4時間となる新作『ニンフォマニアック』(=色情狂、nymphomaniac)が今秋、日本で公開されることが発表された。 (第1部は10月11日、第2部は11月1日、新宿武蔵野館やヒューマントラストシネマ渋谷など全国で公開予定) トリアー監督は、多くの作品内において過激な性的表現を行うことで知られている。例えば、1998年に発表された『イディオッツ』という作品。健常者であるにも関わらず、知的障害者のふりをして社会を挑発する一団の生態に迫った作品であり、その極度な反社会性が大きな話題を呼んだ。当時トリアーらが提唱していた映画運動「ドグマ95」とともに、世界各国に衝撃を与えることとなった。 『イディオッツ』の先駆性は、作品中に「演技ではない」セックス描写を取り入れたことにある。この作品を受けて、同様の傾向を持ったアート映画が次々と制作されることとなった。例えば、カトリーヌ・ブレイヤの『ロマンスX』(1999)や、ヴィンセント・ギャロの『ブラウン・バニー』(2003)などがそれに該当する。トリアーのこうした動きは、ヨーロッパでの女性向けポルノの波を先導することともなった。 そして今回発表された『ニンフォマニアック』は、トリアーにとって『イディオッツ』以来14年ぶりの、「演技ではない」セックス描写を含んだ作品。自らを「色情狂」と自覚した女性ジョーの、誕生から50歳までの「性の歴史」を描く作品になるということもあり、性描写以外にも色々な過激さを含んだ作品となりそうだ。 主人公ジョーを演じるのは、トリアー作品の常連で、『アンチクライスト』では衝撃のヌードを披露し、カンヌ映画祭主演女優賞を受賞したシャルロット・ゲンズブール。40歳を超えた彼女がどんな成熟した演技を見せるか、今から期待は尽きない。 余談ではあるが、「過激な性描写」「上映時間4時間」と聞いて、ジャック・リヴェットの『美しき諍い女』を連想する方もいるかもしれない。この作品は、正確には「過激な性描写」が持ち味の作品ではないが、全編にわたって映されるエマニュエル・ベアールの裸体が、「猥雑ではないのか」といった論争を呼び、公開時大きな話題を呼んだ。それから20年が経過した現在、「性」の表現がどれだけ進んだのか、比較してみるのも良いかもしれない。 若林良 映画公式サイト http://ift.tt/161Z3vW 映画評 http://ift.tt/18wYvRb http://ift.tt/JCJ9jk



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2014年7月2日水曜日

[ World News #049 ] クール・ブリタニアに学ぶ、オリンピックにおけるクリエイティブ産業の役割とは 先日、イギリスのデヴィッド・キャメロン首相が、1990年代の「クール・ブリタニア」政策を彷彿とさせるパーティーを開きました。クリエイティブ産業界を牽引する人々を招待したこの会には、女優のヘレナ・ボナム・カーターや、TVドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の女優ナタリー・ドーマー、映画会社ミラマックスの設立者で『恋に落ちたシェイクスピア』ではプロデューサーとしてアカデミー作品賞を受賞したハーヴェイ・ワインスタイン、またはBBCや20世紀FOXの重役などが参加しました。(#1, 2)  なぜ、クリエイティブ産業に対してこのようなもてなしがされるのでしょうか? 年に700億ポンドを越える利益を生み出すクリエイティブ産業は、いまやイギリス経済の柱だからです。キャメロン首相は「我々は他国と張り合えるような天然資源をもっていないが、文化的資源はもっているのだ」と言います。(#3) イギリスがクリエイティブ産業の可能性に自覚的になったのは、「ニュー・レイバー(新しい労働党)、ニュー・ブリテン(新しい英国)」を掲げるトニー・ブレア政権(1997〜2007年)においてでした。歴史しか取り柄のない老衰した英国というイメージを打ち破り、今をときめく若いエネルギーが溢れるモダンな英国のイメージを打ち出すことを目的とするこの政策は、音楽産業ではオアシス、ブラーに代表されるブリット・ポップを、アートではダミアン・ハーストに代表されるヤング・ブリティッシュ・アーティストを、ファッションではアレキサンダー・マックイーンら若手デザイナーを、映画産業では『トレイン・スポッティング』を監督したダニー・ボイルなどを広告塔に、クール・ブリタニア現象として世界に広まっていきます。もちまえの洞察力で国民の関心をつかむにはどうしたらいいかを心得ていたブレアは、首相官邸にオアシスのノエル・ギャラガーをはじめとする若手ミュージシャンやアーティストを多く招待し、前政権のサッチャリズムで傷ついた国民に希望を与えたのです。 こうしたブレアの文化政策のおいしいとこ取りをしているのが、現首相、キャメロンです。2012年のロンドンオリンピックのセレモニーは、みなさんの記憶に新しいのではないでしょうか? 開会式の総合監督を務めたのは、クール・ブリタニア時代から活躍しているダニー・ボイルです。労働者階級出身の彼は、上流階級から生まれたイギリスの伝統文化だけでなく、新旧のロックミュージックや英国映画をふんだんに取り入れ、かつてのクール・ブリタニアを彷彿とさせるポップでモダンな英国像を全面に押し出しました。閉会式は、ダミアン・ハーストがデザインしたユニオンジャックにはじまり、ポール・マッカートニーの「Hey Jude」の大合唱で幕を閉じました。ビートルズやストーンズが登場した1960年代当時は、イギリスのポップカルチャーは低俗な労働者階級の文化とされていましたが、オリンピックのセレモニーを通して、ポップカルチャーが階級を越えた英国の文化的アイデンティティを保証する存在となったことが、全世界に発信されました。いまや、イギリスにとってクリエイティブ産業は、経済的にも、文化的にも最も大切なものなのです。 このイギリスの例は、国の自己紹介の場であるオリンピックのセレモニーで、クリエイティブ産業が重要な役割を担うということを教えてくれます。2020年に東京オリンピックを控える日本も、「新しい日本の姿を世界に示すとともに、日本の伝統文化も称える」というコンセプトの開閉会式を予定しています。(#4) これを実現させるためには、まずクリエイティブ産業への意識を高め、イギリスのように官民共同で発展させていかなければならないでしょう。また、海外にアピールするためには、国民がその文化を自分たちのものだと自覚していることも重要です。たとえば、1998年の長野オリンピックの開会式は、全国の国民にとってはなじみのない長野の伝統文化に特化した内容であったため、盛り上がりに欠けるものになってしまいました。この7年間のうちに、クリエイティブ産業に対する日本国民の意識そのものを変えていくことが必要でしょう。映画産業としては、海外のコンペティションで受賞をするような質の高い作品の国内での認知をあげていくべきではないでしょうか。「大きなアイディアをもつ小さな島国」(#5) という共通点をもつ日本は、オリンピックのセレモニーで文化的アピールに成功したイギリスに続くことができるのでしょうか。来る東京オリンピックにむけて、クリエイティブ産業の役割をもう一度見つめ直す必要がありそうです。 お読みいただき、ありがとうございました。 Posted by 北島さつき ※写真は、世界中で絶大な人気を誇るイギリスのボーイバンド、One Directionの「One Way Or Another」のプロモーションビデオに出演したキャメロン首相。(このシングルは、英チャリティ団体「コミック・リリーフ」が主催するイベント 「レッド・ノーズ・デイ」のオフィシャル・ソングとして発売され、売り上げはすべて発展途上国に寄付された。) #1 The Guardian: David Cameron revisits Cool Britannia (with Michael McIntyre and Cilla Black) http://ift.tt/1qL0wyz #2 ベネディクト・カンバーバッチ、ハリソン・フォード、エマ・ワトソンといったAリストクラスのセレブリティは、パーティーに招待されていたと思われるものの、現れませんでした。 The Guardian: Cumberbatch and Harrison Ford top Cameron's Cool Britannia revival http://ift.tt/TvGDPY #3  #1と同出典 #4 東京オリンピック公式サイト http://ift.tt/Vc4uW7 #5 「ニュー・ブリテン(新しい英国)」政策の下敷きとなった『イギリス−われらのアイデンティティの再生』「創造力の島」の一節より。「創造力を培うには、画一性を求める圧力に抗し、新しさに価値を置く多様かつ挑戦的な社会を必要とする。それこそ創造性と発明の最前線にあって各分野で世界をリードしてきたイギリスの歴史であり、大きなアイディアをもつ小さな島の歴史なのである。」黒岩徹、『決断するイギリス ニューリーダーの誕生』、文藝春秋、1999年、26頁。 The INDEPENDENT: David Cameron's party was less Cool Britannia and more Game of Thrones http://ift.tt/V4tAWQ THE CONVERSATION: David Cameron’s ‘Cool Britannia 2’ – be there and be square http://ift.tt/Vz4NLn 黒岩徹、『決断するイギリス ニューリーダーの誕生』、文藝春秋、1999年



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2014年7月1日火曜日

Opinion: Here's Why Indie Filmmakers Need Guilds If They Want to Get Paid

[World News #048] 「今はインデペンデントで映画を製作するクリエイターにとって夢のような時代だ」そう言ってしまうこともできるでしょう。なにしろデジタルビデオカメラ、PC、そしてインターネットがあれば、製作資金の調達から撮影、編集、配給やプロモーションまでが可能なのです。映画製作は身近になり、観客へもリーチしやすく、皆がハッピーに……なっていないとしたら、いったいなぜでしょうか? もしかしたら、問題は収入かもしれません。映画製作のハードルが下がったことと比例するように、映画製作者に対するギャラも下がっているのです。IndieWireのアーシュラ・ローレンスはインデペンデント系映画製作者は、その情熱につけ込まれ搾取される傾向があると指摘します(残念ながら日本でも同じ状況かと思われます)。(1) ローレンスはその解決策として組合への加入を提案します。低予算のインデペンデント映画に関わる者こそ、組合の庇護が必要だと言うのです。同じ認識を持っている組合もあり、東部全米脚本家組合員(WGAE)は、従来のスタジオシステムのなかで働く脚本家だけでなく、低予算のインデペンデント映画の脚本家も組合を活用できるように、契約内容を更新。またインデペンデント映画製作者中心の幹部会を設立しました。組合の一員になることによって、インデペンデント映画の脚本家も賃金や創造的な権利の保護、そして年金を得ることができるようになるとのことです。 もちろんこの流れに対して疑念の声もあがっています。組合の一員になるための費用(組合費)と、その対価のバランスが取れているのか? 組合はインデペンデントな映画製作者が抜け駆けしないように囲い込みたいだけじゃないのか? などなど。WGAEはインデペンデント映画製作者の幹部会での議論を、組合員以外の映画製作者にもオープンにすることで疑念に応えています。結局のところ組合を今日的なシステムに更新することは簡単でなく、同業者のコミュニティのなかで広く議論することが必要だということでしょう。 日本人の私たちとしては、こういったクリエイターの組合活動がどれほど有効なのかピンと来ないところがありますが、全米脚本家協会は2008年に3カ月以上にも及ぶストライキによって、待遇改善を勝ち取った実績があります(第65回ゴールデングローブ賞がストのため中止になったことを覚えている方も多いのではないでしょうか)。(2)当時組合が要求したインターネットでの2次使用料の設定は、現状のネット視聴の増加を考えると非常に重要な改善でした。 実際は組合活動が根付くにはそれを受け止める土壌も必要ですし、組合が今日インデペンデントな映画制作者が陥っている問題に対する有効な解決策になり得るか否かは、今後の展開次第です。ただ、エンターテイメントの需要供給のスタイルが大きく変わっている現在、同業者が横のつながりを持って自らの立場を主張していくことは、業界の将来のためにも必要なのではないでしょうか。 蜂谷智子 (1)http://ift.tt/1kGnSz8 (2)http://bit.ly/1iL0W89

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