2014年6月4日水曜日

Les Inrocks - Festival de Cannes : On ne change pas ? Alors mutons

[ World News #028] 変化を待ちわびて 変異する人々 第67回カンヌ映画祭が閉幕し、受賞作品などが発表されたが、実際に映画祭に参加した人たちは今回の映画祭をどのように感じていたのだろうか。元カイエ・デュ・シネマ編集長、現カルチャー誌・les inrocks(les inrockuptibles)編集長のジャン=マルク・ラランヌが本映画祭に見た現在・今後の映画の未来について触れていきたい。*(1) ちなみに、カンヌ映画祭が始まる前にles inrocksでは同雑誌の記者であるジャン=バティスト・モランによって、映画祭の上映作品に関する意見が述べられているが、その内容は些か悲観的なものだった。*(2) というのは、今回の映画祭はフランスの映画監督や大御所の映画作家たちの出演が多く見られ、思いがけない発見が僅かにしか感じられないラインナップであるからだという。その背景には、これまでカンヌ映画祭の総裁を務めてきたジル・ジャコブ氏の引退に花を添える為のラインナップだったのかもしれないが、その真意はさて置き、確かに新たな才能を発見するというよりは、既に著名な監督たちが名を連ねていたようにも見える。 そして今回の映画祭の総評として、ジャン=マルク・ラランヌはとても多様性に富んだ映画祭であるのに対し、期待はずれのパルムドールだったと、かなり過激的な文章を寄せている。*(3)  「少なくとも言えることは、ジェーン・カンピオンと彼女の審査員たちは私たちと同じ映画祭を過ごさなかったという事と、またコンペティション部門にて私たちも共に見て、駆け巡ったはずの世界の映画の風景とは違う道を歩んだようだ。唯一の一致は:ジュリアン・ムーアの女優賞、『Maps to the stars』における彼女の溢れんばかりの演技に対してぐらいのものだ。クロネンバーグの残酷で愉快な映画はカンヌ映画祭の中でも最も刺激的なものだったが、他のすべては表彰台に存在さえしなかった。オリヴィエ・アサイヤスの『Sils Maria』、ベルトラン・ボネロの『Saint Laurent』、ダルデンヌの『Deux jours, une nuit』といった私たちの心をとりわけ掴んだ、これらの三作品でさえ審査員たちの関心を引くことはなく、私たちは困惑した。」*(3)  無論、こういった批評家と映画祭の審査員の意見が異なるのは毎度の事だが、ジャン=マルク・ラランヌの不満は決してヌリ・ビルゲ・ジェイランの『Winter Sleep』が悪い作品であるということを指摘しているのではなく、むしろパルムドールを受賞するだけの野心的な作品で、ポスト・ベルグマン的な流れを汲んでいる、現在でいうところの「傑作」と呼ばれる部類の作品であるということは彼も認めてはいる。しかし、その言わば順当な「傑作」作品ゆえに、現代における映画のコンテクストからすると些か時代遅れだと感じ、本映画祭の全体的な受賞結果にその傾向が見られることに対して、不満を示しているのである。では、彼が本映画祭に見た可能性とは何だったのか。 ジャン=マルク・ラランヌは今回のカンヌ映画祭では多くの映画が人生、自分という存在を変える可能性・・・または別の生物へと変わる可能性を問いている作品が見受けられたという。人が生まれ変わることは果たして本当に可能なのか。 その問いに対して「我々は変わらない」と答えるのがクザヴィエ・ドランの『Mommy』において定められているビジョンだという。如何なることが登場人物たちに訪れようとも、彼らを変化させる要因とはなりえず、一つのレールに従うように、一直線に突き進んでいく。そういった登場人物たちが今年のカンヌで多く見られたという。(例えばアンドレ・テシネの『l'homme qu'on aimait trop』におけるカトリーヌ・ドヌーヴや、クロネンバーグの『Maps to the stars』における近親相姦による子供たちなど) ならば、自分ではなく他人を変えることは可能だろうか。 そういった可能性が『Deux jours, une nuit』のマリオン・コティアールに見られるものの、それもまたどこか否定的だという。それでは、他に残された術は? その一つの答えとして、パスカル・フェランの『Bird People』では登場人物にちょっとした奇跡が用意されているようだ。それは:突然変異だという。自分の生き方を変えるために、登場人物が自分の妻や仕事さえも捨て、国を後にしたりすることはあるが、もし自分を別の生物へと変えることが出来たとしたら、どうするだろうか。それが作中の若いメイドの登場人物に訪れ、彼女はスズメへと身を変える。 「しかし、スズメへと身を変えたところで結局は何も変わらない。フクロウによって身を貪られるか、仕事によって身を貪られるかの、同じ生存のリスクを背負うことになるからだ。」*(1) こうした動物の特性や習性に象徴的、寓話的解釈を与えるような演出が他の作品にも見当たるという。(ライアン・ゴスリングの『Lost River』における喉を切って殺されるネズミや、河瀨直美の『二つの窓』においてドラゴンの刺青が別の登場人物へと滑り混むときなど。) 「ジャン=リュック・ゴダールの『Adieu au Langage』では「私たちに子供は出来ないだろう。だが犬は出来るだろう」というのが聞こえてくる。もし、進化の連鎖が逆過程を辿ったとしたら?もし、人間の子孫が動物だったとしたら?鳥になり、犬をもうけ、人間中心主義から食み出でること。ゴダールのように犬の皮膚や脇腹へと折られた足を、来るべきイメージとして映したものは他に居ない。確かに、私たちは変わることはない。ならばいっそ変異してしまおう。」*(1) どうやらジャン=マルク・ラランヌは本映画祭で、人々が新たな生を獲得するのを見出し、映画が生まれ変わりつつあるという印象を受け取ったようだ。だからこそ、些か保守的過ぎるほどの今回のカンヌ映画祭の受賞結果に納得がいかなかったと思われる。これはあくまで彼の個人的な意見にすぎず、必ずしも正しいというわけではない。しかし、だからこそ、新しく生まれつつあるものの傍らに立つのがいかに難しいことなのかを否応なしに意識させられることでもある。どのような態度を持って来るべき、また誕生しつつある映画を擁護すれば良いのか。だが、その誕生を見守れたらどんなに幸せなことなのだろう。 果たして誕生するのは、動物なのか、それとも怪物なのか。せめて、それを見届ける準備に備えておきたいものである。 http://ift.tt/1i0xcON http://ift.tt/1i0xd53 http://ift.tt/1oVX4mp

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