2015年2月26日木曜日

Congratulations to the 2015 Film Independent Spirit Award Winners!

[World News #173]アカデミー賞前日に発表されるスピリット・アワードとは 先日アカデミー賞が発表されて日本でも大いに盛り上がりましたが、皆さんはインディペンデント・スピリット・アワードをご存知でしょうか。この賞は毎年アカデミー賞の前日に、いわばアカデミー賞に対抗して、インディペンデント系の映画を評価するべく発表されます。開催の理念的な説明は以下のようにされています。 「30周年を迎えたインディペンデント・スピリット・アワードは、毎年、単純にインディペンデントであり、かつオリジナリティーがある監督たちの作品を讃えてきました。スピリット・アワードはこれまでに、アメリカそして世界のインディペンデントな監督たちの功績を評価し、そのなかで最も優れた作品をより多くの人に広めようと努めてきました。賞はフィルム・インディペンデントとインディペンデント・フィルムメーカー・プロジェクト(通称IFP)のメンバーによる投票で決まります。」(*1) http://ift.tt/1A9D1Rx http://ift.tt/1EtQjP3 今年の受賞作は上のリンクの通りですが、面白いのはアカデミー賞と多くの作品が被り違った賞や同じ賞を与えられているということです。『バードマン』、『6歳の僕が大人になるまで』、『アリスのままで』、『CitizenFour』などの中で、例えばアカデミー賞ではアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥが監督賞を受賞したのに対し、スピリット・アワードではリチャード・リンクレイターに対して監督賞が与えられました。今度は主演女優賞はアカデミー賞と同様にジュリアン・ムーア(『アリスのままで』)に与えられる、などです。 アカデミー賞と何が違うのでしょうか。しかし、ここまで被ってくるのは今年が特別なだけです。それだけ今年のアメリカ映画が、インディペンデント的に優れた映画が前に出てきた状況を示していると言えるかもしれません。 実際には2000万ドル以下の作品が選考基準となっています。したがって、そこにはアカデミー賞では選ばれない多くの作品がノミネートされているということになります(逆に言えば除外される作品も多くあります)。そして、オスカーを逃したベネット・ミラーの『フォックスキャッチャー』が特別賞で拾われていることなども注目に値します。 ただし、重要なのは以下の1990年にマーティン・スコセッシが示した基本方針だと思われます。「インディペンデントであるということは、スタジオ制作の下で行わない低予算の映画を意味するわけではない、インディペンデントであることは出来る限りのインスピレーションからイノベートしていくための、単なる手段に過ぎない」(*2) そもそも、選考基準が2000万ドル以下の低予算でありながら、インディペンデントな作風を持った優秀な作品が、多くの観点から評価されるのは喜ばしいことです。それだけ多彩な評価が映画の多様性を広げていくことにも繋がるからです。となれば、アカデミー賞以外での映画評価の枠組みを広げていく試みとして、スピリット・アワードは上手く機能しているのではないでしょうか。 最後に、ジョン・カサヴェテス賞という50万ドル以下の制作費で撮られた映画に与えられる賞があることを記しておきます。今年は、『Land Ho!』という作品が選ばれました。監督はアーロン・カッツとマーサ・スティーヴンスのふたりです。アーロン・カッツ監督はマンブルコア派の中心的監督の一人として有名です。 (*1) http://ift.tt/17Iv8f1 (*2) http://ift.tt/1EtQkTh 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA 映画雑誌NOBODY http://ift.tt/1iv7YL4 横浜国立大学人間文化課程 http://hs.ynu.ac.jp/

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2015年2月25日水曜日

菊地凛子が米国初主演 「トレジャーハンター・クミコ」:朝日新聞デジタル

[World News #172] 菊地凛子主演、『トレジャーハンター・クミコ』のサウンド・トラックを一部公開  ゼルナー兄弟の最新作『トレジャーハンター・クミコ』(原題:"Kumiko, the Treasure Hunter")が米国で公開されるまで、もう数週間待たなければならない。その公開に先立ち、本作のサウンド・トラックから「Bunzo」「Hotel Clock」の2曲がSoundCloud上で視聴可能となっている。楽曲を担当したのは、テキサス州のオースティンを拠点に活動するインディーズ・エレクトロバンド、The Octpus Projectだ。  本作の主演・クミコを務めるのは、ゼルナー兄弟から直々にオファーを受けた女優の菊地凛子。あらすじは以下の通りだ。会社員としてしがない生活を送るクミコ。あくる日、『ファーゴ』のビデオを見た彼女は、作品の内容をドキュメンタリーと勘違いし、劇中で起こった出来事を現実と思い込んでしまう。ビデオの中でカール(スティーヴ・ブシェミ)が大地に埋め込んだ埋蔵金を発掘しようと、彼女は米北部を目指し一人旅に出るのであった。  実はこの作品は、ある奇妙な噂をモデルとしている。菊地凛子が演じているクミコはコニシタカコという実在の女性であり、彼女こそ『ファーゴ』の埋蔵金の真相を確かめるために実際にアメリカを訪れた人物として、ひとつの都市伝説を作り出している張本人なのである。2001年、ノースダコタ州で凍死状態で発見された彼女のニュースがネット上で取り上げられたことにより、悲劇的な日本人女性の噂は爆発的に広まったのだという。なお『ファーゴ』の冒頭では、コーエン兄弟により「これは実話である」という有名なテロップが流される。  本作はニューヨークのインディーフィルム配給会社であるAmplifyにより、3月18日から米の劇場で封切られる予定だ。日本での公開日はまだ未定だが、SoundCloud上でいち早くこの映画の持つ神秘的な雰囲気を味わっておきたいところである。 予告編 http://ift.tt/17VEaWa 「Bunzo」 http://ift.tt/1BpqWPj 「Hotel Cloak」 http://ift.tt/17VE8h3 西山晴菜 (早稲田大学文化構想学部) 参考 http://ift.tt/1BgrTJE http://ift.tt/1BpqZKP http://ift.tt/1BpqYGP

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2015年2月24日火曜日

Les Inrocks - Grover Lewis : Nouvelles des étoiles mortes

[World News #171] グローバー・ルイス、 ニュー・ジャーナリスムと映画を繋いだ書き手  ニュー・ジャーナリスム(あるいはゴンゾー・ジャーナリスム)と聞くと、トム・ウルフやハンター・S・トンプソンといった人物が真っ先に思い浮かばれるかもしれないが、同時代に彼らと肩を並べて活躍したライター、グローバー・ルイスという存在も忘れてはならない。彼はローリング・ストーンズ誌で1971年~1973年に掛けて活躍し、ピーター・ボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』について書かれた記事「Splendor in the Short Grass」で注目を集める。またポール・ニューマン、ジョン・ヒューストンやサム・ペキンパーなどの撮影現場へ実際に赴き、ノンフィクション形式のインタビュー記事などを執筆する。(*1) 「ジェンソンは自分のマティーニを半分ほど飲み干すと、筆者の煙草を一本くすねた。そのすぐあとに自分の手のひらでテーブルの上を叩き、まるでライフルの射撃のような音が鳴り響く。レストラン中の頭という頭がこちらを覗きこむ。「するとお前がこのくそったれたエル・パソ・デル・ノルテに来たのは、サム・ペキンパーの爺さんについて記事を書くためなのか?」と彼はあざ笑い、自分の爪でマッチに火を付ける。「やべぇな。ハハ、そいつはデカイ取引だぜ、坊主」ジェンソンは時折「うーん」という言葉を発した。「馬鹿げてるな。サムはおそらくお前と話すことすらないぞ。というか一体全体お前は誰だってんだ?どちらにしろ、彼は10日間に渡っていかに自分が卓越しているのかを語っていた、エスクァイア誌の頭の鈍い、嫌味なやつを丁度追い返したところだ。まぁ聞けよ。うーん、お前、腕相撲かナイフファイトでもやらないか? 筆者がにやにや笑いながら拒否すると、ジェンソンはわけのわからない不満をぶつぶつ呟いたあとで、火を付けたばかりの煙草を押しつぶし、すぐに新しい煙草に火を付けた。「聞けよ、うーん、サム・ペキンパーの爺さんについて本当のことを知りたいか?きっと知りてぇんだろうな。じゃあ、言わせてくれ。彼はくそったれの犯罪者だ。いやつまり、うさんくさい目つきで人を陰で中傷するような、くそやろうだ。彼はひどい奴で、美しく、素晴らしく、すげぇ魔術師で聖人でもあるんだ。彼はとんでもねぇ男だ、うーん。とんでもねぇ人間だ」(*2)  これはサム・ペキンパーの『ゲッタ・ウェイ』の撮影に関する記事「Sam Peckinpah in Mexico」の冒頭部分からの抜粋であり、『ゲッタ・ウェイ』に出演するロイ・ジェンソンとのインタビューの様子が伺える。ルイスは対象の仕草や言葉遣い、また情景などを事細かく描写するため、まるで筆者(The Writer)というカメラのレンズ越しに、当時の撮影現場に居る人々を実際に見ているかのような錯覚に陥る。それは筆者としての「私」の考えなどがあまり現れず、筆者の質問も描かれないため、登場人物たちは「私」である筆者、つまり私達(読み手)に向かって話しかけているようであり、その当時の人々と直に向き合っているかのような感覚を与えている。故にルイスのテクストはまるで当時のメイキング・ドキュメンタリーを見ているかのような印象があり、それは彼が単に事実としての正しさにテクストの内容をフォーカスするのではなく、人物との肉迫した関わり合いにおいて、彼が生きていた当時の良い部分と悪い部分も引っ括めて、描写して見せているからではないだろうか。  グローバー・ルイスの記事は今となってはそれこそ貴重な歴史的資料としての価値も備えており、こういった試みが映画の記事において行われていたことを知ることは、一人の男が映画に捧げた情熱を垣間見ることでもある。今月の6日にカプリッチからルイスのテクストを集めた書籍がフランス語に翻訳され、出版されており、いつか日本語でも読める日が来ることを願うばかりだ(*3) 「これらのテクストを読み返すと(その幸運にただ感謝すべきだが)、かの輝かしい年代と我々の時代との距離は計り知れない。どうやってこのような潜入取材が、プレス・ジャンケットやスカイプ・インタビュー、視聴者参加型番組の時代に考えられるというのか?誰が『バードマン』や『アンブロークン』、または『アメリカン・スナイパー』などの現代における馬鹿げた撮影現場に潜入したいというのだろうか?記事が出版されることはまずないだろうし、もっと悲しむべきことに、誰の関心も引かないのかもしれない。それは、私達にとって、映画が持つ内容と重要性が変わってしまったからだ。何故なら、逆説的だが、映画がありえないほどの事前予告、メイキング・オフやテレビ特集などの波と共にやってくるため、すべての関心ごとは失われてしまっているのだ。 ルイスや他の者達によって実践された潜入取材は、ただ「情熱」によって機能することができたのだ:彼らが映画に対して抱いていた情熱。私達が映画に抱いている情熱。そして雑誌の編集長が映画に抱いていた情熱。この美しい本をぜひ捲ってみて、夢想してほしい:最後の文章の題名は『僕の頭のなかにある古い映画』だ。」(*4) 楠 大史 http://ift.tt/1JH9326 (*1) http://ift.tt/1JH90U4 (*2) http://ift.tt/1zCWb36 (*3) http://ift.tt/1F2KzgF (*4) http://ift.tt/1zCWb39

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[World News #170] ポーランド映画『イーダ』が第78回アカデミー賞外国語映画賞受賞!  今年も、アカデミー賞の季節がやってきた。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』が作品賞、監督賞、脚本賞、撮影賞の4冠に輝き、激戦を制した。(*1)  そんな中、外国語映画賞部門で、ロシアのアンドレイ・ズヴャギンツェフ監督『Leviathan(原題)』や、先日セザール賞7冠に輝いた『Timbuktu/ティンブクトゥ』などを抑え、パヴェヴ・パヴリコウスキ監督によるポーランド映画『イーダ』がオスカーを勝ち取った。(*2) 初めてこの賞にノミネートされたポーランド映画は、ロマン・ポランスキー監督『水の中のナイフ』(1963)である。ポーランド映画はこの部門に10回ノミネートされており、そのうちの四作品は『鉄の男』(81)『カティンの森』(07)などアンジェイ・ワイダ監督の作品で、近年では『ソハの地下水道』(11)がノミネートされていた。そして、『イーダ』が初めてのアカデミー外国語映画賞受賞作品となった。(*3)『イーダ』は、2013年にロンドン映画祭で最優秀賞に選ばれてから、世界の映画関連の賞レースのなかで有力な候補として挙げられるようになり、英国アカデミー賞で外国語映画賞、ヨーロッパ映画賞で作品賞に輝いた。(*4)パブロフスキ監督は、生活と映画製作の拠点をロンドンに置いており、北米ではエミリー・ブラントのテビュー作『マイ・サマー・オブ・ラブ』(04)などで知られている。(*5)  プレゼンターのニコール・キッドマンとキゥエテル・イジョフォーから名前を読み上げられ、壇上へと上がったパヴリコウスキ監督は、興奮さめやらぬ様子で受賞の喜びを語った。  “どうしてここに辿りついたんだろう?白黒の、世界から身を引いた静寂と黙考の場所についての映画をつくったのに、いま、こうして世界の喧騒と注目の真ん中に立っている。素晴らしいよ、人生は驚きに満ちている。”  途中で二度も音楽によるスピーチの締めの合図が流れたものの、監督はその後も早口で広大な謝辞のリストを述べ続け、観客からは笑いと温かい拍手が送られた。(*6)  1962年のポーランドを舞台に、カトリックの修道女として聖職に就ことする一人の若い女性を、多くのロングショットと最低限のセリフで描いたこの映画は、飾り気のないドラマティックな映画である。赤ん坊の頃に孤児として修道院に引き取られた主人公は、修道女になる前に外の俗世界へ数日間送られることになり、そこで存在すら知らなかった唯一の親戚の叔母と過ごすことで、自身のアイデンティティーに関する事実を発見していくという物語である。(*3)(*2)  しかし、2013年10月にポーランドで公開され、ポーランド映画賞で最優秀賞を含めた四つの賞を受賞し、国内の主にアート系映画を愛する映画ファンおよそ12万人に見られたこの映画が、ポーランド国内である議論を呼んでいる。(*7) ポーランドの名誉毀損防止組合が、第二次世界大戦でのドイツによるポーランド占領についてきちんと表現しておらず、反国家的で、特に欧州の歴史について詳しくない観客にホロコーストについて間違った印象を与えかねないとしてこの作品を批難しているのだ。そしてこの組織は、‘1939年から1945年までポーランドはドイツの占領下にあり、死に値する行為であったにもかわらず、多くのポーランド人がユダヤ人を匿った’という事実を今一度はっきりさせるために請願書を提出。四万人もの署名が集まっている。これに対しパヴロフスキ監督はばかばかしいと一蹴した。(*7)   “その四万人の署名者のなかで実際に映画をきちんと見た人は何人いるのだろう?この作品は歴史を語るために作ったわけではない。物語は、人間らしさとパラドックスを抱えたとても複雑な登場人物たちに焦点を当てている。あるイデオロギーや歴史の見方について解説しているなんてことではないんだ。人生は複雑だろう?なのになんで芸術が複雑じゃ駄目なんだ?”  “作品がブラジル、スペイン、フィンランドでも温かく迎えられたのは、作品の詩的さがその時間や場所を超えて訴えかけるものがあったからで、彼らがポーランドの歴史についての教養があったからではない。その署名をした‘愛国者’たちは、本気で『イーダ』を見にいく観客たちがドイツによるホロコーストでの残虐行為について知らないとでも思っているのだろうか?”  監督は、この映画がポーランド映画であることを誇りに思っており、“ポーランド映画は優れた伝統を持っている。しかし、キシェロフスキ以降、世界に衝撃を与えてはいない。こんな我々の国のイメージを傷つけ辱める人工的に企まれた論争などではなく、『イーダ』という作品そのもので衝撃を与えるべきだ”と述べた。(*7) アメリカ映画界で最高の栄誉とされるアカデミー賞を受賞し、全世界にその名を轟かせた『イーダ』は、本国の論争を尻目に、これからもっと様々な人々に見られ、評価されていくだろう。パヴロフスキ監督の次回作にも期待したい。  『イーダ』は、現在イメージフォーラム渋谷にてアンコール上映中である(上映は3/6まで、連日21:00~)。(*8) 静かで美しいモノクロ世界のなかで自身と向き合うひとりの少女の姿を、ぜひ劇場で目に焼き付けて欲しい。 松崎舞華 IndieTokyo のTwitterを再開しました。ぜひフォローお願いします!(@IndieTokyo) イベント部門も、今メンバーで企画を練っているところです!お楽しみに! 参考 #1) http://ift.tt/1vZHEgo #2) http://ift.tt/1El5bzg #3) http://ift.tt/1DNJDuG #4) http://ift.tt/1JARLng #5) http://ift.tt/1a1IDbz #6) http://ift.tt/1DNJG9N #7) http://ift.tt/1wFFuSi #8) http://ift.tt/1oSNHid

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2015年2月23日月曜日

[World News #169] Gaumont社がローレル&ハーディをアニメ化! Gaumont社は、120年の歴史を持つフランスの映画製作会社だが、そのアニメーション部門が、ローレル&ハーディをもとにした2Dアニメシリーズを制作することを発表した。 ローレル&ハーディは、1920年代から大ブレイクした背の低い細身のスタン・ローレルと背が高く太ったオリバー・ハーディのコンビ。100作以上の作品に出演し、チャップリンやバスター・キートンと並ぶコメディ俳優として活躍した。 Gaumont社は、アニメ化する権利をかねてから取得していた。1966年に一度目のローレル&ハーディアニメが放送されてからおよそ50年が経った今、ようやくもう一度ローレル&ハーディを世に出すことにしたのだという。 Gaumont社アニメーション部門のディレクターであるPierre Belaïsch氏は、再アニメ化について以下のようなコメントを発表した。 「ローレル&ハーディは、間違いなく世界で最も有名なコンビのキャラクターです。このユニークなキャラクターを復活させることが、私の長年の夢だったのです。1966年にHanna-Barberaが156話のアニメを作り、世界中のファンをとりこにしました。私たちは一新したキャラデザインと新しい物語で、スラップスティックのユーモアあふれる二人の物語を世界中に届けたいと思います。」 この喜劇シリーズは、1話7分のエピソードが78話で構成されており、5歳から8歳の子供向けに作られるが、ローレル&ハーディを愛するすべての年代の観客を満足させられるような作品になるとのことだ。 実写ローレル&ハーディの映画は、現在DVDで入手可能。このタイミングで合わせて復習したい。 則定彩香(のりさだちゃん) 横浜国立大 参考 http://ift.tt/1EwMvdI ローレル&ハーディ『極楽ピアノ騒動』 http://ift.tt/1a0AhRu

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2015年2月20日金曜日



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[ World News #167 ]  ポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所に収容されていたユダヤ人がソ連軍によって解放されてから、先月27日で70年が過ぎました。同日、ポーランド各地では記念式典がおこなわれ、各国の元首相や市民など、記憶を継承しようとする人ら2500名が集まりました。    そして現在。渋谷・イメージフォーラムではクロード・ランズマン監督『ショア』が公開されています。ドキュメンタリー映画に関心を持つ人であれば、一度ならず幾度もこの名前を聞いたことがあるはずです。『ショア』はヘブライ語で「ホロコースト」を意味します。本作はホロコーストを実際に体験し、70年が経とうとする現在もその記憶とともに生きる人々の「証言」を克明に記録したもので、4部に分かれた作品すべてを見るのには9時間以上を要します。製作期間は12年。ランズマンは、合計350時間分の映像を記録し、編集には5年を費やしたといいます。しかし、その中に当時の映像は一切使われていない。すべては、体験者のインタビューと、映画撮影当時のフッテージによって構成されています。本作がドキュメンタリーであるか、そうでないのか?ーー『ショア』はそうした問題から遠く離れたところから出発した作品です。    ランズマンは2011年、当時の大統領アハマディネジャドと接見するため、イランを訪れています。アハマディネジャドをはじめとするイランの要人のなかには「大量殺戮はなかった」とする人間もおり、ランズマンにたいして映像で「証拠を見せろ」と、つまり遺体の映像を見せるよう求めたといいます。ランズマンはガーディアン誌のなかで、当時のことについて次のように語っています。 “私は“ホロコーストにおいてはただ一人の遺体も存在しない”と彼らに語りました。トレブリンカ、ベウジェツ、ソビドル(※註 いずれもポーランドに存在した強制収容所)に到着した人間は、2、3時間もしないうちに殺害され、遺体は焼却された。この場合、証拠というのは「遺体がないこと」(the absence of corpse)なのだ。そう彼らに語ったのです”  この記事を執筆したガーディアンの記者は、ランズマンの葛藤について、次のように書いています。 “映画の冒頭で、ランズマンは哲学者であるレイモンド・アロンの次のような言葉をひいている――「私は理解している、しかし信じることができない。なぜなら、私がそれを信じることができないからだ」。ランズマンもまた、この言葉と等しい問題を抱えていたのだ。ランズマンにとっては、言葉による証言こそが、『ショア』のなかで最も重要な構成要素となり、事実を理解する唯一の方法となった”(※1)  2012年の「ニューヨーカー」の記事では、本作について次のように書かれています。 “ランズマンは『ショア』を「事実を虚構化したもの」(a fiction of real)と呼んだ。彼は自分が引き受けようとする倫理的な課題について自覚的であったが、同時に自分が「真実を伝えること」そして「美しい作品を作ること」という命題に従っていることを信じていた。「伝達しえないことを伝達するため」に。結果として本作は、アドルノが話した「アウシュヴィッツ以降に詩をつくることができるだろうか」という問題への、明確な返答となっている”(※2)  今回の上映では、『ショア』以後に製作された、同じくホロコーストを体験した人々のインタビューによって構成される『不正義の果て』と『ソビブル、1943年10月14日午後4時』も公開されます。映像に映された「証言」は、現在においてどのような意味を持ちうるのでしょうか。 ※1 "Guardian" 9th June, 2011 Claude Lanzmann on why holocaust Documentary Shoah still matters  http://ift.tt/10zvgL0 ※2"New Yorker" March 19, 2012 "Witness -- Claude Lanzmann and the making of "Shoah"" http://ift.tt/1AR3xWL イメージフォーラムにて3月6日まで http://ift.tt/1Ar2uJF  井上 遊介(映画批評MIRAGE)

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2015年2月16日月曜日

[World News #165] ロジェ・アナンについてあなたが知らない(かもしれない)3、4つのこと 先日、89歳で亡くなられたフランスの俳優ロジェ・アナン氏。フランス映画が好き!スパイ映画が好き!という人は、1度は聞いたことがある名前でしょう。彼は、89年から2000年代後半にかけて仏国内で放送された連続テレビドラマ「ナバロ警部」や様々なスパイ映画に出演し、国民的人気俳優の1人となりました。 では、彼はどのような人生を歩んできたのでしょうか? ロジェ・アナンは、1960年、ジャン=リュック・ゴダールの作品に出演し、「勝手にしやがれ」(1959)でジャン=ポール・ベルモンドが演じる主人公のミシェル・ポワカールの仲間役を演じました。アナンはゴダールとクルーが撮影準備をしていた時に偶然にもその場にいたのです。そこで人々は、アナンに役を即興で作りました。(例えば、フランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」の中のジャンヌ・モローやジャン=クロード・ブリアリのような)その10年後、彼はギィ・ジル監督の「Le Clair de Terre」の中で主役の父役を演じることとなります。  1959年、ロジェ・アナンは、故ミッテラン大統領の妻の姉であるクリスチーヌ・グーズ・レナルと結婚します。彼女は、スパイ映画の「ゴリラ」シリーズを制作していました。そして、「ゴリラ」シリーズに出演していた俳優のリノ・ヴァンチュラから「全部が獣だ」(1959)でロジェ・アナンに交代することになります。その後、ヌーヴェル・ヴァーグを代表する作家、クロード・シャブロルは、アナンに「ゴリラ」シリーズのパロディである「虎」シリーズに出演してくれるよう頼みます。そして、アナンは「暗殺指令、虎は新鮮な肉を好む」(1964)、「スーパータイガー、黄金作戦」(1965)に出演しました。これら2つの作品は、シャブロルに再び全盛期のタッチを取り戻させることとなりました。アナンとシャブロルは、シェイクスピア作品「マクベス」の舞台にこの役を取り入れようとしますが、脚本家はその実現を諦めてしまいました。なぜなら舞台に合う役ではなかったからというのが公式な理由でした。また、呪われていたんだと言う人もいました。 そして、スパイアクション映画の代表作品の1つでもあるアレクサンドル・アルカディの「流血の絆/野望篇」(1982)に出演します。この作品は、ヒット作となり、そして続編となる「流血の絆」(1992)が作られます。その後彼は、映画だけでなくテレビドラマシリーズでも成功を修めます。ジャン・デュトゥールの小説をモチーフとしたエドゥアール・モリナロ監督の「ボン・ブール軒で」もその1つです。    俳優、監督として様々な活動をしてきたロジェ・アナン氏。彼は、きっと悔いのない映画人生を過ごしたでしょう。 担当:船津 遥(Indie Tokyo初投稿になります。なつはると呼んでください!皆さんに面白い!と思われるような記事作りをしていきたいと思います。これからよろしくお願いします。) http://ift.tt/1zMdcv7



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2015年2月14日土曜日

[World News #164] アメリカ市民社会の理想を体現した一人のジャーナリストの死  『ヒズ・ガール・フライデー』(ハワード・ホークス)や『パーク・ロウ』(サミュエル・フラー)など、強烈な職業意識に貫かれた筋金入りのジャーナリストは、かつてアメリカ映画が好んで描いた典型的キャラクターの一つだった。それはまさに、正義と公正を掲げたアメリカ市民社会の理想像そのものであっただろう。政府や大企業から与えられたニュースリリースをそのまま流し、タレントのファッションやゴシップ種を追いかけるだけの姿が巷で見かけるジャーナリストのイメージそのものとなりつつある現在、まるでフラーの映画からそのまま抜け出してきたかのような気骨あるジャーナリストが、それでもアメリカには存在した。それが、デヴィッド・カーだった。ニューヨーク・タイムズの名物コラムニストでありメディア・ジャーナリストであったカーは、2015年2月12日、映画『Citizenfour』を巡るディスカッションでNSA内部告発者エドワード・スノーデンや監督グレン・グリーンウォルドと議論した直後(#1)、ニューヨーク・タイムズ紙のニューズルームで倒れ、そのまま息を引き取った。58歳だった。(#2)  2008年に著した回想録「The Night of the Gun」(#3)によると、デヴィッド・カーは80年代後半までコカイン常習者だった。ドラッグ・ディーラーの妻との間に双子の娘を授かった彼は、ある日娘たちの安全のため麻薬常習者更正プログラムに参加することを決断する。やがてジャーナリストとなったカーは、アトランティック・マンスリーやニューヨーク・マガジンに寄稿した後、2002年ニューヨーク・タイムズに雇用される。深い教養と明晰な知性、歯に衣着せぬ明け透けな物言いと批判精神、そしてカジュアルな社交性とユーモアで瞬く間にトップ・ジャーナリストとなった彼は、同紙に署名入りコラムが掲載されるまでになる。  しかし、デヴィッド・カーを何よりも有名にしたのは2011年に製作された映画『ページ・ワン ニューヨーク・タイムズの内側』(監督アンドリュー・ロッシ)であろう。(#4)日本でも2012年の恵比寿映像祭で上映され(#5)大いに人気を博した同作は、筋金入りのジャーナリストであるカーの姿を多くの映画ファンの目に焼き付けることに成功した。同作でカーは、間違いなく主人公だった。ジャーナリズム界のチャンピオンとして長らく君臨してきたニューヨーク・タイムズ紙が、インターネットの時代になり、乱立するニュースサイトとの不利な闘いに苦戦する姿をドキュメントした『ページ・ワン』で、カーは印刷メディア側の代弁者として登場している。ニュースサイトの利便性を認めながらも、それらが一次情報に直接取材したものではなく、しばしば他の印刷メディアからソースを得ていることを彼は指摘した。そして、ニュースサイトのプリントアウトを見せた上で、もし紙メディアのソースが無くなればこれはこうなるとして、もはや枠しか残っていない白紙の紙をユーモアたっぷりに見せたのだ。  デヴィッド・カーと映画との関係はこればかりではない。アカデミー賞に頂点を迎えるアメリカのアワードシーズンに取材するニューヨーク・タイムズのコラム「Carpetbagger」を立ち上げたのが彼であったし、その中で数多くの映画祭を彼は取材した。そして、2010年のSXSWで審査員大賞を受賞した『Tiny Furniture』のレナ・ダナムを大手メディアで初めて取り上げたのもカーであり、さらにダナムをジャド・アパトーに紹介することで、後のHBOシリーズ「GIRLS/ガールズ」の大成功へと彼女を導いたのだ。(インスタグラムに投稿されたレナ・ダナム、そしてTwitterに投稿されたジャド・アパトーからの追悼メッセージをこの記事に添付した。)  Twitterなどのソーシャルメディア、デジタルメディアに誰よりも早く手を出していた彼は(#6)、あらゆる機会を利用しつつ、溢れんばかりのエネルギーでそのジャーナリズム精神を発揮した。『ページ・ワン』を見た人間、あるいは彼の残した様々な記事やニュース番組などでのパフォーマンス、声や身振りに触れたことのある人間であれば誰しも、その政治的立場や支持するメディアなどの問題を離れ、デヴィッド・カー個人のことを深く愛さずにはいられなかっただろう。媒体が紙からデジタルに移行するにせよ、ジャーナリズムの基本はあくまで人間の仕事なのだと主張したデヴィッド・カーは、その生き様そのもので自らの言葉を実践したのだ。 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ 第3回新文芸坐シネマテーク 植民地行政官の娘 クレール・ドゥニ ■3/6(金)『パリ、18区、夜。』 J'ai pas sommeil 開場19:30 開映19:45 講義終了22:40(予定) ■3/13(金)『35杯のラムショット』 35 rhums  開場19:15 開映19:30 講義終了22:15(予定) http://ift.tt/1uR44n5 #1 http://ift.tt/1KQI5SS #2 http://ift.tt/1uLWCeJ #3 http://ift.tt/1uD3HsM #4 http://ift.tt/1jMwvIt #5 http://ift.tt/1JcbJVb #6 http://ift.tt/YslgAw

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2015年2月13日金曜日

[World News #163]スパイダーマンがマーベルに戻ってきた! ソニー・ピクチャーズが2017年に公開される新作映画『スパイダーマン』に向けてディズニーの所有するマーベルと提携を組んだことを9日、発表した(*1)。1999年にマーベルが700万ドルで権利を売り渡して以来、スパイダーマンのキャラクター権はソニー・ピクチャーズが所有していたが、従来のマーベルに再び権利が戻る形となった。マーベルとの提携後もソニー・ピクチャーズが引き続き配給、資金調達、所有などの最終決定権をもつとのことである。 スパイダーマンという魅惑的な特権を所有しながら前作『アメイジング・スパイダーマン2』では落ち込みをみせてしまったソニーと、最新作『ベイマックス』などヒーロー映画で予期せぬ成功を収めたディズニーのマーベル。本来であれば競合他社である両者の異例のチームアップといえる。 ソニー・ピクチャーズのCEOマイケル・リントン氏は今回の提携について「シリーズにとって、ビジネスにとって、マーベルにとって、ファンにとって正しい決定だ」、ウォルト・ディズニーのCEOボブ・イガー氏は「スパイダーマンは世界中で愛されているマーベルの誇るべきキャラクター。新たな素晴らしい機会となるだろうソニーとの提携に興奮している」とコメントした。マーベル・スタジオのトップ、ケヴィン・フェイジ氏は「我々の参入により、クリエイティブ面における継続性と信頼性をファンの期待通りに届けていきたい」と述べた。 2017年夏に全米公開が決まった両社提携の『スパイダーマン』に合わせ、マーベルは既に4作品の公開日の再調整を行った。2017年7月28日公開予定だった『Thor: Ragnorak(原題)』は同年11月3日に、同年11月3日公開予定だった『Black Panther(原題)』は7月6日公開と前倒しとなった。 マーベル映画として初公開される新作『スパイダーマン』には、『アメイジング・スパイダーマン』『アメイジング・スパイダーマン2』の過去最新2作でスパイダーマン役を演じたアンドリュー・ガーフィールドではない新しいキャストの起用が決定しているとのこと。さらにソニー・ピクチャーズは、2017年の『スパイダーマン』より先駆けて公開されるマーベルの“ある作品”にスパイダーマンが登場するというプレスリリースを発表。両社はその作品名については言及しておらず詳細は未定だが、スパイダーマンが主役を務める『キャプテン・アメリカ/シヴィル・ウォー』、『ドクター・ストレンジ』、ジェームズ・ガン監督の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー2』のどれかではないかとファンの間で噂される(*3)。 二束のわらじ状態となったスパイダーマンだが、ソニー・ピクチャーズとマーベルはそれぞれどのように利益分けするのだろうか。Variety(*4)によれば、「マーベルが『キャプテン・アメリカ/シヴィル・ウォー』にスパイダーマンを出演させても権利料を支払わず、『スパイダーマン』から興行収入のパーセンテージも受け取らない」、ソニーも同様に「スパイダーマンが出演したマーベル映画から利益を受けない」とのことで、意外に淡白な関係性といえるかもしれない。権利の枠を超え、より自由に登場してくれるであろうスパイダーマンに期待がかかる。 記事・内山ありさ(早稲田大学) *1 Spider-Man Returns to Marvel; New Movie Coming in 2017 http://ift.tt/16MTfsH *2 'Spider-Man' Swings to Marvel Studios in Major Sony Partnership http://ift.tt/1COuavq *3 SPIDER-MAN Swings into the MCU; Will First Appear in a Marvel Movie before New Solo Film http://ift.tt/1zyvCe0 *4 Spider-Man: How Sony, Marvel Will Benefit from Unique Deal (EXCLUSIVE) http://ift.tt/1DCiTNY



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2015年2月11日水曜日

[World News #162]トッド・ヘインズ監督と組む名プロデューサーが指導する映画学科が出来ます。 新たにアメリカで映画を学ぶ場所が増えます。ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校大学院の MFA(美術学科)に映画専攻のコー スが出来ることになりました。「新 世代の映画人を輩出している他の大 学の流れに参加するべく、サウサン プトン、NYそしてマンハッタンのそ れぞれで修士の学位を取れるプログ ラムになる」(※1)ようです。 今回、この学科が注目されるのは大 学院ディレクターとして、インディペンデント系映画プロダクションであるキラーフィルムズの創立者のひとり、クリスティン・バションが任 命されたからです。彼女は、『ベル ベット・ゴールドマイン』や『エデ ンより彼方に』、『ボーイズ・ドン ト・クライ』などで有名なトッド・ ヘインズ監督と組み、多くの映画を 世に送り出している名プロデュー サーです。他にも多数の映画に関 わってきた彼女は、今回の就任演説 でこう語ります 「伝統的なフィルムスクールのモデルを再開発しようとすること、そしてそのモデル自体をひっくり返してしまおうとすること、そうしたことを続けるのが私にとってワクワクすることなのです」(※1) つまり、どういうことか。この新しい映画専攻コースでは、「キラーフィルムズとの共同制作の機会を学生に提供することで、実践と普段の授業を結びつけることを狙ったプログラムを組みます。」(※1)というように、実際のインディペンデント映画の現場に近いところで映画を学ぶモデルを模索していくようなので す。学問の世界、あるいは理論の世界に閉じこもらずに、現場で未来の映画人を育てて行こうという姿勢 は、日本ではあまり多くないモデル で新鮮です。 また、彼女は先日ストーニーブルック映画祭で賞を受賞したときには、 「自らの豊富な経験を共有するべき であること」(※2)や、「映画祭に 限らずソーシャルメディアなどで自 分の映画を誰が見てくれるかを知っ ていくこと、それにより観客を作っ ていくこと」(※2)、などと重要な ことを語っています。また、7月に彼女が指揮を取った20日間で20本の短編映画を20人の学生に撮らせる奨学 金の制度なども具体的で面白いで す。 クリスティン・バションが担当するのは三年間だけのようですが、彼女がきっかけとなりストーニーブルック大学からどんな映画人が出てくるのか。この大学のことは、頭の片隅においておきたいです。何故なら、面白いひとは何処から出てくるのか分からないと思うからです。 http://ift.tt/1zsxHrU http://ift.tt/1CPZ3iZ reer-and-advice-be-platform-ag nostic(※2) 三浦 翔 http://ift.tt/1ofDLiA 映画雑誌NOBODY http://ift.tt/1iv7YL4 横浜国立大学人間文化課程 http://hs.ynu.ac.jp/

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2015年2月9日月曜日



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[World News #161] コダックが映画フィルム供給継続を正式発表  すでにご存知の方も多いと思いますが、2月4日、コダックがハリウッドの大手スタジオ6社(20世紀フォックス、ウォルト・ディズニー、ワーナー・ブラザーズ、ユニバーサル、パラマウント、ソニー・ピクチャーズ)との間でフィルム供給に関する新たな契約を結んだことを発表しました。(#1)The Hollywood Reporterの記事によれば、この契約締結によってコダックは年間約5億ドルの費用が掛かる映画用フィルムの生産を「ビジネスとして意味をなす限り」継続することができるといいます。(#2)  そもそもなぜこの発表が大きなニュースとして扱われているかといえば、現在、大手では映画用フィルムを生産する唯一の会社となっているコダックが、近年の販売量の大幅な下落に伴いフィルム工場閉鎖に踏み切ろうとしていたからです。昨年の7月、その“フィルム絶滅の危機”に対してクエンティン・タランティーノ、J.J.エイブラムス、ジャド・アパトー、クリストファー・ノーランといった映画監督らが大手スタジオと交渉し、コダックがフィルム生産の継続を決定したことが大きな話題になっていました(この時のニュースは以前IndieTokyoでも内山ありささんが取り上げています)。(#3)  今回の正式合意に際してコダックが出したリリースでも、同社のエンターテイメント&コマーシャル部門代表のアンドリュー・エヴェンスキ氏の以下のような声明が掲載され、映画の作り手たちがフィルムを必要としていることが強調されています。 「私たちはフィルムメーカーたちにフィルムの価値が何にあるのかを訊ねてきました。彼らの答えは、特別な奥深さや独特な粒子などさまざまなものがありましたが、圧倒的に多かった答えが“物語”です。彼らは自分たちの物語を自分が思い描いたように語るためにフィルムを必要としています。そしてフィルムが視覚的言語において欠かせないものであり続けることを切望しています。フィルムの使用は彼らが映画史の一部となる作品を作るための手助けとなるでしょう」(#1)  そしてその発言を裏付けるかのように、『6才のボクが、大人になるまで。』『グランド・ブタペスト・ホテル』『イミテーション・ゲーム』『インターステラー』『フォックスキャッチャー』など今年度のアカデミー賞にノミネートされている多数の作品、あるいは『スター・ウォーズ Ⅶ』や『ミッション:インポッシブル5』『バットマンVS スーパーマン』など現在製作中の話題作がフィルムで撮影されていることも記されていました。  が、私たちが今回のニュースを歓迎しながらも忘れてはならないのは、現在において上に挙げたようなフィルムで撮影される作品はあくまでも例外的なものであるということでしょう。先月FILMMAKERに掲載された記事によれば、2014年に全米公開された映画の中で35mmフィルムで撮影された作品はわずか39本しかなかったそうで(#4)、つまり少なくともアメリカにおいてはもはや大多数の作品がデジタル撮影で作られているのが事実。そして、そのわずか39本の作品の中でアカデミー賞にノミネートされた作品が占める割合の大きさを考えると、例外的な方法で撮影された作品がメインストリームを作っている、言い換えれば名の知れた監督でなければフィルムで撮影することが許されなくなっている現状――ある種、ジョージ・ルーカスが巨額の予算のもと『スター・ウォーズ エピソード2』をハイビジョンで撮影した15年前とは逆転した状況が生まれているように思えます。  QUATZというアメリカのビジネスニュースサイトでは、今回のコダックの発表を受けて「ハリウッドは何故デジタル開拓の後にフィルムを救おうとしているのか?」と題した記事が掲載されました。その記事は、現在もフィルムで撮影をするタランティーノやノーラン、スピルバーグのことに触れた上で、以下のように結ばれています。 「もちろん予算のないフィルムメーカーにとっては、フィルムで撮影して現像するとずっと費用がかかってしまう。これがインディーズ監督たちの多くがデジタル時代を受け入れている理由だ。サンダンス(映画祭)では全てをiPhone5Sで撮影した映画(”Tangerine”)まで登場した。彼らはもう後戻りはできない。しかし、世界最高のフィルムメーカーの何人かはコダックの契約によって引き続き選択の余地を残すことができた――せめてほんのわずかな間でも」(#5)  そう、私たちはもう後戻りはできないのです。2月6日にVarietyに掲載された記事(#6)によれば、2014年の段階で全世界の89.8%の映画館のスクリーンがデジタル上映設備に移行したそうです。さらにコダックの契約締結のニュースが流れた4日には、米大手ストリーミングサービスのNetflixが今秋ついに日本にも上陸することが明らかになりました。私たち観客を取り囲む上映環境、視聴環境は、すでにフィルムを必要としない環境に変化しています。その中で、フィルムが一握りのフィルムメーカーのみが使用できる贅沢品としてではなく、多くの人に開かれた選択肢として生き延びるためには、さらなる技術開発、そしてフィルムを存続させようとするより強い意志が必要になってくるのではないでしょうか。 黒岩幹子 #1 http://ift.tt/16q7HXA #2 http://ift.tt/1zBkX5R #3 http://ift.tt/1za6rPU #4 http://ift.tt/1zzshjx #5 http://ift.tt/1v8cinl #6 http://ift.tt/1C1dhYR

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2015年2月5日木曜日



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〔World News #160] 「スクリーンを解放せよ!」 L’ACIDがやってくる!    “L’ACID”という名のフランスの独立系映画配給組合のことをご存知だろうか。  今、アンスティチュ・東京にて、アンスティチュ・フランセ日本とカイエ・デュ・シネマ誌が提携して選りすぐりのフランス映画を紹介するイベント、第18回『カイエ・デュ・シネマ週間』が開催されている。(*1) そこで、『プティ・カンカン』(14)で一躍時の人となったブリュノ・デュモン監督作品や彼の敬愛するジャン・エプスタン監督の作品と共に、三つの独立系映画が上映される。  ジン・カレナール監督の『ドノマ』(2011)、オレリア・ジョルジュ監督の『少女と川』、ヴィルジル・ヴェルニエ監督の『メルキュリアル』(2014)の三作品である。これらの耳慣れない三つのインディペンデント作品を擁護し、配給などの援助を行ったのが、他でもない“L’ACID”なのであるが、一体“L’ACID”とはどんな組織なのか?槻舘南菜子さんによる、オレリア・ジョルジュ氏へのインタビューをもとに、簡単にご紹介したい。彼女は、今回上映される『少女と川』(14)の監督でもあり、現在組織の共同代表でもある。尚、このインタビューは「NOBODY」次号に掲載される予定だ。 L’ACIDは、1991年に、巨大資本の投入されたパテ社やゴーモン社などの大手チェーン配給の作品がスクリーンを占拠していることに異を唱えた約180人もの独立系映画監督が、「抵抗」のマニフェストに署名をしたことから始まっている。彼らは、独立系作品の居場所を取り戻すために組織を形成、拡大していった。    そして、独立系作品が“普通に”配給されるため、つまり誰もが作品にアクセスできるように、大都市だけでなく小さな街でも持続的に見せる場を作るために、92年にL’ACIDが設立される。翌93年から、カンヌ国際映画祭で監督週間・批評家週間に次ぐ併行部門としてプログラムを組み、彼らが擁護する作品を世界へ紹介し続けている。現在に至るまで、ドキュメンタリー、フィクションなど450本以上の作品の劇場公開、海外配給に成功しており、2012年には20周年を記念してシネマテーク・フランセーズでレトロスペクティヴが開催され、そのプログラムには、ブリュノ・デュモン、アラン・ギロディーなど、現在のフランスを代表する作家が名を連ねている。    国内、国外での配給会社の手配、外国の映画祭上映の実現を目的に、数多くの映画祭と提携をしているL’ACIDだが、なかでもカンヌのL’ACID部門(200〜300本の中から9本を選出)は、彼らが擁護する作品の重要なショーケースとして機能している。監督週間や批評家週間週間とは異なった、より自由で、小さな作品のための部門と言えるだろう。自国の映画に限らず、外国作品の配給援助にも非常に積極的で、今やベルギーやアルジェリアなどの外国作家にも必要とされる存在となっている。(因みに、カンヌのセレクションは国籍の所在や共同製作かなどに関係なく作品を募集しているにもかかわらず、日本映画は未だかつて一本も送られてきたことがないそうだ。)    現在、組織はCNC(フランス国立映画センター)やUnifranceなどからの出資と、数名のスタッフと多くのボランティアによって運営がなされている。複数の独立系配給会社との提携と、300を超える独立系映画館との長年のパートナーシップを基盤に、毎年、20本〜30本の作品がL’ACIDの援助により劇場公開され、そのほかにも国外での特集上映や、独立系映画館でのL’ACID作品の再上映も行われている。また、必ず上映後に映画製作者と観客とのディスカッションの場を設け、毎年300以上の上映後のレクチャーやシネコンサートを実施。シネクラブ文化の継承を担っている。  映画製作のための様々な金銭的援助が、ほかの国と比べ比較的充実しているフランスでさえ、若い作家たちを取り巻く環境は決して楽ではない。商業的な映画とは異なった、インディペンデント映画の重要性を取り戻すために、常に戦い続けなければならないとジョルジュ氏は述べている。監督たちの怒りから生まれたL’ACIDという組織は、これからも世界中の映画監督へ手を差し伸べ、独立系映画の可視性に関する問題に、真っ向から立ち向かい続けるだろう。 『少女と川』と『メルキュリアル』は2/8(日)と3/14(日)に、『ドノマ』は3/15(日)に上映される。2/8(日)の『メルキュリアル』の上映後には、ジャン・セバスチャン・ショーヴァン氏(「カイエ・デュ・シネマ」編集委員、映画監督)と、松井宏氏(映画批評、翻訳)の対談が予定されている。 日本に居ながら、刺激的な最新のフランスインディペンデント映画に触れることができる数少ない機会である。 この週末、ぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。 松崎 舞華 (IndieTokyo初投稿になります。どんどん世界中の刺激的な出来事を取り上げていきたいと思います!よろしくお願いします!) (*1)http://ift.tt/1DhBbDO

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2015年2月4日水曜日



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Les Inrocks - On y était : Master Class de Francis Ford Coppola à la Cinémathèque de Paris

[World News #158] フランシス・フォード・コッポラ、 パリのシネマテークにて「マスタークラス」を行う  先週の土曜日、シネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワ劇場はこれ以上ないほど、多くの人々で埋め尽くされていた。それもそのはず、セルジュ・トゥビアナ館長がフランシス・フォード・コッポラをこの日のために呼び寄せていたからだ。(*1) マスタークラスではまず、コッポラがジョージ・ルーカスと共に設立したスタジオ、アメリカン・ゾエトロープについて話しはじめる。  アメリカン・ゾエトロープは、コッポラがハリウッドの古きシステムに対抗し、映画スタジオ制作を革新させるために立ち上げられたものだという。セルジュ・トゥビアナ氏の言葉を借りれば、アメリカン・ゾエトロープは現代における「デジタルシネマの考古学」であり、2つの主な目的があったという(*2): ・アーティスト仲間たちの共同体が、この先も美しい映画を作りたいという志を持って仕事ができる、演劇の劇団に似通ったような居場所を作ること。 ・ビデオシネマ(Vシネ)に傾倒することで、技術を革新させること。何故なら、技術の進歩は、エクリチュールと映画を考案する方法さえも進歩させるからだ。  若き日のコッポラがジェリー・ルイス監督の『底抜けもててもてて』(1961)でアシスタントをしていた際に、初めてカメラとモニター・ビデオで撮影することを前の当たりにし(今となっては珍しくないが、当時としてはアヴァンギャルドな技法だった)、その発想は後に『ワン・フロム・ザ・ハート』で生かされることになる。こういった経験から、新たな技術や技法を積極的に映画製作に取り入れていくためにも、コッポラはアメリカン・ゾエトロープという、映画製作において融通の聞くプロダクションを自ら望んだ。しかし、そのユートピアともいうべきスタジオは、夢半ばで破産してしまう。そのことに対し、Les inrocksのSerge Kaganski氏のように、それはコッポラのほかに有能な映画作家が在籍していなかった為、と述べる者も少なくはないだろうが、やはり配給の問題が一番大きいようだ。「もし映画がどのように配給されるのかをコントロールしなければ、プロダクションの予算をコントロールすることもできない」(*2)とコッポラも言及しているほどである。  続いて、マスタークラスでは現在と未来の映画について言及が行われ、コッポラは3Dについても少し言及している。 フランシス・フォード・コッポラ:「3D技術はすでに1950年代にも存在していましたし、『アバター』や『ヒューゴの不思議な発明』など、幾つかの映画ではうまく機能しています。しかし、映画の未来はそこにありません。小説がフロベール、ドストエフスキー、そしてジョイスらによって革新されたように、まず、私はエクリチュールの変革からそれを見て取ります。次にドキュメンタリーとフィクションの融合の中に、そしてテレビの生放送におけるプロセスのなかに、映画の未来を見ます。何故なら、映画はヴァーチャルなものとなりつつあるからです。150年ものあいだ、いくつかの芸術、音楽から、写真や映画に至るまで、すべては機械を用いた複製物でした。「箱」(媒体)に入れることができたのです。今日では、インターネットは映画やコンサートなどを、世界各国の幾つもの劇場へ生放送することを可能にします。インターネットは、映画をあらゆる意味で、その形態を進化させるための、一種の新しい道具なのです。例えるなら、もはや劇場と、テレビとパソコンの間に差異などなくなったのです。これらはすでに終わったことなのです。観客はどこでも、自分の好きな時に、どのスクリーンでも映画を見られるようになり、もう映画そのもの(シネマ)しか残らなくなったからです。」(*2)  意外にも、コッポラは映画館で映画を見るということに、もはやそれほど重要性を感じておらず、「映画を見る」という体験そのものだけに重点を置いているようだ。しかし、この見解は決して、コッポラのみに限ったことではなく、それはアメリカにおいて割り切られている姿勢とさえ思わせられる。アメリカでフィルム上映施設が少なくなってしまったのも、結局のところDCPによる上映を、デリバリー・システムとして割り切っているところにあるからではないだろうか。要するに、フィルムというモノ自体に拘らずに、映画そのものに重点を置くといった考えが浸透しているということなのか。ともあれ、コッポラは現代における映画の配給のあり方が変わってきていることを肌身で感じているからこそ、こういった結論に達しているのではないかと思われる。  『ゴッド・ファーザー』や『地獄の黙示録』で成功を収めた、名高いコッポラだが、新たな技術や技法に挑戦することを厭わず、映画製作の可能性をより豊かにしようと、自由な映画を作れるよう常に闘い、挫折を幾つも乗り越えてきた映画作家だということが改めて伺えるマスタークラスだったようだ。  「ある日、私がジェリー・ルイスの例の撮影現場に居たときのことです。その日は彼の誕生日で、ものすごく大きなケーキが用意されていました。当時、常に腹を空かせていた私は、ジェリーのビデオ設備よりも、むしろケーキの方に目が釘付けになってしまいました。彼がケーキを切り分け始めたとき、私はいち早く近寄りました。しかし、自分のぶんを取るまえに、自分の友人やスタッフたちへ、ケーキの入ったお皿をまわしていかなければなりませんでした。そして私は一つずつお皿をまわしていきました。一つ、また一つと。すると最後には自分のぶんのケーキがなくなっているのです!まるで私の人生のメタファーのようですね!」(*2) 楠 大史 参考文献: http://ift.tt/1DBe9pv http://ift.tt/1CW50td

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2015年2月3日火曜日



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[World News #157] アフリカ映画監督 アブデラマン・シサコ氏インタビュー カンヌ映画祭に出品され、話題を呼んだアブデラマン・シサコ監督『Timbuktu』が、アカデミー賞の外国語映画賞にモーリタニア代表としてノミネートされたことで再度注目が集まっている。 監督は、マリ共和国に生まれ、モーリタニアで育ち、現在はフランスに住んでいるアブデラマン・シサコ。本作は彼の4本目の長編作品である。街の占領時の紛争に巻き込まれて死んだ恋人たちの報道に基づき、マリに住むイスラムの人たちの間に根強く残る文化の対立、言語の壁などの根強く残る影をフィクションの形で強烈に映し出した。 Filmcomment誌で行われた監督のインタビューを以下に訳出する。 ――あなたの映画は欧米の国にアフリカ的な視点を伝えようとしているように見えます。どうやって撮影にはどう取り組みましたか? はっきりとした意思をもって作ったわけではありません。違いを強調しようとしただけです。住むところに関係なく人間は等しく、しかし人間像は同じではないというのが僕の考えた問題でした。どこの文化もそれぞれの問題を孕んでいて、その問題の違いが、人間が住んでいる場所によって違っているように見える原因なのです。アフリカの人々は、西洋人から見ると不思議な暮らしをしているように見えます。それが実はヨーロッパの人たちと変わらない生活をしていたとしても。本当は、地理的な住むところの違いや、現在起こっているような対立の違いが、特異性を与えているのです。 ――ナイジェリアのノリウッドのおかげで、アフリカは映画産業において3番目に大きい市場です。その数字だけで欧米とのギャップを感じさせなくなっていますが? 事実として、ナイジェリアは今、巨大な映画産業があります。それは、ナイジェリア国内で消費される映画です。しかし同時にナイジェリアは、大量のタイヤと大量の偽物の薬を作っている国であることを忘れてはいけません。生産性がものを言う国で、ナイジェリアにおいては、質は二の次なのです。車の部品も作っていますが、広く普及するようなものではないと思います。とはいえ映画においては、彼らの映画を見ると、ナイジェリアでの彼らの日常が反映されていてとっても面白いと思います。 ――この映画を撮影するにあたって、報道の他に基にしたものはありますか? インスピレーションを受けたのは、そこに住む人々からでしょう。ご近所さん、ご近所さんのご近所さん、牛乳屋さんのお兄さん――出会ったすべての人です。普段何をしているか誰も知らない「匿名の」人と言ってもいい。僕が電車や、道端で見かけた10歳の子供を持つ女性も、誰なのかは全くわからない。でも、彼らもまた僕にインスピレーションを与えてくれるんです。 ――『Timbuktu』には、様々な立場の人が出てきます。完全にストーリーからは独立した人もいますね。そういった人たちには編集過程でどのようにアプローチしたのでしょう? 一本の筋の物語のあるような映画でないのは事実ですね。ちゃんと筋の通った脚本がもともとあって、その通りに撮影して編集するなら場所は関係なく作ることができるのですが、僕はトゥンブクトゥという場所で撮影しながら考えながら、いろんな人と出会って面白いアイデアを付け加えながら撮影するのが好きで、僕にとって映画を撮ることはそういうものだと思うのです。その時その時の感覚で撮影した沢山のイメージをよく考えて繋げる必要があるので、僕の映画それ自体は、とっても脆いものなんだと思います。その時々で撮ることができた生き生きとしたイメージを並べるのは楽しい。 ――撮影の計画を立てている段階で、撮った映像すべてがうまくつながると思っていたんですか? 撮りながら考えました。頭の中にたくさんアイデアを組み立てていくのですが、それは僕と違う考え方をする人と一緒に映画を撮っていると、しばしばトラブルが生じるからです。撮影をしながらその都度変えるところは変えていきます。 カンヌ映画祭の他にも、すでにいくつかの映画祭で受賞しており、オスカーの行方も気になるところ。日本での公開は未定。 則定彩香(のりさだちゃん) カンヌ映画祭HP ストーリーはこちらから http://ift.tt/1KmOZgs Filmcommentインタビュー http://ift.tt/1KmOZgu Timbuktu IMDb http://ift.tt/1HMMin3

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2015年2月2日月曜日



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[World News #156] グリーク・ウィアード・ウェーブ:後編 (ギリシャの奇妙なニューウェーブ)  [World News #152]で訳出した 「Short guide to the Greek weird wave」(#1)(「Mapping Contemporary Cinema」掲載)前編(#2)に引き続いて、その後編を以下に訳します。 ------------------------------------  映画をマッピングすることは疑いなく複雑な作業だ。『アテンバーグ』や『アルプス』はラース・フォン・トリアーの破壊的作品に起源を求めることが出来るだろうし、グズグズした、殆どドキュメンタリーのようなその映画へのアプローチはオーストリアの映画作家ミヒャエル・ハネケを思い出させる。その工場のビルへの探求において、『アテンバーグ』はまた、ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』(64)を直接参照している。実際、これら全ての作品はエドワード・ローレンソンがアントニオーニ作品について指摘した「都会の風景が持つ感情的な表現可能性に対する感性」を共有しているのだ。『籠の中の乙女』と同じ撮影監督が手がけた『L』(2012)は、ロベール・ブレッソンの作品に見られる非中心化された物語形式を備えている。「グリーク・ウィアード・ウェーブ」という概念に何らかの有効性があるとするならば、これらの作品は、その際だったスタイルと拗くれた物語の双方において、その呼び名に相応しいものだと言って良いだろう。  ギリシャ同様経済危機とそれに連なる緊縮経済を強いられたアルゼンチンの現代映画に焦点を当てたエッセイにおいて、ロザリンド・ガルトは、それらの映画がネオリベラリスト的な世界観に対する挑戦であると議論している。彼女によると、「意味づけへの抵抗や社会的生産性の一つの歯車になることへの妨害」こそが「彼らの抱く未来像に対する拒否」へと繋がるのだと言う。この点において、彼女はまた「クィアであることが標準的である映画の可能性」も明らかにしている。紋切り型の映画言語を再確認するだけのお馴染みの手法ではなく、奇妙なやり口を取ることで、これらの作品は因習に揺さぶりをかけるのだ。「そこには邪悪さやシュールさがきわめてしばしば存在しているが、しかし、その意味するところは不明瞭である」。こうした意味の欠如は、表面的な単なるスタイルではなく、積極的な政治性を伴っているのだ。  グリーク・ウィアード・ウェーブをこの国で過去に作られた映画と分け隔てる主要な要素は、その国際映画祭に於けるプレゼンスと成功である。これは確かに、彼らの作品がギリシャ国外でも認知されていることのある程度の指標とはなるが、結局のところ、それ固有の問題がない訳ではない。ロザリンド・ガルトによると、映画が国際映画祭に向けて作られるようになると、「映画の美学はマーケティングに対して下位に置かれることとなり、それは資本家のロジックに対して何の抵抗も出来ないまま迂闊に賛同してしまう結果へと結びつくのだ」。こうした皮肉な見方は、『ミス・バイオレンス』(2013)や『スタンディング・アサイド・ウォッチング』(2013)といった作品の登場によって裏付けられる。前者は『籠の中の乙女』と似た物語を扱い、後者は『アテンバーグ』と比較されている。また両者ともに国際映画祭にエントリーされているが、しかし、それらは共に物語へのアプローチにおいてはるかに因習的な作品に過ぎない。これに加え、現時点でギリシャから送り出される大多数の映画が、さほどの批評的な注目を浴びるに値しないとみなされている点が上げられる。それゆえ、グリーク・ウィアード・ウェーブのその後のサイクルに属する多くの作品が、『籠の中の乙女』が引き起こした波に乗っただけに過ぎず、世界的経済危機の中、その先駆けとなったギリシャに対して注がれたメディアの注目によってウェイトを高められたに過ぎないと結論づけることが出来るだろう。すなわち、グリーク・ウィアード・ウェーブは、既に退潮しつつあるかも知れないのだ。 Written by Oliver Westlake, (2014); Queen Mary, University of London 大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他) Twitter:http://ift.tt/NSy3rx Facebook:http://ift.tt/1knGQPv blog:http://blog.ecri.biz/ 新文芸坐シネマテーク、次回は3月上旬開催! http://ift.tt/1uR44n5 #1 http://ift.tt/1E68x7a #2 http://ift.tt/1ztpoRN

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