2014年11月11日火曜日

[World News #124] 映画監督への道は一つではない あなたが映画監督への道を志したとします。では、どうやってその夢を実現すれば良いでしょう?かつてスタジオシステムが存在した時代であれば、映画会社に入社し、脚本を書いたり助監督を経験した後、映画監督へと進出するコースが存在しました。しかし、それはもう過去の話です。今なら、映画学校に入って映画作りを学ぶのが最短コース?しかし、学校に入学して一本か二本の作品をそこで作り、やがて卒業したあなたは気づくかもしれません。自分は映画監督という仕事の「形」を学んだだけであって、本当に監督になった訳ではないのだ、と。では、映画監督になるのはどうすれば良いのでしょう?あるいは、映画監督という仕事は現在に於いて何を意味するのでしょう?映画監督になるとは、どういうことであるのでしょう? 90年代以降の米インディペンデント映画を代表する一人にホイット・スティルマン(#1)という監督がいます。残念ながら日本では正当に紹介されていませんが、ロメール的とも評される会話を主体としたユーモア溢れる群像劇で、世界的にファンの多い映画作家です。しかし、彼の映画監督としての道は決して平坦ではありませんでした。 1952年生まれのスティルマンは、ハーバード大学を卒業後、はじめジャーナリストとして職を得ます。しかしその職を失った彼は、スペイン人である妻の紹介からスペイン映画をアメリカTV局に売るセールスエージェントの仕事に就きます。その傍ら脚本を書き続けた彼は、自らのアパートを売却し友人たちからの援助も加えて集めた500万円ほどの資金を元に処女長編『メトロポリタン』(90)を監督します。この作品で高い評価を得たスティルマンは、続いて『バルセロナの恋人たち』(94)『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』(98)を発表し、いずれも現在では90年代米インディペンデント映画のクラシックとも呼ばれる名声を確立しました。 ところが、その後プロデューサーと共にイギリスのスタジオで様々な企画を手がけたスティルマンはいずれも実現することができないまま13年間の時を過ごしてしまいます。その意図せざる沈黙の後に発表した『ダムゼル・イン・ディストレス』(2011)では、インディペンデント映画の女王グレタ・ガーウィグを主演に迎え、再び現役へと復帰。現在は、Amazonオリジナルシリーズの『The Cosmopolitans』を撮影しています。 ポーランドで開催中のアメリカ映画祭でレトロスペクティヴが開催されたスティルマンは、自らの波乱に満ちた人生を振り返りつつ、映画監督への道について次のように語っています。(#2) ■映画監督への道について できるなら今すぐビジネスに飛び込んだ方が良いよ。でも、それが上手く行かなかったとしても別の道がある。早熟なタイプもいれば晩成型もいる訳で、僕は後者だと思うね。大抵の場合、物事が上手く行く瞬間というのがあるわけで、たとえば、君がたまたま会うべき人の隣に座っていて、話すべき事を話したとか、そういうタイミングが必要なんだ。 小説家には、すぐに物書きで成功しなかった作家を羨む人たちがいる。成功するまでに別の仕事をして別の世界で生きてきたからね。例えば、フィッツジェラルドはジョゼフ・コンラッドが船乗りだった事実をすごく羨ましがっていた。僕の場合もコンラッドほど魅力的でもロマンチックでもないけど、幾つかの異なった世界で働くチャンスはあった。 (フェルナンド・トルエバやフェルナンド・コロモといったスペイン人監督のセールスエージェントとして働いていた時)僕はトルエバに頼まれてアメリカ人の奇妙な精神分析医の役を演じたことがある。そこで、映画がどのように作られるのか見ることができたわけだ。後に『バルセロナの恋人たち』となるスクリプトもそこで書いていたんだけど、外国で映画を作ることはとても難しく、とてもお金のかかることであり、とりわけ処女作で選ぶべき選択肢ではないと気づいた。だから合衆国に戻って、可能な限り最もシンプルな方法で映画を作る道を探ることにしたんだ。 ■フィクションか脚本か はじめ、僕はフィクションを書きたかった。フィッツジェラルドや僕の尊敬する小説家のコピーをしたかったんだ。でも、ある時壁にぶつかった。そして脚本を書くのが怖くなった。僕はただ映画を監督したかっただけなのに、そのために脚本を書かなくちゃいけなかったんだ。でも、やがて学んだんだけど、映画脚本の素晴らしいところは、どの登場人物も自分自身の語り手であるということなんだ。そしてその語り手は、君以外の誰か役者が演じてくれる。『メトロポリタン』の製作中、ある瞬間から役者たちが自ら自分自身の役を作り上げていくことに気づいた。自分自身の事実を語り始めたんだ。 たいていの場合、僕は最近起こったことをそのまま脚本に書くことができない。それは過去から少しねじ曲げられなくちゃいけないんだ。自伝的な内容を直接書くべきじゃないと思う。本当に創造的なのは、自伝的内容をスクリーンにそのままのせることではなく、ボンヤリした記憶の膜を通じて物事を改めて作り上げることだと思うんだ。こうした作業によって、アイディアは結合し形を為していく。現実に起きた出来事から変化していくことになるんだ。 ■主題を見つけること 君が最初に脚本を書き始める時に最も大切なことの一つは、君が長い間魅了され続けていて、しかも他人も魅了されると思う主題を探し出すことだ。そこには、なにかセクシーな側面がある筈なんだ。かつて映画監督のエイブラハム・ポロンスキーは、あらゆる映画にはポルノ的要素があると話していた。僕はポルノは嫌いだけど、ある種の主題にはそうした身震いするような興奮があることは間違いないね。 僕が(13年もの)長い間映画を撮ることができなかったのは、原作ものの脚色に取り組んでいて、物事を伝統的なやり方で進めようとしていたからなんだ。つまり、プロデューサーと相談しながら、様々なオプションを前に選択し続けていた。その結果、できあがった脚本は、もはやその映画化権を自分が所持していないなんて事実に突き当たる訳だ。 僕の映画授業のクラスとか、あるいは映画祭に作品が出品された25才くらいの若い映画監督の作品を見ていると、たいてい10才くらいの少年を主人公に描いた悲しい物語であることが多い。でも、世の中に10才の少年の悲しい映画を見たいと思う観客はそんなに沢山いるわけじゃない。君は何が観客の興味を引くか、そしてそれが同時に自分にとって興味深いものであるかについて、もっと注意深く考える必要があると思う。 ■バジェットの問題 『ラスト・デイズ・オブ・ディスコ』は予算が大きすぎた。たとえ君がこの映画にはこれだけの予算があってこれだけの事ができると言われたとしても、それが作品にとって本当に良いことか改めて考えるべきだと思う。あの作品はワーナーから資金が出ていたが、そのためスタジオのやり方で物事を進めなくちゃいけなかった。組合の規定とか、そういうのだ。そして僕たちは彼らに喜んでもらう必要もあった。だから大きなナイトクラブで撮影しようなんて考えた訳だ。でも、それが良い選択とは限らない。小さな場所で撮影した方が良いことだって多いんだ。この結果、広大なナイトクラブと膨大な組合規定と、それにナイトクラブを人で埋めるためだけの桁外れの予算ばかり手にすることになってしまった。あれは完全な間違いだった。今や大きなディスコを見るだけで恐怖を感じる程だよ。20人ほどの友人たちが踊る小さなディスコこそが、僕の考える楽しい空間だ。 ■低予算の代替案を持つこと 僕の最大の失敗は、こんなにも長い間映画を撮らなかったことであり、そしてその事実に向き合わなかったことだ。この失敗から学んだ教訓はこういうものだ。つまり、常に低予算の代替案を持つこと。自分の脚本を他人に売ってしまわないこと。あるいはその必要があったとしても、いつでも買い戻せるようにしておくこと。そしてその脚本をお金なしで撮る方法を見つけることだ。低予算で『戦争と平和』を撮る方法だって世の中にはある筈なんだ。失敗を解決するには、起こり得る事態をコントロールするしかない。自分自身で道を切り開いて、その責任を引き受けるんだ。僕の場合、スタジオとプロデューサーに責任を委ねてしまった。全ての幻滅がそこに始まった。それはプロデューサーの世界なんだ。彼は良い奴だったけど、結局はビジネスマンなんだよ。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ #1 http://ift.tt/Xd9OKd #2 http://ift.tt/1tTmwdI

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